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「世界史的立場と日本」(1943年 中央公論社)に関する考察(中編)

 太平洋戦争をはじめ十五年戦争を正当化した京都学派四天王の座談会「世界史的立場と日本」に関する考察です。前編ではロシアのウクライナ侵攻を正当化したアレクサンドル・ドゥーギンと京都学派の論理構成が九分九厘同じであるという観点から、「世界史的立場と日本」を考察しました。(※1)中編の今回は、京都学派四天王における人種主義的な価値観の問題性をどう論理づけたかについてご紹介します。

Japan as number one

引用

「日本が東亜における指導性を持つことの根拠は、世界史的使命を自覚する、その自覚にあると思う。客観的に負わされるのでなく主体的に自覚するのです。」(鈴木成高の発言)(※2)

「大東亜では、同じ水準に達しているのは大体において日本だけで、あとの民族は大体ずっとレヴェルの低い民族だ。そういうものを引張って育ててゆき、民族的な自覚をもたす。」(西谷啓治の発言)(※3)

「一方では各民族に民族的自覚を呼び覚し、自主的な能動力をもったものに化す。他方ではその際日本が指導的な位置を保持してゆく。」(西谷啓治の発言)(※4)

「日本人というものはモラリッシュ・エネルギーという点においてやはり優れたやつだという印象が、互いの風俗・習慣は違っても相手に感ぜられ得るようでなければならない。」(高坂正顕の発言)(※5)

「日本の指導性ということは、結局人間が人間を指導することで、従って日本人が、指導し得るだけの中身をもった人間として他の民族に臨んでゆくというのでなければ、指導といっても根本的にはできない。(西谷啓治の発言)(※6)

「大東亜圏の民族で優秀な素質をもったものを、いわば半日本人に化するということはできないものかと思うんだが。」(西谷啓治の発言)(※7)

「日本の立場からは大東亜の諸民族というものを覚醒させて、共栄圏の民族に相応わしいものに引上げる。そういう意味で彼らを積極的に指導する、ということが必然的に要求される。ところが、米英のデモクラシーや民族自決主義には、そういう積極的な指導というようなものは少しも含まれていない。むしろ覚醒されては困るという立場だ。だから一方では、デモクラシーの建前から、彼らが独立できるようになるまで面倒を見るのだと言いながら、他方では、彼らを搾取し続けるために、彼らが独立できないように絶えず隠れた策略を廻らさねばならぬ。(西谷啓治の発言)(※8)

論文本文

 日本がモラリッシュ・エネルギーを持つがゆえに主体的に先進地域である中国や欧米の文明を取り入れてきたという論理を前提に、日本こそが東アジア・東南アジアにおける主導権を確立するべきであるという論理展開になっている。そしてこの論理はそれゆえに日本は旧秩序を維持しようとする欧米との間で戦争を起こさなければならないと考える点で前編「世界最終戦争の夢」で述べた対外的野心の膨張による世界秩序の確立を目指すという考えとつながっているものがある。

 そして大東亜共栄圏構想は、民族の主体性を認めたわけではない(※9)のだから、独自の文化や歴史を持つタイ人や中国人、アメリカに甘やかされていたと蔑視するフィリピン人などは半日本人化できないという理由から対象から除外し(※10)、日本人に都合のいいと考える民族(※11)を教育(洗脳?)することで東アジア、東南アジアを日本の支配下に置くわけであり、当事者にとっては受け入れられない考えである。

 民族自決主義が建前論でしかないことを批判するが、現実と理念が合わないために植民地の民族が立ち上がるのが難しいのと、そもそも最初から理念が差別的であり、偏見に満ちたものであるために支配下にある民族が立ち上がることが難しいのとどちらのほうが支配下にある民族にとって希望が持てるだろうかと考える。少なくとも支配下にある民族にとっては、民族自決論を武器にして自分たちのことは自分たちで決めるというやり方を宗主国に認めさせるやり方のほうが結果としては望ましいと考えるのではないだろうか。

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 いかがだったでしょうか。次回は京都学派四天王が個々人の自由、主体性の否定をどう論理づけたかについてご紹介したいと思います。

お知らせ

 次回は都合により、3月12日日曜日の12時から16時に掲載する予定とさせていただきます。よろしくお願いします。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1)

「世界史的立場と日本」(1943年中央公論社)に関する考察(前編)|宴は終わったが|note

(※2) 「世界史的民族と倫理性」藤田親昌編「世界史的立場と日本」P157~P158

なお、当時の旧仮名遣い、漢字表記の一部をひらがなに改めたほか、筆者による注釈を加える。また漢数字は算用数字に改めている。以下同じ。

(※3) 「民族圏としての大東亜圏」藤田編「前掲」P205

(※4) (※3)同P205

(※5) 「共栄圏の基本問題としての倫理」藤田編「前掲」P255

(※6) 「新しい日本人の形成」藤田編「前掲」P260

(※7) 「新しい日本人の形成」藤田編「前掲」P262

(※8) 「米英的自由の矛盾」藤田編「前掲」P351

note記事追記

イギリスが植民地独立に対して消極的な姿勢はケニアで独立闘争が起った時に蜂起した現地人を反乱軍とみなし、過酷な鎮圧をしたことに表れている。詳細は以下のyou tubeを参照のこと。ただし、それは太平洋戦争時における日本占領下のアジア諸国における統治において、日本人を指導的立場の名の下に特別扱いをしたのと対照的に現地の人々を二級市民以下に扱い、場合によっては暴力で不満を抑えるなどの行為が免責されるものではない。個別具体的な事例ついては家永三郎「太平洋戦争」第二編「第九章 「大東亜共栄圏」の実態」(岩波書店)を参照のこと。

