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『遊戯の終わり』(1956) フリオ・コルタサル

お酒を飲みながら本を読む。

ものすごく憧れる行為なのですが、僕は酒と文字を同時に摂取するのは苦手です。

ただ、もしも…。もしもそんな格好良いことが出来たなら、一番お酒(特にワイン)のお供にしたいのは、今回紹介するアルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルの短篇集『遊戯の終わり』かな、と思います。

この幻想的な、恐怖とユーモアが混ざり合った物語群のなかに、泥のように沈みながら飲みたい…

まあでも試したところ、結局僕はお酒がない方が物語には酔えるようでした。

…と、ウザい自分語りはこれくらいにして、早速感想を交えながら紹介していきたいと思います。


コルタサルの小説は、まだこの一冊しか読めていないのですが、少なくともここに納められた短篇を読んで一番驚いたのは、文体の圧倒的な「軽み」でした。
(訳者の影響もあるかも知れませんが…)

『誰も悪くはない』をはじめとして、『河』、『黄色い花』、『水底譚』など、どこか小説というより「散文詩」のような雰囲気を伴った作品も多かったです。

特に『誰も悪くはない』は、表題作の『遊戯の終わり』以上に、この短篇集全体を象徴するような作品かも知れない…と思いました。
〈恐怖〉と〈諧謔〉、〈現実〉と〈幻想〉、〈狂気〉と〈冷静〉…といった、普通は相容れないように見える心境や状況。それら全てが、同時的に溶け合った上で、なお失われない「軽み」。

『誰も悪くはない』は、文庫本で8頁ほど。「短篇」のなかでも特に短いたぐいの作品なので、あえてここにあらすじは書きません。
簡単に読みきれるはずので、是非、実際に読んで確かめてみて下さい。

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文体の「軽み」は必ずしも、「現実から飛び去ってしまうような軽薄さ」ではなく、どこか漂っている感じというか、現実のなかで「遊離」しながら、世界にある〈なにか〉を眺めているようなイメージ。
もしくは、本来ずっしりと重たいはずの悪夢が、何故だかスマートに、するりと通り抜けていってしまう(それでいて目が醒めることはない)ようなイメージかも知れません。

典型的な「シュルレアリスム」の作品ほどには、現実感を捨て去っておらず、かと言って「魔術的リアリズム」と言うには、ちょっと夢見心地過ぎる、、というような。

他のラテンアメリカ文学とも、少し断絶したような、新しい幻想性が感じられます。

(すこしネットで調べてみたところ、実体は上手く掴めないのですが、「シュルレアリスム」とも「魔術的リアリズム」とも違う、「アルゼンチン幻想文学」というジャンルが存在するらしいです。
もう少し勉強して、そのことについてもいずれ書けたら良いなあ…と思います。)

ただ、幻想性、幻想性…と言っても、末尾の「訳者解説」で木村榮一が述べているように、『殺虫剤』(僕は初読時はこの作品が一番入り込めました)などは、かなりの写実性を伴って描かれた作品ですし、全ての作品を一括りにして、一概に「こうだ!」とは言えないような側面もあります。

とは言え、やはり写実性を伴った作品の中でも、常に(幸せで平凡に見える)日常の風景が崩壊していく予感、脅かされている様子が描かれています。

“コルタサルの短篇では、女友達のアパートに引っ越したり、車の渋滞に巻き込まれたり、交通事故にあったりといったありふれた日常的な世界が、彼の仕掛けた魔術によっていつの間にか非日常的な悪夢の世界に変わっていることに気がつきます。(中略)知らぬうちに悪夢、幻想の世界に引き込まれています。(中略)コルタサルは幻想的な短篇を書いているのではなく、彼自身が悪夢の世界を生きていて、それを言語化しているのだと言われることがありますが、まさにそのとおりでしょう。”
(『ラテンアメリカ十大小説』木村榮一、2011、岩波新書、77-78p)

とてもしっくりくる解説です。

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そう言えば、この小説の翻訳について、少し物申している投稿だか書評だかがあったのを、思い出しました。
とても興味深い指摘だったので、ちょっとした参考程度にですが、それについても書きたいと思います。

まず、この短篇集の冒頭におかれた作品、『続いている公園』ですが、これは『続いている庭』と訳すべきだったのではないか…という意見がありました。

《el parque》は、たしかに一般的には「公園」と訳されることの方が多いようですが、「庭園」みたいなニュアンスだったら「庭」と訳しても良いそうです。

この作品は、〈小説を読んでいる男〉と、〈小説の中の登場人物にすぎないはずの男〉とが、現実の中で繋がってしまうのを、驚異的に描く…という構造になっています。

そのため、『続いている公園』と訳されてしまうと、どこか「間近に迫られている感じ」が薄まってしまう印象があります。一方、『続いている庭』というタイトルで提示されると、一気に「いつ繋がってしまってもおかしくはない」ような、「敷地内にいる」ような感じがして、臨場感が伴い、しっくりくるような感じがします。

次に『山椒魚』という作品について。これはただの注意喚起…という感じなのですが、僕たち日本人が一般的に「サンショウウオ」と言われて思い浮かべてしまうのは「オオサンショウウオ」だと思います。
しかし、実際にこの小説で描かれているのは、『アホロートル』というメキシコ周辺に生息しているタイプのもので、要するにウーパールーパーのことだったりするみたいです。

このあたりのことが頭の片隅にあると、この2作品に関しては、より情景描写や物語に入り込める(少なくとも僕はそうでした)と思うので、お伝えしました。


流石に、収められた全ての短篇については触れられませんでしたが、大体こんな感じです。

ここまでに言及しなかった作品の中で、僕が特に面白いなあと思ったのは、『キクラデス諸島の偶像』と『夜、あおむけにされて』でした。

特に、『キクラデス諸島の偶像』は、「狂気の伝染」を描くような作品なのですが、これはコルタサルが心酔していたという、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説を彷彿とさせるところがあります。

おどろおどろしくもお洒落…という感じの、絶妙なバランスでした。

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最後に、この短篇集の末尾にある、木村榮一の「訳者解説」から、印象的な部分を引用して終わります。

“コルタサルはあるエッセイで、自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短篇を書いている、つまり、ぼくにとって短篇を書くというのは一種の《悪魔祓いの儀式》なのです、と語っている。彼の不気味な幻想性をたたえた作品を読んでいると、これは現実世界を律しているのとはまたちがう異質な時間の生み出す悪夢ではないだろうかと考えることがあるのは、おそらくそのせいだろう。”(259p)

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