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国家の不条理に抗う精神(前編)-なぜ国家の不条理を追認するのか-

 国家は、自由と民主主義を理念として掲げている国も含め、巧妙な形で国家に都合のいい主張に人々を従わせるよう、常に誘導を試みる性質を持っています。日本の歴史において、国家が人々を誘導した最悪の結果は、1931年の満州事変による中国侵略に始まる朝鮮、台湾植民地の人々も含めたアジア諸国民への迫害、虐殺、略奪であり、また、侵略を拡大した結果、世界中を戦争に巻き込み、1945年の敗戦に至るまでに民間人を含め多くの犠牲者を出したことでしょう。 

 満州事変以降、日本人が誤った国策を追認したのはなぜなのでしょうか。前編の今回は戦後も戦争責任を追究できない理由、また戦争中どのような論理思考に人々が陥ったのかを学徒兵の手記から考察してみたいと思います。


戦争責任を追及できない日本

 戦争から78年が経過しようとしている日本において、8月という月はかつて日本は戦争をしていた、と意識することを中心としたイベント月と化している。そこには、なぜ、日本が国策を誤り、中国をはじめとしたアジア諸国に侵略戦争を重ね、人命、財産を奪い、主権を侵害し、また当時支配下にあった朝鮮、台湾などの植民地の人々を戦争に巻き込み、戦争遂行に必要な労働力として非人道的で過酷な扱いをしたのかが追及されることはほとんどない。食料をはじめとした生活に欠かせない日用品に欠いて生活に苦労をした、空襲によって悲惨な目に遭った、疎開先でも食べ物に事欠き、地元の人に白眼視されたといった、被害者意識のみが強調される傾向にある。

 なぜ日本が戦争を起こしたのか、当時の人たちは誤った国策を意識できなかったのか、という側面からの検証、考察がなければ、真の意味で戦争を否定することにはならない。しかし、戦争を起こした当事者である軍人はもちろん戦争を支持し、積極的に協力をした政治家、財界人、名望家、メディア、文化人、知識人、宗教関係者らがきちんと責任を追及された状況にはない。戦後形式的にGHQの指令で戦争に協力したとされた人々が「公職追放」されたものの、責任の追及がGHQという上からの指令ということや日本側に保守はもちろん進歩の側も責任を主体的にきちんと追及し総括しようという意識を欠いていたこともあり、すぐに追放解除され、戦争責任の問題は曖昧な形で処理されてしまった。丸山眞男も指摘しているが、私は戦争に限らず責任を曖昧にする体質に日本の戦争責任を追究できない、できなかった原因があるのではないかと考えている。

学徒兵が戦争での死を受け入れた論理

 本題に戻そう。戦争責任を追究できない、できなかった状況は、戦争中に国策に抗えなかった知識人、学者、知識人、学者の予備軍である大学に通う学生、ナンバースクール(※1)の学生の姿勢にも表れているのではないだろうか。以前紹介した「世界史的立場と日本」で戦争に協力した京都学派の学者たちの姿勢が問題であるのは当然として、(※2)その影響を受けたであろう戦時中の学生も国策に抗うという発想ができていなかった。仮に国策の内容に違和感があったとしても、国策の方向性には国を超えた大義なり理念があるとして、国策自体を受け入れてしまうのである。学徒兵である林尹夫は戦争で死ぬことを正当化した際に次の論理で肯定した。

 社会的に否世界史そのものの性格上やむをえぬ犠牲であろう。しかし一個の人間が、無価値なる虫けらの様に押しつぶされてゆく事実は果たして必然であっただけで済むのであろうか。俺はかかる事態は必然であるとは思う。日本の興亡。その故の犠牲、やむをえざる歴史の捨石という事は真実だ。しかもその事実を現在の生活の中に、そして自分自身と、また俺の知友の身に迫った事態として考える時一体我々はいかにこれを考えたらばよいのであろうか。果たして必然性の認識だけで我々は満足しうるであろうか。もちろんそれだからとて我々は死の危機が来てもあるいは平気かもしれない。しかし一体現在俺の思考を迫るこの世界史の運命と個人の運命とどのようにして一致せしめられるものであろうか。1944.6.25
 死
 我々は自覚することにより自己をすてつつより大きい全体の中に生きるというPrinzip[「原理」ドイツ語]([]は出典元の注釈)は知っている。そしてそれがWahrheit[「真理」。ドイツ語]を持つと僕の頭脳はいう。1944.1.12

