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まだ映画を見に行っていない人間の四半世紀の想い(とりあえず版)


エヴァンゲリオンの最後の映画。まだ見てないんですよね。見てないんですけど、何故か今日はエヴァンゲリオンの話。

いや、エヴァンゲリオンって言うか庵野監督の話。
なんとなく、つらつら綴ってみる。

子供の頃に買ってたアニメ雑誌を読んで、監督の存在を知ったのが最初なんじゃないかと思う。それかラジオ。
なんだかよくわからないけど、ヤバい人だと思った記憶があるんです。何がどうヤバいのかわかんないんだけど、義務教育を受けてる子供だった私にも、何か引っかかるものがあったんですよ、何故か。アニメは好きでよく見てたけど、製作する側にこれだけ「なんだかよくわからない興味」が湧いたのは初めて、というか彼に対してだけだったんじゃないかと思う。

雑誌やら漫画やらラジオやらテレビやらを通しての情報でしかないけど、どうやらこの人はブッ飛んでいる。相当ブッ飛んでいる。アニメ制作の道を見つけたからこそ生きていられるけど、そうじゃなかったらこの人どうなっていたんだ。本気でそう思った。

それでも彼の年代なら、少々の変人でも年功序列制度が生命を守ってくれたんだろう。それを考えるとそこまで心配はいらなかったかもしれない。
私は監督ほどではないけど変人の自覚はあったし、監督のような特異な才能もないこともわかってたから、その年功序列制度に守ってもらうつもりで人生計画を立てていたのに、失敗してしまった。世代的なものも大きかったかもしれない。時代や人のせいにするなという声はよく聞くけど、運の巡り合わせというものは必ず存在するので、すべてを本人のせいにするのはそれはそれで狭い考えかもなと思ってみたりもする。

そう、私は監督の姿に、自分がどう生きればいいのかを探していたような気がするのである。あそこまでの鬼才ではないから参考にはできないのだけど、「よくわからない面白い人」じゃなくて、自分と同じような匂いを感じていたのかもしれない。誤解を恐れずに言えば、だけれど。


そして、エヴァンゲリオンである。
私が見たのは放映から半年とか1年とか経ったくらいだったと思うけど(私の地域ではテレ東が入らなかったので)、夢中になって見た。

たくさんの謎、ドロドロした内面を平気で見せる人々、意味ありげな用語の数々。幾重にも張り巡らされた大量の情報。
それらが作品を重厚に、カッコよく、面白く、唯一無二にしていたのだけど、実際は、もしかしたらめちゃくちゃシンプルな話なんじゃないかと思うことがあった。

私はまだ10代だったけど、エヴァを見た率直な感想は「これを作った人は女が怖いのだろうか」だった。ロボットとしてのエヴァのイメージはよくある母性のそれじゃないし、ヒロインたちの描き方、壊し方と言ってもいいくらいのその描き方は、とても作品の人気を支える美女や美少女に対するそれとは思えなかった。

よっぽど女性に酷い目にあわされたんだろうか。でなきゃこんな描写はしないだろうと、特に旧作の映画を見たときなどにははっきりと思った。

考えられるのは母親との関係性が良くなかったか、女性との恋愛がうまくいかなかったか。どっちかと言うと後者な気がした。実際はそこまで酷い目にあったわけではなくても、本人にとっては辛いものだったのかもしれない。恋愛とはそういうものだろうし。

どんなに仕事で成功しても、金があっても、他人の気持ちだけは時にどうにもならない。歌や小説といった創作物にテーマとして恋愛が溢れているのは、それがいちばん叶えるのが難しいからである。
監督もクリエイターとしては地位があるのだし寄ってくる人もいただろうけど、あれだけ変人なら少々の女性ではうまくいかなかったであろうとなんとなく想像してしまう。そして監督は創作に生きる以外おそらく道のない人。もし彼に恋愛に悩む過去があったとしたら、恋愛のそれが作品にそのまま投影されたとしても何もおかしくはない。

