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【ただのつぶやき】芸術性と自由について思うこと

こんばんは。さすがにパンツいっちょで寝るのには厳しい時期になってきました・・・

今日は、防災・応急手当のネタではありません。

現実の生活でも、note内の話でも、少し思うところがありましたので書き綴りたいと思います。パンツいっちょのおじさんが、酔っぱらいながら書いた戯言だとおもって、少しお付き合いください。

・・・「芸術」性と自由について・・・

私の持つ芸術のイメージというのは、いわゆる音楽・美術・歌・ダンス・・・というイメージではありません。私の中での芸術というのは、自分が内に秘めているものを、自分の外に出す行為全てを芸術と捉えています。ですので、私にとっては、人との関わりのための全ての活動は芸術である、という風に解釈しています。

子どもたちを見ていると、彼らは心の内を、とても自由に外界に対して放出しています。彼らは、内に秘めているものがとても大きくて・・・外の世界に放出したくてしょうがないようです。おしゃべりであったり、身振り手振りであったり、集中して遊ぶことであったり・・・これこそ芸術だと私は感じます。そういったものに対して芸術性を感じます。

こういった芸術性は、大人の世界に足を踏み入れれば入れるほど、萎縮していくように思います。それは恐らく、自分の自由と、他人の自由が衝突する場所において、お互いが極力不快な思いをしないように、自分の自由の範囲を萎縮させることで、他人の自由の領域に触れないようにするという教育が、こと日本においてはなされているからなのかなぁ、、、と私は思うのです。

日本人は、どことなく譲り合いの文化というか、謙譲精神とでもいうか、、、色々な場面において「自分が引けば、事が収まる」という風に考えている人が多いように思えます。また、こういったことへの世間の同調圧力が凄まじく「自分が引くことが美徳」という観念を、幼少期から教え込まれているような気がします。私は、これは芸術性の萎縮として捉えています。

そして、この萎縮の結果として、「事なかれ主義人間」や、「自分の思いを語れない人間」、「自分の殻に閉じこもってしまう人間」の増殖を生んでいる気がしてならないのです。

自分の自由と、他人の自由。この2つが触れ合う際に、果たして自分が萎縮することだけが正解なのでしょうか・・・私はそうは思いません。

その重なり合うところにおいて、お互いの妥協点を見つけたり・・・自分の芸術性の総量を萎縮させずに、触れ合わないエリアを探索したり・・・そういった活動もアリなのではないかと思うのです。でも、そのことを教えられる(許すことができる)大人が、今、非常に少ないように感じられ、危惧しています。

・・・

毎日子どもを見ながら、「あぁ、自由って美しいなぁ」と思います。その姿こそまさに「芸術」であると、私は心から思うのです。

彼らは、大人になればなるほど、たしかに、表面的な芸術性は、なりを潜めるのかもしれません。でも、その内には燃ゆるばかりの芸術性を携えた大人に、どうかなってほしいと、私は心から思うのです。

今はまだ、その思いを具現するような活動はできていませんが、、、そういった事を、きちんと腰を据えて、やりたいなぁ、、、と思っています。

noteを通じて、自分のそういった気持ちを再整理することができました。出会いに感謝です。やはり、人生に無駄な道はありませんね、すべてローマに通じていますね。

今日は、酔っぱらいの戯言にお付き合いいただきありがとうございました。今日は寝間着を着て寝ようかと思います(^^)

                         ・・・おわり


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いつもは、子どもにまつわる防災&応急手当に関する記事を、月1(+臨時で不定期)で書いています!どれも、忙しいパパ・ママ向けの、サラッとライトな内容なので、ぜひ一緒に見ていってもらえると嬉しいです(^^)

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