林尹夫日記[完全版]-わがいのち月明に燃ゆ-P360~P361  三人社(※3)

 本の解説、注釈を行った斉藤利彦は、林は近代社会の根底原理を個人の精神の自由の確立にありそれに基づいて国家のあり方を考察していたとして、林は個人の自由、主体性を重んじる立場であったと評している。(※4)また、林は天皇と国家に生命をささげる「悠久の大義」に死すというイデオロギーに抗い、真に守るべき価値はないかと思索を続けた結果が先に引用した文章であり、

 「代えがたい個体としての人格たる自己」を超え、その死が、「真理」のために意味をもつという自覚の下に死に臨んでいくことであった。

林尹夫日記[完全版]-わがいのち月明に燃ゆ- P361  三人社

として、林は飽くまでも内面においては国家のイデオロギーに抗しようと試みたと評している。ただ、林の抵抗は飽くまでも自分の内心に基づくものに留まっており、その理不尽さへの抵抗を行動で表そうという発想にまで至っているわけではない。また、理不尽さへの抵抗を行動で示すことをしないのは、単に抵抗をすることで国家によって弾圧され、迫害されるからだけではない。林自身がそもそも明治以来の国家イデオロギーへの批判がなく、国家それ自体の言動を疑うという発想自体がないことは、以下に引用する文章から伺える。

 (筆者注:島崎藤村「夜明け前」に関する書評)
 明治維新とはそれが種の欠点と暗黒面をもつものであるにせよ、我が民族史上実に刮目すべき大事実であり、美しい国民精神の発露である。この激変を通し我国は極めて短時日のうちに封建的日本より近代国家的日本に飛躍したのである。

林尹夫日記[完全版]-わがいのち月明に燃ゆ- P129 三人社

 俺は予備学生なる友人(三高の友ではない)(注:原文ママ)を見ては果たして日本は勝てるであろうか、等と思うところが非常に多い。文化的精神的に日本は危機だ。Japan is Gefahr[「日本は危機に瀕している」の意味。ドイツ語]([]は出典元の注釈)!そして日本精神は新なる生命を吹き込まれたmoralishe Energie(「道徳的活力」ぐらいの意味。前出のドイツ語)ではなくむしろ慣習的惰性と俺は断ずる。

林尹夫日記[完全版]-わがいのち月明に燃ゆ- P227  三人社(※5)

 国策を否定する、国家の過ちを否定するには、日本という国、国家体制自体を相対化し、客観的に分析するという発想がなければできない発想である。引用した文章などを考慮すると、林が日本を相対化して考えることができているとは言えない。日本という国、国家の枠を超えられない以上は、どうしても国家のイデオロギーを本質的な部分で否定できないのである。

現在に続く国家の論理を無条件に受け入れる思考

 だが、これは一人林に限ったことではない。この世代の大半の人々が国家のイデオロギーを相対化し批判的に考察する姿勢がなかったのはもちろん、現在に生きる私たちも何らかの形で国家のイデオロギーを無意識に受け入れてしまっていることがある。その典型例が「ONE OK ROCK」ボーカルのTakaの「バービー」のツイッターにおける原爆への賛同ともとれる内容に対する、「頭が悪いのか歴史をしらないのか、、、、ただ日本人としてマジで気分悪い」という発言であろう。(※7)

