見出し画像

マロングラッセの誘惑

栗の木が実を振り落とす秋には栗拾いを兼ねた散歩に出る。渋皮の薄くて剥きにくい小さな実で少々手間がかかるけれど栗は栗、見かければ拾わずにはいられない。クリスマス市には焼き栗の屋台が現れる。香ばしい焼き栗の香りが鼻先を掠めると自然と脚がそちらに向かってしまう。今年はcovid19のおかげでクリスマス市は中止になってしまったから、焼き栗を食べる楽しみが無くなった。今朝、拾った栗を冷凍庫にしまってあったのを見つけたので何を作ろうかと思案中である。

以下は数年前マロングラッセを作った時の日記だ。
..................
ピカピカした拾いたての美しい栗を先ず愛でる。磨きこまれたマホガニー色。頭の先のチョロっと触手のような部分は良く見れば極細絹糸が寄り合わさっているかの様にうつくしい銀色の光沢を持っている。
充分に愛でた後、貴方は指の痛みに耐えつつ、爪が傷むのにも耐えて鬼皮をベリベリと剥く、それをさっと湯に通して渋皮を出来るだけこそげ落とし、栗がむやみに踊らないように鍋に紙を落として1時間近く湯がく。
貴方は1時間の間所在無い。
本でも読むかインターネットでマロングラッセについて学んでみるのも良いし、コーヒーを飲みながらパンなどを齧り小腹を満たしておくのはお勧めであり、これはかつ重要でもある。というのも途中で味見と称して栗が一つ、又一つと消えて行くのを防ぐのに多少役立つかもしれないからだ。
湯がき終えたら鍋の中に栗の実と同じ重みの砂糖を加え、ゆすって溶けたらそのまま一晩放っておく。
芯までやわらかくなった栗の実に砂糖がジンジワとしみ込んでゆくのをここで決して邪魔してはいけない。
貴方は蓋をした鍋をたびたび開けてなめたり齧ったりしてはいけない。
一晩たって鍋の中には砂糖蜜を含み始めた栗が肩を並べている。実をそおっと寄せて、汁を別の小鍋に移し火にかけて煮つめる。シロップをブランディーを加えた栗の鍋にそろりと戻し又静かに寝かせる。
寝る子は育つ。。
この場合栗達は育ちはしないが次第に砂糖蜜が浸透してほこほこした栗の実がねっとりとした塊に成長し豊かな風味を身につけるのだ。
しかし、ここでまだ手を出してはいけない。
まだいけない。
つばをごくりと飲み込んで貴方はまだ耐えなければいけない。
昨日と同じく再びシロップを軽く煮立ててやさしく栗にかけまわし、後一晩寝かせておく。
ここで知らん顔して食べても美味しい。
しかし貴方はここで鉄の自制心を養うのだ。
その翌日栗を取り出して皿の上に一つ一つ恭しく並べ、シロップを更に煮つめ、そのトロリとした蜜を栗の上にそっと刷毛で塗る。
完成は間近い。
その姿を見て、貴方はそれを口に放り込む誘惑に負けそうになる筈だ。
それは艶やかに誘っているに違いない。
香りが鼻先をじらす。
しかし貴方がその誘惑に打ち勝つ事が出来るならば、その努力は必ずや報われる事になる。
もう少しの辛抱だ。
マロングラッセの夢でも見てその晩は眠る。
翌日仕上げに塗ったシロップは少し固まって、栗の周りに風味を守る鎧となった。
マロングラッセは出来上がったのだ。
皿の上で栗の粒は絹の光沢を放ちながら貴方の唇に挟まれるのを待っている。
しかし、貴方はここでそれにすぐさま襲い掛ってはいけない。
楽しみは待つほどに喜ばしさを増すのだ。
ここで、今日はアールグレーをたっぷり入れよう。
湯を沸かし茶葉に注ぎ、3分待つのが良い。すると葉はスルスルと解けて透明だった湯をじわじわと染めて行く。琥珀色の液体は馥郁たる香りを放ち始める。
ベルガモットの香りは貴方の鼻腔に忍び込み待ちくたびれて疲れた貴方の神経をすっきり目覚めさせてくれるだろう。
さてカップに琥珀色のアールグレーを注ぐ。
貴方はマロングラッセから目が離せない。
だから火傷をしないようにカップを持つ手元に気をつける事が必要だ。
ここで電話のベルが鳴ろうと、ドアのチャイムが鳴ろうと気にしてはいけない。
お気に入りの皿に乗せたマロングラッセと紅茶をもって気に入りの窓際に座る。
さあ、貴方は待ちに待ったこの瞬間を残さずこぼさず味わう。


。。。とここまで書いた。
書いたけれども実のところ私のマロングラッセはまだ出来上がっていないのだ。マロングラッセを作ってから食べるまでの過程をシュミレーションしてみただけなのだ。
湯がくことは湯がいたが栗は思うようにならずにバラバラと崩れてゆく。
魅惑のマロングラッセは悲劇へと展開しつつある。
マロングラッセの作り方を更に調べていたら、なんと栗を一つずつガーゼで包んでから煮ているのだ。私はそこで挫けた。
残念ながら完璧なマロングラッセを断念した。
1時間湯がいた栗に砂糖を加えたが、この後どれだけの栗が完全な姿で残るのだろう?幾つか残ればまだましというものか?
渋皮の剥き具合も足りなかったようで多少の渋みが残るし、色も悪い。
明後日まで何とかそれなりに世話をしては見るつもりだが栗を剥いているときに描いた幻のマロングラッセは儚い夢ときえるのだろうか。そろそろNeuhausのマロングラッセが店に出てきた頃だろう。私から見れば滅法高いのでなかなか買えない。いつも店の前でためらってしまう。
しかしこの苦労の慰みに今度見かけたら買って来よう。この苦労を考えたら決して高くはないのかもしれない。いや、安いものだ。
.....................

悩ましい経験だったが、結果を言えば栗は茹でてからシロップに漬けて、それをケーキの中に仕込んだりする方が好きだ。マロングラッセの魔法は砂糖菓子の様に解けてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?