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生き方を変えることで、考え方が変わっていく。

「考え方を変えなさい」という言葉を自己啓発などでよく耳にしますが、私はこれがどうも人格否定のように聞こえてしまい、トライしようにも返って頑なになってしまうことがありました。

ある日、考え方を変えるというより、生き方を変えるということなんだなぁと気づき、しっくりきたのを覚えています。今まではこんな道でこんな景色だったけれど、これからは、違う道の違う景色を見て歩こう。

それは、あっちにヒマワリが咲いているから行ってみよう!というシンプルな気持ちと同じなんです。そういうことかと気づいたら「考え方を変えなさい」という言葉を怖がらずに捉えることができました。旅行をしていて、あそこの神社見てみない?自転車を借りて海まで出てみよう!というように。そういう意味で、人生は実に旅なんですね。

違う道を歩き、見る景色を変えると、今までとは違う感動を知り、美しいと感じるもの、愛しいと思えるものが変わってくる。今までの定義が変わってくるんです。それは、信じるものが変わってきているんですよね。そしてその状態こそが「人生は自分で選んで、自由に感じていい」という状態なのだと私は知ったんです。

ところで、「考え方を変えなさい」と同じく「自分を許しなさい」という言葉もまた私は引っかかっていました。この言葉は人格否定ではなく、我慢を強いるように聞こえていました。組み合わせる言葉によっては、自分を・相手を許しなさいって、我慢しなさいよって聞えちゃうんです。

でも、世の中には許せないこと、許しちゃいけないことってあって、そこに蓋をしてしまっては、NOという素晴らしい表現を台なしにするようで、だから私は、許すという言葉がなんだか胡散臭かったのです。

ちなみに、NOは素晴らしい表現です。境界線があるから、道が国がコミュニティが生まれます。世の中には断ることができない、断らないこと前提の盟約のない状態が多過ぎます。暗黙知、無言のYES、忖度がこう多くては、人々は怖くて関係性を築けませんし、飛び込むことも怖いので、物事をトラブルなくスムーズに進めて成果を出すことが困難になります。

暗黙知を明文化してお互い認知やビジョンを統一せずに、期待と思い込みで押し進めてしまい、トラブルやボタンの掛け違いが起きるシーンをたまに見かけます。失敗や上手くいかなかったことは仕方ないですねと、変わらないことを選択をして。そういう環境には「我慢が美徳」の思想が蔓延していて、心理的・生理的に苦しいと表現することさえ、弱いとみなされてしまう。

そんなトラウマを何度も経験してきたものだから、許す?胡散臭いわぁと感じていたのです。そう考えると、いかに世の中にはおかしな常識がはびこっているか……。

だけど、これから自分はどんな「生きる道」を選択しようと考えたとき、今までとは違う道を歩いていいんだ、見たい景色を自分で自由に選んでいいんだという気持ちにふとなれて、あっ、許すってこういうことかと思えたんです。

その道を歩いていいと、自分を許す。あなたと私は見たい景色が違うんだと気づき、相手の道を許す。おもしろい表現ですが、自分を許すって「私は私に許可します」みたいなものですよね。言葉ってプログラミングなので、細かい表現や定義の違いは、特に私のような偏屈には、実はけっこう大事だったりします。

何かのきっかけで人生観が変わって、今までとは違う道を歩いていいんだよ、見たい景色を自分で自由に選んでいいんだよ、そう心にしっくり落とし込めると、自ずと生き方が変わって、考え方も変わる。私は、これが自然な「考え方を変える」だと思っています。

私は無理は嫌いです。自然が好きです。だから、無理に自分を変えようとしない本当の自分らしさに出会えればいいなと思っています。生き方を変えることが、美しさにも似たあなたらしい考え方に変わりますように。

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