見出し画像

僕たちは「情報の奴隷」と「お金の奴隷」になった

僕たちは「情報の奴隷」であり、「お金の奴隷」でもある。僕が最近感じていることだ。

きっかけは80年代のロックバンドのミュージックビデオを見ていた時だ。僕は自然と「人間らしい」と感じた。ただ楽しそうで無邪気に見えたのだ。

決して今の世の中がつまらなく、醜悪な物だと言いたい訳ではない。単純に今と昔では何が違うのかという疑問が自分の中に残った。

そして考えついたのが私たちは「情報の奴隷」であり、「お金の奴隷」というキーワードだ。

80年代と現在で大きく違うのは日々触れる「情報量」であることは間違いない。誰もがスマートフォンを持ち、クリック1つで大半の情報にアクセスできてしまう。また時代は大衆(マスメディア)から個人(SNS)へと代わり極端な話、誰もが簡単に「教祖」になることができ、ファンという「信者」を簡単に獲得できる時代になった。

便利になった反面、情報量が許容範囲を超えいつの間にか情報追う立場から追われる立場に変わってしまったと思う。それなら「好きな情報だけ見て、見たくない物は見なければ良い」という考え方の人ももちろんいるだろう。ただ僕は1つの情報に対して1つの角度から情報を判断するのではなく多角的に見てほしいと思っている。情報量があふれていることで情報の「本質」が見えづらい世の中では多角的な視点で判断することで、誰かの請負いではない自分だけの意見を構築できるからだ。

画像1

次に「お金の奴隷」について。少し話が逸れるかもしれないが親に貯金の仕方を聞いたとしてどのような回答が親が来るだろうか。

「銀行預金」、家を購入するなど「固有資産」、「投資信託」色々だろう。

彼らはそれで生涯資産を築けているのだから間違っていないのだろう。しかし今と昔では状況が違う。現在の預金年利は0,001%で100万を銀行に預けても100万に+100円が戻ってくるだけであり、家などの固有資産も今後、人口減少に伴い高い価値が付かないだろう。

また給料は上がりづらいと言われる中、老後には2000万円の貯蓄が必要だとも言われている。

これにローンなどの借入がある場合は、本来物事を有効に進める手段であるお金が生活を困窮される足枷へと変わり重くのしかかるのだ。

その瞬間から僕たちは「お金の奴隷」になってしまうのだと考えるようになった。

画像2

この二つのキーワードを基に僕はなぜ80年代のミュージックビデオに想いを馳せたのか考えてみた。答えは「追われているかそうではなかったか」だ。

抽象的な表現になってしまったが、昔は情報の発信場所がテレビや新聞、ラジオなどのマス・メディアで情報量が少なく情報に追われることは少なかった。お金に関しても昔はただ銀行に預けてるだけでお金が増えるシステムだった。(1990年は年利6%で12年銀行にお金を預ければ倍になる計算)人々はお金に追われることはなかった。

人間はストレスを感じると寛大さを失ったりする。しかし余裕があるとリラックスして寛大さを失わず「楽しむ」ことができる。

これが僕が感じた80年代の「人間らしさ」の正体だったのかもしれない。

ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?