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スペアじゃないのよ、私は 『クララとお日さま』


貸出期限が昨日までだったことに気づいて、今日、あわてて図書館に本を返しに行きました。

『クララとお日さま』著:カズオ・イシグロ

その本について、思うところがあったので、ここに記しておきたいと思います。

この物語の設定は、子どもがAF(Artificial Friend)つまり人工の友達をもつことが当たり前とされている世の中だ。AFには、旧モデルと最新モデルと存在して、その「機能性」は比較対象になる。

人間も遺伝子操作ができるようになっていて、遺伝子操作済みの者とそうでない者の格差が広がっている世界でもある。

タイトルにある「クララ」は、物語に登場するAFの女の子の名前だ。人間の姿をしたAIが出てくる物語は、悲しいことが多い。
それは、AIを搭載した彼らが、誰かの代わりとして存在させられることが多いからだ。生まれてこられなかったり、あるいはお別れした者の代わりとして、人間の世界に彼らは迎え入れられる。

誰かの代わりだから、代わり本体の人格は不要である。代わりが不要になったら、その人格の入れ物さえも不要とされる。

人格ってなんだろう、感情ってなんだろう。
生身の生命体の人格以外は尊くないのだろうか。
非情な言動で、他者を傷つけるのは人間たちの方なのに。

そんなことを思わされた。

クローンはどうだろう?
カズオ・イシグロの作品に『わたしを離さないで』がある。こちらも有名な作品で、すでに映画化もされて、日本でもドラマ化されていたことだし、ネタバレしてしまおう。

物語に出てくる少年少女たちは、臓器提供のために作られたクローンたちである。人間だから、もちろん感情だって人格だってある。同じ学校で育ち、生活も共にし、思い出だってある。

でも、「オリジナル」しか尊い命として存在できないのである。
自分がクローンだと知ったとき、自分らが生まれたわけを知ったときの思いはいかに..。物語だとわかっていながら、胸が締め付けられた。そんなことが現実に起きたらどうしよう、という恐怖も。


私は、一卵性双生児の妹の方だ。一卵性双生児は自然界のクローンとも表現される。遺伝子の一致率は、ほぼ100%なんだそう。

同じ家で同じ親に育てられたけど、人格は別のものになった。確かに見た目はそっくりだ。とくに子供の頃は。

客観的に外見がそっくりだから、見分けがつかないのも仕方ないだろう。
見分けられない人に悪気がないのもわかる。でも、見間違えられたり、同一人物のように扱われるのがすごく嫌だった。
「どっちだっけ?どっちでもいいや」なんて言葉に、いちいち傷ついたものだった。

でも、3歳年下の弟だけは、私たちを間違えなかった。何のフィルターもかかっていない幼い子には見分けがつくんだ、ということが、どれだけ心強いことだったか。

といいながら、自分でも自分の赤ん坊の頃の写真の見分けはつかないし、母でさえも、「あれ?どっちだったかしら?」なんていうくらいなんですけどね。

弟だけは間違えなかった、というのも母か我々双子が後日、都合のいいように上書きした記憶かもしれない。


最近、SNSでは双子の赤ちゃんが、仲睦まじくじゃれ合う姿が評判をよんでいるけど、双子だからといって、いつまでもこの頃のように美しい仲でいられるわけでもない。私たちは、比較的、仲の良い双子だとは思うし、他がどうなのかは知らないけれど。

姉は私が困っているときには1番に助けてくれる存在だが、私が弱っているときには、急所にとどめを刺しにくるようなところがある人でもある。
一緒に過ごした時間が長いだけあって、どこが急所かも知っているしね。彼女に言わせれば、そうするべき理由があるのかもしれないけれど。

普通だったら、そっと距離を置きたくなるようなこの関係性でありながら、尚も多くの時間を共に過ごし、幸せでいて欲しいと思える相手は、ある意味彼女しかいない。一緒に生まれてきただけのことはある。究極の腐れ縁とも言えるかな。


思うのは人格も生命体も唯一無二だからこそ、いいんじゃないかなこの世界は、ということだ。もちろん、技術開発自体は悪いことじゃない。それが誰かのためになるのであれば。

大事なのは境界線だ。命にも、心にも、超えてはいけない境界線があると思う。

不自然な処置をしてまで、能力の優れた存在になりたいわけでもない。それに地球上で一番知能の高い存在じゃなくても、いいはずなんだよ、人間は。

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