 一見するとアメリカの原爆投下を批判しているように思える。しかし、「日本人として」という言葉には、戦時動員によって軍都であった広島に連れてこられ重労働を余儀なくされた朝鮮植民地、台湾植民地の人々をはじめとした旧植民地の人々、当時捕虜として広島に拘束されていた米兵も原爆による被害を受けたという視点があるだろうか。私は、「唯一の被爆国」という言葉が、国を超えて問題とするべき被爆者の問題を、日本人だけが原爆の被害を受けたかのように錯覚させていることに原因があると考えている。

 作家の徐京植は「唯一の被爆国」という論理を、広島で被爆した詩人原民喜に言及した上で次のように批判する。

 「唯一の被爆国日本」という決まり文句があるが、これは真実ではない。広島と長崎では少なからぬ数の朝鮮人、中国人も犠牲となった。それに核汚染された南太平洋の島々があり、チェルノブイリの大災害もあった。あれから半世紀-人々は原民喜を憶えているだろうか。決まり文句だけはひとり歩きしているが、日米安保体制の恒常化、非核三原則の形骸化、そして憲法の平和主義を捨て去ろうとする最近の動きに至るまで、戦後日本の現実は、原民喜が痛々しくも予感したとおり、幾多の犠牲者の祈りを裏切り続けている。

徐京植「過ぎ去らない人々」 原民喜 P135

 私たちが、日本人以外の他者が受けた被爆者に対する痛みを理解できないことを指摘した徐京植の憂慮は、残念ながら私たちの心に響いていない。核兵器禁止条約への批准見送り、核抑止を前提とした広島サミットにおける日本を含めたG7首脳の核に対する姿勢、はだしのゲンを広島市の平和教育の教材から外すなどの一連の態度は、諸外国から、日本は核兵器を事実上追認し、被爆者の被害を本質的な意味で理解するつもりはないとみなされてもやむを得ない側面がある。(※8)今回の「バービー」の騒動は私たちが本気で原爆の問題に向き合っているのかということへの問いかけでもあるのだが、Takaの発言やその発言を無条件に賛美するメディアの姿勢はその問いかけに向き合っているとは言えない。

 私たちは国家を超え、その国家の過ち、責任を追及し、過ちの是正を徹底して求める姿勢をどこから学ぶべきなのだろうか。次回、日本軍の中国侵略に対し、中国側から日本兵への投降、降伏を呼びかける放送を行うことに手を差し伸べた長谷川テル・劉仁夫妻の行動から考察して参りたい。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 旧制高校は第一高等学校から第八高等学校の8つがあったが、それらが数字を冠する名称であったことにちなんだ俗称。

(※2) 「世界史的立場と日本」(1943年 中央公論社)に関する考察(前編)|宴は終わったが (note.com)

「世界史的立場と日本」(1943年 中央公論社)に関する考察(中編)|宴は終わったが (note.com)

「世界史的立場と日本」(1943年 中央公論社)に関する考察(後編)|宴は終わったが (note.com)

「世界史的立場と日本」(1943年 中央公論社)に関する考察-補足説明編-|宴は終わったが (note.com)

(※3) 原文では上段は漢字カタカナ交り文。また、旧仮名遣いなど一部原文を改めた部分があるほか、注釈については引用した本の注釈をそのまま引用した。

(※4) 林尹夫日記[完全版]-わがいのち月明に燃ゆ- P353 三人社

(※5) 旧仮名遣いなど一部原文を改めている。

(※6) (※2)と同じ

(※7)

「頭が悪いのか」ワンオクTaka 〝原爆コラ画像〟批判に見直す声続出 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp)

(※8)

 客家の家に生まれた台湾の学者戴国煇はアメリカの原爆投下について次のように評している。

「(霧社事件における台湾先住民への弾圧、虐殺に触れた上で)台湾体験はむしろ、「支那人」はくみやすしと日本人を錯覚させるのでもあった。慢心した日本人は満州事変、上海事変、盧溝橋事件と限りなく泥沼に自らがはまっていく。最終的には広島と長崎の原子爆弾を被爆する惨事をまで惹起するのだった。」

戴国煇「台湾という名のヤヌス」 P14 三省堂

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