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不自由な言葉

僕は村上春樹の小説が好きだけれども、共感するかと言われるとあまりしない。ただその表現や物語に身を任せていると静かな心地よさがあり、また有意義な体験をした気持ちにはなる。書き手と読み手の相性はいいのだろう。

彼の小説における人称の変化と作風の変遷は有名なテーマだ。短編、中編、長編小説の執筆と翻訳作業とをどれも満遍なく取り組みながら作家としての自分を大きく成長させているところも興味深い。

彼の評価・印象は様々だ。「村上春樹の書く孤独は私の味わったような孤独ではない。きざで洒落ていてうすっぺらい」というようなものを目にしたことがある。それもわかる。そして同じくらい、「彼の書く孤独が自分の隠していた孤独に触れてくれた」というような感想を持つ人もいる。主人公の「僕」は、どれも何かしら似た雰囲気を持ったミニ村上春樹だと言えなくもない。

彼の小説には多くの女性が登場する。これもまた、「村上春樹の理想の女(あるいは過去の女)の投影であって一辺倒だ」という感想もある。みな一様に僕から去っていく、あるいは引き寄せられてくるからだ。逆に、「どうして男性作家なのにこんなに女性の気持ちがわかるのですか」という読者の反応もある。そう思う人もいるのだ。

要は、万人受けする小説ではそもそもないのだと思う。変遷はあるものの、彼は一貫してある種の痛みを描こうとしている。そしてその痛みが人生の中心近くにある人にとっては意味のあるものになるのだろう。逆に、違う種類の感情や体験が人生の柱になっている人には無意味なものと映るのだろう。

ただそれでも、掘り下げていくと作品の底を流れているのは、人類に普遍的な感情ではないかと思う。世界中で読まれているのがその現われではないか。そう感じる人にとっては、ひとりで握りしめていた孤独を世界の中に溶かしていく思いがするかもしれない。

小説を書いたことはない。でも漫画を描いたことがある。絵も物語もどうしようもない代物が出来て、恥ずかしくてすぐに捨ててしまった。笑
詩も書いたことがある。読むのも書くのも面白いなぁと思ったけど、中にはよく理解できない詩も多く、また書いて磨くほどには思い入れることは出来なかった。どうしても格好つけた感じになってしまい、やはり恥ずかしくなった。

論理的な文章を書く方が好きだけれども、その論理的な文章を意図的に切り取ったり、薄めたり濃縮したり、広げたりして縮めたりして、味わいが変わるかもしれないというのを考えている。推敲によって、印象は大きく変わる。

スピッツの歌詞が面白い。

小説は、舞台設定を決めるところが面白そうだ。必要なところだけ少しずつ描いていく。後で裏設定が明かされるのもいい。状況を変えれば、登場人物の行動や言葉の意味も変わる。
言葉の不自由さとそこから生まれる面白さがある。

今は東野圭吾を読んでいる。好きな知り合いが言うには、ミステリだけでなく人情があるからいいんだとのこと。そんなふうに言われると逆に読む気が無くなる。でも読んでみると大変読みやすく、そして感想はやっぱり「ミステリだけでなく人情があるからいいんだ」なということになりそうだ。

僕はもっとわからない話が好きかもしれない。解決しない話。だから読み手がずーっと考えていくような。あ、だから村上春樹の作品が好きなのか。

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