A Very British Way of Torture | Featured Documentaries - YouTube

(※9)  高山岩男「米英的自由の矛盾」藤田編「前掲」P349など

note記事追加注釈

(※9)の注釈に関連する原文は以下の通り。

民族自決主義が表に出てくると、その裏は必ず植民帝国なんで、民族自決主義と帝国主義とは一つの同じ根源から出た盾の両面だということ、これが近代ヨーロッパの歴史的事実が嘘偽りなく説明している明々白々の事実なんだがね。それなのに、そういう大西洋憲章(筆者注:米英が1941年に発表した第二次世界大戦後の世界秩序の目標を示した声明。声明の中には「両国は、すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。」として、民族自決の権利を明記している。)でたぶらかされる者がいるとするならば、それは植民帝国とか権力支配とかいう面だけはなくして、ただ民族自決の方面だけを持続してゆけるもんだとーこう考えるからだろうと思う。こんなことができるものでないことは、低能や馬鹿でない限りすぐ解るだろうと思うんだがね。(高山岩男の発言)
以上、(「米英的自由の矛盾」藤田編「前掲」P349)より

(※10) 「新しい日本人の形成」藤田編「前掲」P262

(※11)  西山啓治はマレー人、モロ族、台湾先住民を、鈴木成高はインドネシア人を半日本人として好都合とみなしている。(「新しい日本人の形成」藤田編「前掲」P262~P263)

 朝鮮人については、P338西谷、P339高坂正顕を参照のこと。

note記事追加注釈

(※10)、(※11)の注釈に関連する原文は以下の通り。

〇 中国人、タイ人、フィリピン人をはじめとした諸民族に関する見解

大東亜圏を建設するのに日本の人口が少な過ぎる。何年かの後に日本が一億何千万人かにならなければやってゆけない、ということが問題になるわけだが、その際、大東亜圏内の民族で優秀な素質をもったものを、いわば半日本人に化するということはできないものかと思うんだが。それも支那民族(筆者注:原文ママ)とかタイの国民とかは、固有の歴史と文化をもったものだから、これはやはり一種の同胞的な関係で、半日本人化ということはやれない。またフィリピン人のように自分の文化というものは何ももたずに、しかも今までアメリカ文化に甘やかされてきた民族というものは、恐らく一番取り扱いにくい。それに対して自分自身の歴史的文化をもっていないが、しかも優秀な素質をもった民族、例えばマライ人なんか、よく知らないが相当優秀な・・・(西山啓治の発言)
インドネシヤンでしょう。(鈴木成高の発言)
そう、とにかくなかなか優秀な素質をもっているとも聞く。ハウスホーファー(筆者注:ドイツの陸軍軍人で地理学者。ドイツ地政「学」の代表的人物)なんかマライ族を貴族的民族と言っている。日本人にもその血が混入しているというんだ。尤も日本人は治者的民族だろうがね。で、ああいう民族とかフィリッピンのモロ族とかー受け売りの知識だが、モロ族などもいいそうだーそういう素質のいい民族を少年時代からの教育によって半日本人化するということはできないかと思うんだ。例えば高砂族(筆者注:台湾先住民)なんか、教育されれば日本人と変わらないようになる、という話を聞いたが、どうかね。半日本人化というのは精神的に全く日本人と同じようなものに育てるという意味だが、それが日本人の数が少ないということに対する一つの対策となると同時に、彼らの民族的な自覚、ないしは彼らのモラリッシュ・エネルギーを呼びおこす。そういうための一つの方策としてどうだろうかと思う。(西山啓治の発言)
以上、(「新しい日本人の形成」藤田編「前掲」P262)より

〇 朝鮮人に関する見解

朝鮮の場合は、外の場合と違うかも知れないが、しかしやはり今までの一般の考え方のように「朝鮮民族」というものを固定した動かせぬ観念のように考えることは、現在では不充分になってきている。一々の既成の「民族」を固定して考える、そういった立場から民族自決主義のようなものも出てきたのだが、しかし現在のように朝鮮に徴兵制がしかれ、「朝鮮民族」といわれたものが全く主体的な形で日本というもののうちに入ってくる場合、つまり主体的に日本人となってくる場合、今まで固定したものと考えられていた小さな「民族」の観念は大きな観念のうちに融け込むとは言えないだろうか。いわば大和民族と朝鮮民族とがある意味で一つの日本民族になるという風に言ってはいけないだろうか。そしてさらにその日本民族に、南方民族のあるものが、例えば高砂族のように、日本人として教育されて加わってくるーそういう風にはならないかね。
 とにかく、現在では我々はー日本においても朝鮮においてもー民族というものを大きく考えることが要求されていると思うんだが・・・・・・(西山啓治の発言)

そう思うね。今までの民族の考え方はどうも少し狭すぎると思う。民族というものは歴史的に生きて動くものであるに拘らず、何だか動きの取れない非歴史的な民族を考えている。それでは自然民族に過ぎない。民族自決主義なぞというときの民族は皆それだ。しかし今、大東亜の共栄圏が実際に要求されてきているということは、従来の民族の考え方では実はとてもやってゆけなくなってしまって、それで狭い民族の考え方を超えた新しい形の民族理論が要求されてきた、ということを示していると思う。朝鮮民族も、広義の日本民族となることによってその本当の歴史性が生きてくると思う。しかし同じことは国家についても言えはしないか。日本を中心とする幾多の共栄圏国家によって、大東亜の共栄圏というものが組織される場合、従来のヨーロッパ流の自分だけで孤立的に考えた国家の考え方は捨てられなければならない。国家というものも共栄圏の立場から新しくなってゆかなくちゃならない。これが古来の東洋的国家意欲に帰ることなのだ。(高坂正顕の発言)
以上、(「共栄圏と民族の哲学」藤田編「前掲」P337~P338)より

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