ひとつきあいとじぶんの器

どうもうるおの中のひとです。

今日はじぶんの周囲を取り巻く環境とじぶんの器の関係についてぼくなりの考えを。

ぼくが20歳のとき、とある飲み屋に入り浸るようになりそこの常連さんでとある企業を経営している方に可愛がってもらうようになりました。

その方は、ひととの付き合い方やものごとへの考えかた、お金の価値観など社会で必要なことを今思えば親父のかわりとして教えてくださいました。

ぼくの考えかたの基盤となっている思い出です。

またその周り、いわいるその飲み屋の常連というコミュニティですが税理士、銀行関係者、警察官、保険業経営者、とある政府観光局責任者、飲食店経営者などなど何故か何かしらの要職や士業、経営者がほとんどでした。ぼくは


ひととひととは出会うべくして出会いうもの。
ひととしての器量が合い、また惹かれ合うものがあるひとたちがコミュニティを成す

とこの経験から思っています。

器量ってどう量るの?

ぼくはありがたいことに「器広いよね」とお褒めいただくことが多いです。特に自身より年配のかたからお言葉頂戴します。
器量をというのは「過去の経験」から来るものであると考えています。

辛い経験をした、幸せな経験をした。
大変な失敗をした、大変な幸運に恵まれた。
人を不幸にした。人を幸せにした。

様々な経験があるからこそ何があっても動じず他人の気持ちになって自己犠牲を顧みず相手の幸せを考えて対応できる。

これが器量ではないでしょうか。

ひとつきあい


そして同じぐらい様々な経験をしてきたひとはその器量を量ることができ、本音のひとつきあいをする仲となり一生涯の仲ともなるのです。

もしかすると自分では相手とひとつきあいしてるつもりでも器量の差が大きすぎて相手を量れていない。またはこどもを見るめで試されているかもしれません。

ぼくはどんなひとであろうとはじめて会う時に相手を「人生の先生」として接します。15年繰り返すうちに自身の器量の広さと深さも少しは人並みになったのでしょう。早く器量を量ることができ、

「あぁ、このひとの人生にぼくは必要かどうか」
「もっと他の必要としてくれているひとのために時間をつかうべきだ」
と思考できるようになりました。

若人であったり未だ年齢の割に人生経験値が低く、文句や馴れ合い、自己評価で満足するひとには人生目標をもって果敢にチャレンジし是非ともたくさんの失敗や反省を繰り返して自身の器量を深く広くしてください。

なにごとも正座して謙虚さを忘れずに自身を戒めることができるようになれば、そういった器量がある「素晴らしいひとたち」と付き合えると思います。器量も広く深くなりますしね。

「類は類をよぶ」

まさにこの言葉に尽きます。

ぼくも有限である自分の時間の使いかたを考え直している毎日です。


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