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自己紹介 小説風


自分を定義するのは難しいけど、歳が違っても変わらない部分で言うならば、言語能力が突出していてどの言語も文字も文学も愛しているってこと。

その代わり、色々な能力が平均以下だった。記憶力とか、運動能力とか、咄嗟の判断能力とか、我慢して他人に合わせる能力とか。

私は今、障害者と健常者の狭間で生きている。

家族に恵まれなかった私は、家族の役に立つことだけが生存意義で、もう毎日必死に進学校で勉強して、いじめの傷を抱えながら、いとこの赤ちゃんと幼児を育ててた。いわゆるヤングケアラーだった。そして家族全員から精神虐待を受けていて、限界が来て大学生の時に鬱病になって体もボロボロになり、ようやくクソみたいに忙しい社会からドロップアウトできた。

正直ホッとした。もう頑張らなくても良いって。

お医者さんに「自殺の危険があるから実家に帰りなさい」と言われて始まった療養生活は、父方の祖母の介護。それからアル中のモラハラ父、共依存母、ニート歴10年の双子の妹からの精神的な虐待だった。

もちろんODもリスカも自殺企図も数えきれないくらいしている。

家追い出されたり、ダメな人間だって責められたからね。

それでも私は入院することもきちんとした病名がつくことも、つまり精神障害者手帳がもらえることもなかった。

親に付き添ってもらって病院に行っても、親が先生の話を理解することも、先生が親の異常に対処してくれることもない。

まあ子どもの時からずっとそうだっただけど。

私は何がなんだか分からなかった。こんなに目の前にわかりやすい問題があるのに、私がおかしいんだって思わないといけなくて、でも納得できなかった。

色んな薬をお試しで処方されて、色々な症状が出た。めちゃくちゃだった。

「お前はダメな人間だ」って言われて24年も経っていた。私物を全部捨てて、混乱したまま家を出た。

友人とシェアハウスするつもりでいたけど、それだと生活保護が受けられないので1人暮らしが始まった。

虫が毎日出て、カーテンもない一階の部屋。

精神病院に通っていて、生保を受けると言う条件で、なかなか部屋を貸してくれる人はいなかった。

家電はエアコンと冷蔵庫だけ。

洗濯機が無いので手洗いし、絞り、百均のキャンプハンガーに引っ掛けた。床は水浸し。

雪平鍋でお米と野菜を煮て毎日食べたけど、症状の悪化で料理ができなくて、お弁当を買うようになった。お金がないので1日1食300円が食費。

薬の量が増えて、過食になってしまい、お金が足りなくて友人に借りた。翌月返したけどすごく惨めだった。

マットレスを床に敷いて寝ていたら、夜中、ゴソゴソ音がして、電気をつけたらGが登ってきて....あれは本当にトラウマ。

私の出身地でも、大学の部屋でも、見たことなかった。本当に生まれ初めての最悪な状態での最悪な出会いで、その衝撃は生き残るための細い糸を探していた私を完全に打ちのめした。

そして私は諦めてさっさと死ぬことにして、市役所に今に生活が無理だと伝えたら、グループホームを紹介されて、まあ色々ありつつ今もそういうところで生活している。

清潔で、洗濯機もあるしフライパンもあるしケトルもカーテンも冷蔵庫もある。

精神障害のある人同士での生活は健常者が想像出来ないくらい大変だけど。特性の殴り合いだし、やっぱ症状が重い人が強い。軽い人はたとえルールや常識と違っても譲らなければならない。

生活保護受けるためには、やっぱり病院で働けませんと言う証明が必要だし、働く訓練もしなければならない。

病院では、いつも違うことを言われて根拠もなく薬を飲まなければならない。

B型は、以前は掃除とカフェとお弁当詰めと水産加工の作業を時給100円でしていて、メンタルがぼきぼきになったので、パソコン系にした。

ここは最高。色々相談乗ってくれるし信頼できるし、対人関係も上手く作れた。

病院は色々行って検査もした。
何十種類も薬を試して、1年くらい。
結局薬飲まないのが1番元気な状態だった。先生がいつも言うことが変わるし。

新しい病院で、症状は過去の成育環境からきてますね、病気も障害もないでしょうって診断。病気にさせられてた、らしい。

もう一度健康な状態で発達障害の検査をしたら、発達障害ではなかった。でも普通でもないって。

診断結果「能力差が著しいので、生きづらいと思います。」だった。

障害者って診断出なくなったら、生活全般詰むから外で仕事探したけど、2日しか出来なかった。

生育環境以外にも能力差が激しくて、負担になりやすく、外で働くのが難しいんだって。

でも診断はつかない。困ったね。だから生きづらいですけど。

そこで終わったから、就労関係の支援であるB型でも今後とかごちゃごちゃ。とりあえず現実維持しか取れない。在宅ワークは市役所の許可がいる。私の自治体では症状によるので、診断つかないなら許可はほぼ出ない。

