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愛と正義の赤ちゃんごっこ【7ーA】
汚れたティッシュペーパーを丸め、溜息をつく。机の脇へ投げつけると、それはゴミ箱の縁に当たり、絨毯の上にぽとりと落ちた。PCのデスクトップでは、愛ちゃんの画像が優しく微笑んでいる。
今頃ギュンターは「試験勉強を手伝う」という大義名分の下、まんまと自室へ連れこんだ美少女を劣情の赴くまま弄んでいるのだろうか。もはや僕には、愛ちゃんと自分が愛し合っている様を思い浮かべることすらままならない。想像の中でさえ、手を伸ばすと彼女は、僕から想いをうち明けられ困惑した時のあの顔で、それ以上の接近を無言のうちに拒絶する。そして僕のまだ見ぬギュンターと抱擁を交わし、まぐわい始める。奴が愛ちゃんの制服を剥き、その下に隠れていた豊満な身体を味わうのを、僕は手をこまぬいて、いや、手を上下に動かしつつ眺めているしかない。
翌朝、ラッシュアワーの中央線で愛ちゃんを見かけた。何と声をかけるべきか。数メートル離れた位置から彼女の様子をうかがう。雨天のため、車内の不快指数は九十パーセントを超えているだろう。濡れた傘が隣の乗客に当たらぬよう注意しながら、愛ちゃんの襟足の小さなポニーテールをじっと見つめる。
不意に目が合ってしまった。ただでさえじとじとした梅雨時の車内で、自分への想いを断ち切れずにいる未練がましい同級生から、知らぬ間に暗鬱な目で見つめられていたりしたら、その気色悪さは察するに余りある。けれども愛ちゃんは、少なくとも表面上は嫌そうな様子もなく、携帯電話を握る左手をこちらに向けて軽く振ってくれた。
新宿に到着し、流れ出した人波に呑まれつつ愛ちゃんに接近すると、彼女の方から声をかけてくれた。
「おはよ」
「おはよう。元気?」
「元気だよ」
昨日も会ったのに「元気?」はないだろう。我ながらそう思ったが、まさかギュンターの所へ何しに行ったの? などとは訊けない。
「試験勉強は、順調?」
無難にそう訊ねると、愛ちゃんはにこりと笑って答えた。
「うん、昨日は結構はかどったかも」
言葉どおりに解釈すれば、ギュンターと二人で真面目に試験勉強に励んでいた、ということになる。たしかに奴は三田塾大学の学生だそうだから、学力は相応にあるはずだ。しかし、仮に僕が奴と同じ立場にあったとして、こんな美少女を自室へ連れこむことに成功し、寄り添って教科書をのぞきこんでいたりしたら、はたして理性を保つことができるだろうか。しかも奴は日独のハーフで男前ときている。女遊びには慣れているだろうし、端からそのつもりで愛ちゃんを誘いこんだに違いない。
「マー君も順調?」
「うん? うん」
ぎこちない会話を続けながら、山手線のホームへ続く階段を上っていくと、気のせいか愛ちゃんの横顔が憂鬱そうに見えた。そして僕の推察を裏づけるかのように、彼女は微かに溜息を漏らした。間近で凝視している僕のみが気づきうる、単なる呼吸とほとんど区別がつかないほど小さな溜息だった。
一時限目から四時限目まで、僕は教室中央最前列に座る美少女の、憂いを帯びた後ろ姿を眺めていた。いくら眺めたところで、僕には愛ちゃんのついた溜息の原因など知りようもないが、まったく見当がつかないわけでもない。たぶんきっかけは、昨日のギュンターとの一件だろう。
詳細な情報を得るには、速水さんに力を借りるしかなさそうだ。昼休みの教室で、弁当を食べながら何やら話しこんでいるらしい愛ちゃんと速水さんを眺めつつ、僕は好機をうかがった。
「おう、どうよ最近」
できれば聞きたくない下品な声がした。僕は席に着いたまま振り返らず、返事もしなかった。この声は茶山(ちゃやま)だ。こいつがいるということは、おそらく傍には子分ΑとBもいるだろう。
思った通り、ほどなく辺りに馬鹿笑いが響き渡った。茶山と青木と山吹(やまぶき)の三人組は、晴天時には大抵、昇降口を出た先の日当たりの良い地面に他人の迷惑も顧みず胡座をかいて昼食をとっているが、最近は雨続きだから、こうして教室に留まっていることが多い。食堂にでも行ってくれればいいのだが、あそこの定食は大してうまくないわりに安くもない。どうやらこいつらも、その点は僕と同意見のようだ。