そう考えるとあまりにもしっくりくる。かの有名な「ATフィールドは心の壁」という言葉。
心から愛したとしても、相手にその気持ちがなければ受け入れられることはない。ATフィールドを解いてもらえない。無理矢理引き裂いてその心のうちに入っていくことは、時に自分も相手も酷く傷付ける。
恋愛に限ったことではないけれど、もっとも強烈な拒絶が起きるのは、やはり恋愛のそれではないか。

4部作の予定で作られ始めた新作映画。序、破、Qまでは全部見ている。とても面白かったけれど、何かが違った。
あれだけドロドロしていた恋愛要素がほぼなくなっていた。それだけにとどまらず、非常に綺麗にエンターテインメント作品に仕上がっていた。

これで十分に面白い。面白いのだけど、あの我々を心地良い混乱に叩き落としたエヴァではなかった。これで十分にヒットしただろうけど、四半世紀も完結を皆が待ち望むような社会現象にまでは、この最新の3作では至らなかっただろうと思った。

20世紀の頃のエヴァは、いや、今も基本はそうなのだろうけど、監督の日記であり内面の描写そのものだったんじゃないだろうか。ひとりの人間の人生であり細胞そのものだから、我々はそのどこかに自分を見ながら巻き込まれていったのではないか。たくさんのギミックに隠されているけれど、あの作品にあまりにも正直に、素直に流れていたのは「僕を好きになって」という心の叫び。そしてそれはおそらく、すべての人類に共通する願いだから。誰もそこから目をそらせないから、エヴァはあんなに我々にインパクトを与えたんじゃないだろうか。

その悲しく強烈な欲求がある程度満たされたことが、21世紀のエヴァからは伺えた。監督が奥様に出会われたこと、それが彼を変えたのだとしか考えられなかった。
奥様の描かれた、監督との生活を描いた漫画が私はとても好きだけれど、この人が監督を生涯のパートナーに選んだことが、何よりも彼を満たしたのだ、きっと。

結婚は自立した男女間で行うものだとか、立派な人間じゃないと選ばれないなんて話もあるが、そうじゃない。それだけじゃない。それならひとりでも生きていける。本当に結婚制度に守られなければならないのは、監督のような人物だ。それはもう、明らかに。彼はひとりで放置されていたら、おそらく長生きできなかった。
友人でも仕事仲間でも、放置しない役目は担えるはずなのに、そこが「伴侶」という形でないと収まらなかったことがまた、ポイントなのだと思う。

私はまだ最新作を見ていないけれど、彼が満たされたのなら、それはきっとハッピーエンドで終わるだろうと予想している。そうだったらいいなという気持ちと、もうあの満たされない少年はいないのだなという寂しさと、自分が寂しいままの切なさとが、まだ何も見ていないけど、交錯する。

あの監督さんのこと、どうしてかずっとずっと気になってたけど、彼が満たされているのなら、この世界ってまだどこかに希望があるんじゃないかと思えて、そして生きていてくれて、作品を残してくれて良かったって思うのです。そのための出会いを彼が果たしてくれてホントに良かったなって。

創作のスタイルは人によっていろいろだろうけど、自分自身を投影させずにはいられないものが創作なのだと私は感じています。
どうしようもない心の叫びを、どこにも行き場のない想いを叩きつけるもの、それが創作。売れ線を考えながら作るものでもあるだろうけど、たぶんそれだけが全部じゃない。心の中に落ちて来ないと生み出せないものでしかない人間もいるだろう。私はどうやらそうだった。

登場人物はすべて作者自身、そういうタイプの作家も多かろう。庵野監督はきっとそうだし、たぶん私もそうだ。
だから、本当の私はエッセイや日記にはいなくて、ただ創作の中だけに存在しているような気がしている。創作の、ポエムの中の強烈にセンチメンタルな私。たぶん本当の私。けどそれは他人には見せたくない部分だから、創作として心のから追い出していくしかない。エッセイや日記に私を探しても、きっと本当にはそこにはいない。

そんなことをだらだら考えて、だらだら綴ってしまいました。もうちょっときちんとまとめて書き直そうと思いますが、今日はこんなところで。

エヴァ見に行かなくちゃな。どうしても行かなくちゃね。

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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週3、4回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。


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