生活保護抜けないと、友達と遊ぶのも難しい。趣味も全く出来ない。服も季節に合わせて買えない。B型で収入を得た分はもちろん返還。永遠に普通の生活はできない。

普通に流行りの服を着たり、普通に遊びに出かけたり、普通に本買ったり、音楽聴いたり、勉強したりができない。

今は寝袋で寝ていて、家具が...全身鏡とか、収納のタンスや本棚とかも欲しいけど、買わない。

気分が乗らなくて料理が出来ない時のための食費に回す。

毎月そう言う日が2週間分くらいはある。作るの面倒な日。

ghでも値段はそう変わらないし、自分で好きなものが食べたいから、私は自分で用意している。

そうするとやっぱり、毎月残らない。まあ残しちゃダメだしね。

こういう生活だから、できれば自立したいし頑張ればできると(ほんの少しだけど)思っていた。

でも外で働けないって。まあ高校生の頃から疑ってたけど、やっぱりそうだった。

心理士さんも先生も「自分のペースで文章を書く」以外のことは「向いてない」って説明だった。

傾向の話じゃなくて、すごく負担になるから無理だろうってこと。でも能力だから、はっきりと断定はできないでしょう?診断もつかないし。それでこういう言い方。

それで、確かに昔は論文も英語で書きまくってるし、ディベート部だったし、図書委員かつ図書部で新聞みたいなのいつも書いてたしと思って、実家で療養してた時から、Webライターやろうかって思って。

ただのwebライターじゃアレだし...と思って、趣味で8年やってた占いとかもやりだして、ほとんどそっちがメインになったりもしたけど。

占いもチャットでやれば文章書くから、私にもできるらしい。

もともと哲学と心理学も隣の分野だったから勉強していたのもあるけど、占いとスピリチュアルは都合が良かった。

精神医学と同じくらい根拠がないけど、こっちは無料でも有料でも情報が溢れてるし、心理学に付け足せば次第にトラウマが緩和されて、希死念慮も克服していった。

こんなめちゃくちゃな人生だったし、占い師て学歴も年齢制限もないから、勉強すれば身につけられるから、めちゃくちゃな自分でもできると思って始めた。

過去の、病院でも適切な治療を受けられなかった、人生から見捨てられてた自分(と同じような人)を救いたいって思ってた。その気持ちが正しいとは思えないけど。

在宅ワークとメンタルの安定と福祉の規則が重なり合う所を探して、生きづらくても自分が生きてて良い場所を探してる。

そんな場所無いのもわかってるけど、だから作っていきたい。そこまでの気力がいつもあるわけじゃないけど、自分のままで生きて死にたいから。

本を読めば、自分は消えて無くなるし、外国語は知らないことをたくさん知れる。それはすごく自由なことだ。

それに、自分の感じたことをいつもオカシイ、って否定されて、「どういう風に感じて考えるべきか」を調整されてきた。ずっと本当の自分は無視されて。だから目に見える形で残したい。自傷とかそういう不健全な方法じゃなくて、こういう人間がいたんだぞって、ネットは紙より残るかな?


この生活いつまでも続くんだろう。
ライターも占いも、自分で生活出来るほど能力や時間や価値があるかって言われたら全部無い。
大人しくB型とグループホームの往復だけ30年続けるべきかもしれない。そこが自分の限界なのかもしれないけどね?
それも意味あるかって考えたらトントンだから、Bで在宅ワークのスキルを学びつつ、自分でも出来る範囲でやってみないと。

今はもう自分で自分の人生を決める権利があるはずだから。障害者でも健常者でもないけど、子どもじゃないなら本当には人権があるよね。生きてて良いはずだ。

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