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鼻くそコミュニケーション

よく、友達と鼻くそをつけ合って遊んでいた。実際に鼻くそをつけていたか、鼻くそをつけるふりをしていたのかは覚えていなない。でも、友達とニヤニヤしあいながら時にはキレながら、爆笑しながら、鼻くそをつけ合うあの瞬間はとってもとっても大好きだった。

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小さいころ何が好きでしたかとかいう質問はあんまり好きじゃない。「絵を描く」とか「サッカー」とか「恐竜の図鑑を読む」とか、そういう分かり易いものを求められている気がしていたから。

ぼくがほんとに小さいころ好きだったのは、友達と一緒に即興で変な踊りをして盛り上がることとか、鼻くそをつけ合うこととか、雨の中ずぶぬれになりながら友達と公園で遊ぶとか、そういうことだった。そういうよく分からないことばかりして生きていたかった。

大人になっていくにつれて、そんなことはしなくなっていった。そんなことを楽しむ自分は、社会には必要ないんだと思った。将来の事を真剣に考えれば考えるほど、鼻くそより言葉遣いとか、鼻くそより地位とか肩書を大切にしろという無言のメッセージが社会から降ってくるように感じた。

約二年前ほど、そうやって、鼻くそなんてどうでもいいんだという社会からの圧力を無意識に自らの内面に作り出していたころ。インターンも始めて、肩書ができて、自ら鼻くそとはおさらばしようと思っていたころ。なんか心はモヤモヤしていた。なんか、楽しくない。なんか、退屈だ毎日が。そんな風に思っていた。

そんな中、その時お世話になっていた会社の社員さんとインターンのメンバーと公園を散歩する時間があった。自然が多い公園で一人になる時間を過ごし、晴れていて気持ち良かったが、なぜか心はモヤモヤのまま。その理由もわからず、また社員さんとインターンのメンバーと合流した。

それぞれが、それぞれの最近のことをシェアしている。そのどの言葉も自分には響かない。自分がシェアする番になっても言葉が出てこない。どうしようかとムズムズしていると、

「なんかけいご、さみしそう」

と、一言、社員さんに言われた。言われた瞬間、訳も分からず涙が止まらなくなった。同時に、小学生の頃、鼻くそをつけあって遊んでいたことやただアホなことを友達と楽しくしていた記憶がフラッシュバックした。

そうだ。さみしかったんだ。ぼくはただ、みんなと鼻くそつけ合いたいだけだったんだ。そうやって楽しみたかっただけだったのだ。

今思うと、あの瞬間、鼻くそをつけあうけいごに光が当たったんだと思う。自ら暗闇へ閉じ込めていた鼻くそけいごに。その光は、それ、大切だぞ、忘れちゃだめだぞって言ってくれていた。そんな気がする。

大切なんだ。鼻くそつけ合うことも。どうでもいいことなんてこの世にないんだ。他の人から見たらどうでもいいかもしれないが、自分は鼻くそをつけ合うことが大好きだったんだ。大切なんだという理由はそれだけでいいじゃないか。

それに、ぼくは鼻くそをつけ合うことから多くの事を学んだ。

友達にばれないように鼻くそをつけることとか、やりすぎて本当に相手がキレる前に鼻くそつけるのをやめる技術とか、ほんとは嫌がってたらちゃんと謝ることとか、鼻くそつけられたくらいでキレずにそれを一緒に楽しんじゃう力とか、相手と一緒に楽しみながら鼻くそつけ合うこととか。

ぼくにとって鼻くそつけ合うことは、コミュニケーションだったんだ。愛情表現だった。色んなことが目的化されている社会で、幼いころのぼくは、ただ無目的的に鼻くそをつけ合っていたんだ。別に友達と仲良くなるためでも、仲間外れにするためでもない。ただ、目の前の相手と、楽しんでいた。心を通わせていた。鼻くそを通して。そうやって夢中になっていたら、自然と仲良くなっていたんだ。

鼻くそをつけ合うことは、あまりしなくなった。でも、鼻くそをつけ合うように○○をすることは今でもできる。

目の前の相手と鼻くそをつけ合うように対話すること。家族みんなで鼻くそをつけ合うようにご飯を食べること。鼻くそをつけすぎたときのようにごめんねって言うこと。鼻くそつけすぎて喧嘩になった時みたいに相手の言っていることをちゃんと聴くこと。鼻くそをつけ合うようにハグをすること。鼻くそつけ合うようにお互いを祝い合うこと。

ちゃんとみる。ちゃんと感じ取る。ちゃんときく。ちゃんと言う。エッセンスは同じだ。色んなことが目的化された世の中で、こういう単純だがとても大切な事、鼻くそつけ合う上で欠かせないことが重要になっているとぼくは思う。今こそ、全人類が鼻くそをつけ合うべきなのではないか。

鼻くそから学ぶことはもう一つある。

それは、汚いものを受容する力だ。鼻くそは汚い。臭い。ほんとうにそうか?鼻くそは汚いし臭いかもしれないが、存在しているじゃないか。いるだろう。あなたの鼻の中に。鼻くそはあるのに、ないことにしないでほしい。鼻くそが可哀そうだ。きっと、鼻くそを大切にできたら、心の中にある鼻くそも大切にできるはずだ。鼻くそを嫌うように、誰かを嫌ったり、自分を嫌ったりしているかもしれない。そんなことはやめよう。鼻くそを抱きしめよう。自分の鼻くそも、みんなの鼻くそも抱きしめよう。

こんなことを言っていたら、家のポストに鼻くそを入れられるかもしれない。その覚悟はできている。でも、もしポストに鼻くそを入れたのだったら、しっかりと僕と一対一で鼻くそコミュニケーションをしてほしい。つけ逃げは一番傷つくんだ。ちゃんと関わりたいんだ。

鼻くそは、鼻の全裸だ。見られたら恥ずかしいし、誰かの鼻くそを見つけたら気まずくなるかもしれない。でも、どんと構えていたい。どんな鼻くそが自分の鼻から出てきても、どんな鼻くそをつけられても。大切なのは、鼻くそをどうやってつけ合うか、どうみるか、だ。

そうやって鼻くそから大切にしていけば、もっと優しくなれると思うんだ。

まだまだぼくはアマチュア鼻くそコミュニケーターだからしっかりと修行していきたい。鼻くそつけ合いたい。でも、鼻くそピロリすることは恥ずかしいから、鼻くそはしっかりと掃除しているし、鼻くそつけられたら間違いなく怒ると思うけど。

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鼻くそコミュニケーションしたい。

全部を味わいたい。

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おわり。読んでくれてありがとうございました。

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