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【短編】お酒の失敗

はじめは軽くひとりで飲むだけのつもりだった。その居酒屋はもの静かな佇まいで、普段ひとり飲みをしない女の私でも、ふらっと入ってしまう不思議な引力があった。清掃の行き届いた広い店内に、客は私ひとりだけ。運ばれてくる料理は華美はなくとも、一品ごとに風流があり繊細さが感じられた。しかし酒においてはすべてが異様に濃く、重々しい飲み心地があった。一時間ほど飲んでいた。店の様子は変わらない。私以外、他の客は一組も入ってこなかった。

壁に貼られたお品書きを眺め、料理を追加でいくつか頼もうと店員を呼んだ。二十歳くらいの、背の低い男の店員がやってきて、彼は無表情に、それから焦点の合わない上目遣いで、淡々と私の注文を聞いた。彼が厨房へ去った後、私はもう一度、壁に貼られたお品書きを眺めた。流麗な筆使いで書かれたそれは、凝視するとどうやら宗教勧誘か何かのチラシの裏紙に書かれたものであることがわかった。

清潔感ある空間だが、なにかが欠落していて、それでいて暗澹とした、病に近い趣を感じた。私は今日たまたま通りかかったこの店に何気なく入っただけで、店の評判や評価などの事前情報は一切持ち合わせていなかった。それも相まってか、この店が醸し出す得体の知れない禍々しさに、思わずたじろいで、それから恐怖していた。

しばらくして先ほど追加で頼んだ料理がきた。異様な何かを感じながらも、料理を口へ運ぶ。今まで気づかなかったが、この店の料理は無機質すぎる。どれを食べてもまったく同じ香りがする。肉も野菜もソースも、すべて同じ無機質な香り。香辛料の類ではなく、まるで丹念に殺菌消毒したかのような、限りなく無臭に近い不可解な香りだった。酔っているのかもしれない。酔いがまわって、味覚も嗅覚も狂っているのかもしれない。

私は不安でたまらなくなっていた。いつまで経っても客の来る気配がない、活気というものが一片も感じられない店の雰囲気が恐ろしくて仕方なかった。気を紛らわそうと、手元の飲みかけの電気ブランを勢い任せに飲み干した。たちまちひどい酩酊にまどろみ、おぞましい妄想に囚われた。白いタイルばりの天井を割って、突然現れた地雷系女子の巨大な顔が私に語りかける。

「私いまジクロフェナク持ってるんですけど、これってテキーラが一番相性良い気がするんです。電気ブランだったらどうなんでしょう。試してみてくれませんか。感想聞かせてください。私、気になります。気になるきになるキになるキにナる。」

抱えきれないほど大きい女子の顔は、気色悪い中年男性の声で、そう私に語りかけた。そして口から大量の錠剤をぼとぼと吐き出した。気が触れたのかもしれない。私は荷物を置いたまま店を飛び出した。人目をはばからず絶叫して、無我夢中で逃げた。顔は視界から消えたが、どんなに離れてもじっと監視されているような気がした。

叫んで走って、勢いよくつまずいて、ヒールが折れて、それでも立ち上がってまた駆け出して。後を引く酩酊感と、迫り来る恐怖が絡み合い、私は完全に錯乱していた。そんな平静さを失った状態とは裏腹に、私は自分でも驚くほどに冷静で、不思議なほどに頭は冴えていた。この近辺に、腐れ縁の男のアパートがあることを思い出した私は、そこに向かって死に物狂いで駆けていた。ただその一点だけが私にとっての救いだった。迷いも疑いもなく、私はそこに辿り着きさえすれば命が助かると本気で信じていた。

男のアパートが見えた。明かりがついている。この時ほど電気の明かりに安心感を抱いたことはない。階段を駆け上がり、男の部屋のドアを叩き散らした。「助けて!助けて!」叫びながら、インターホンをひたすら連打した。「私だよ!くらげだよ!開けてよ!ねえ!」ひとしきり喚いた後、頭が冷えたのか、私は次第に正気を取り戻してきた。深酔いも覚めつつあった。まだ男が出てくる様子はない。この時、私は今の状況下、男に何をどう説明したら良いのだろうかと思い巡らせ、身が縮む思いになった。狂ってるとしか思えない自分を省みて、今更ながら煩悶した。

私はこんなときばかり理路整然とした思考が働く女であったから、この局面においても、決してメンヘラだと思われないための受け答えを瞬く間に数種類、即座に用意できた。もうこれで相手がどんなに私を不審がろうと、辻褄の合ったロジカルな受け答えで見事に説き伏せることができるはず。しかし結局、ドアの向こうから恐る恐る姿を見せて、目を丸くして私を眺める男を見るやいなや、私の口から不意にこぼれ落ちた第一声は、実にみっともなく、不自然極まりない一言でしかなかった。「ご、ごめん!ち、ちょっとトイレ貸りてもいい?」



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