「桃下のこと好きなんだろ? まだぐずぐずしてんのか?」
あくまでも無視を決めこむ僕を、鼻で笑って茶山が言った。
「だったら、俺が先に手ぇ出しちゃおっかなあ」
予想外の言葉に、僕は思わず振り返った。
「そんな顔すんなって。早いもん勝ちだろ?」
「こないだ『デブ』って言ってたじゃないか」
僕がそう言うと、茶山はにやりと笑ってから、愛ちゃんの方へ流し目を送った。
「まあ顔は申し分ないし、乳も推定Gカップはある。多少の贅肉には眼をつぶってもいい」
何を偉そうに。そもそも愛ちゃんがお前のような不良など相手にするわけがない。
「悪いけど俺、本気だから」
お前が本気になろうがなるまいが、そんなことはまったく関係がない。なぜなら愛ちゃんには、すでにギュンターという恋人がいるからだ。たしかに茶山は、軽音楽部員で構成されるロックバンドのヴォーカルをやっていて、それ相応に整った顔立ちをしているから、自信を持つのもわからなくはない。だが、その程度の男前では、愛ちゃんいわく「恐ろしいほどかっこいい」ギュンターには太刀打ちできまい。おまけに彼は名門・三田塾のエリートコースにいて、サッカークラブのコーチまで務めているのだ。それほどの男と付き合っている愛ちゃんが、お前のことなど万に一つも受け入れるものか。
「赤地の作戦、使わせてもらうわ」
「作戦?」
「俺も桃下と同じ塾に入る」
言うが早いか、茶山は自信ありげに愛ちゃんの所へ向かった。青木と山吹が僕の左右を固め、その間から僕はじっと様子を見守った。かなり強引に速水さんとの間に割りこんだ茶山は、僕らと同じ塾に入る旨を愛ちゃんに伝えたようだ。一瞬ちらりとこちらを見た愛ちゃんは、それから彼と談笑しだした。どうやら会話が弾んでいるらしい。携帯電話の番号交換が始まった。愛ちゃん、そんな阿呆と親しくしちゃ駄目だ。そいつは君のことを「デブ」呼ばわりしていたくせに、あろうことか君の身体を狙っているんだよ。あ、握手なんか求めるな馬鹿! お前ごときが愛ちゃんに触れるなんて許されると思ってるのか! あ、愛ちゃん、そんな笑顔で応じなくても……。
「どうした赤地、溜息なんかついちゃって」
青木がそう言って、山吹と共に乾いた笑い声を上げた。
放課後、雨のせいでどんよりと薄暗い教室から、徐々に生徒が減っていく。僕は速水さんに相談するため、わざとだらだら帰り支度をしながら様子をうかがった。彼女の隣には愛ちゃんがおり、おしゃべりに夢中で一向に離れる気配がない。
「どうかした?」
もの言いたげな僕の視線を、速水さんは鋭敏に感じ取ってくれた。だが、まさかこの場で本題に入るわけにもいかず、僕は曖昧な笑みを返した。
「いや、あの……」
まごついている僕の前を茶山が横切った。
「行こうか桃下」
そう言うと彼は、僕に振り返ってにやりと笑った。まんざら迷惑でもなさそうにうなずいてから、愛ちゃんは僕に愛想笑いをした。
「これから茶山くんに塾を案内するの」
返答に困っている僕に気を留める様子もなく、彼女は颯爽と教室の出入り口へ向かった。
「じゃあねマー君」
愛ちゃんが教室を出ると、すぐに後から茶山も続いた。
「じゃあねマー君」
捨て台詞を残して去っていく茶山を呆然と見送る僕に、速水さんが気の毒そうな目を向けた。
「大丈夫。私もついてくから」
去り際、小声でそう言ってくれた彼女に感謝はしたものの、それは僕にとって気休めにもならなかった。
不安な思いを抱えたまま、帰宅してまずPCを起動させる。デスクトップに表示された可憐なウェイトレスが、僕に優しく微笑んでいる。
僕らと同じ塾に入ってきた茶山は、まんまと僕を出し抜き、愛ちゃんとの距離をみるみる縮める。やがて二人は恋人同然となり、気づけば僕は忘れ去られる。塾の授業が終われば僕は駅へ、二人は住宅街へ消えていく。愛ちゃんの部屋に入った二人は、初めのうちこそ塾の宿題などを申し訳程度にやっていたものの、徐々に妖しい雰囲気が漂いだす。英文法やローマ史よりも、もっと興味深い愛ちゃんの肢体。その隅々(すみずみ)までを、茶山の奴は余すことなく知り尽くす。どうしてなんだ愛ちゃん。どうして君はそんな男に、心も身体も許してしまうんだ。愛ちゃん、愛ちゃん、愛ちゃん……。
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