フィルム写真で少し前の記録。(ちょっと感傷的)
生きていれば落ち込むこともある。
大体の場合は、外からのストレスに気疲れを起こした時、
部屋の中で一人でぼーっとしたり、回想の世界にしけ込んでいることが多い。
けれど、自己嫌悪に苛まれる日も少なくない。
そんな日は、時間が分からなくなるくらい自分の世界に入り込むし、
困ったことに目が開きっぱなしになりがちで凄く乾燥してしまう。
ひとり感傷的な気分に陥ると、過去を振り返る癖は何なのだろう。
内向的な性格であることはよく自覚している。
自意識と20年近く付き合っていれば嫌でも慣れてくるのだけれど、
あからさまな変化に戸惑うこともある。
昔は平気だったことが今は辛いことが多いように感じている。
その癖、昔からの良くない「癖」はそのまま残っていたりもする。
ティーンの体力はもう残っていないので、それは仕方ないとしても、
良い歳こいて精神面で課題が増えるのは全くもって好ましいことではない。
それはただ、ひたすらに悩ましい。
だから書くことにした。
憂さ晴らしの意味を込めて素直な気持ちを文字に起こすことが近頃の挑戦。
まず、一人で街を出歩くことが「寂しい」と思うようになった。
21歳くらいまでは、一人で外を出歩くことは全く苦ではなく、
むしろ一人で行動する方が自由で好きだったのだが、
最近は一人だと本当に寂しい。
これはスナップ写真愛する者にとって凄く痛手になる。(なっている)
日本で知らない人と関わるのがあまり得意でないのはー・・・。
元々だけれど、年々拍車がかかってきているのではないか?と思う。
いや、表面上は仲良くできるのだが、急激に一定以上踏み込んで欲しくない。
とかなんとか言うと人間性を疑われること必至かも知れないのだが、意外とゆっくり時間をかけて関わって行くのが俺の心地の良い「人との付き合い方」なのだろうと…、そう言う理解は歳を重ねて気がついたことである。
「内向的」である事が強まっているのだろうか。
これらの変化のタイミングとしては、自分の中の「恋愛」が一通り落ち着いて、クサい言い方でしか表せない自分のボキャブラリーの無さに苛立ちがあるのは仕方がない事だが、所謂「愛」とか、なんとか、そういった感情を知った後のこと。
親との関係にも一つ区切りというか、自分で納得できる落とし所を決められたし、
自分の置かれた立場や、世の中の多くの問題や理不尽に対しても、
自分の中に一つの納得できる解答を持てるようになった。
それは納得できるようになってよかったと思っているのだけれど、時を同じくして全く別のところで問題が出来ている。
そして因果関係の有無すら不明なのだ。
もしかしたら、そういったことと、精神的な問題に関しては全く関連のないことなのかも知れない。考えるだけ無駄かも知れない。
撮影した写真を見返していて、全く「寂しい」と思わなくなったこと。
前にも何かの記事で書いたかも知れないけれど、僕が写真を撮るようになったきっかけは、その日その日が本当に楽しくて過ぎ去って欲しくなかったから。
当時は毎日が本当に幸せだったと思う、忘れているだけでその当時も多くの問題を抱えていたのかも知れないが、少なくとも今よりは幸せだった。
過去の方が幸せだっただなんて不毛なことだろう。
と、思うんだけど、実際どうだろうか。
勢いで言い切ってしまったのだけれど、多分今も十分幸せは感じている。
ただ、ティーンの情熱や、未来への期待、みたいなキラキラしたものはもう残っていない。
基本的に写真に撮っていたのは当時大好きだった友達や家族との思い出で、写真に撮るということはすなわち俺が結構気に入った人達だったってことは間違いない。
2022,03,17 三宮でめぐママと会う
2022,04,10 須磨浦公園
2022,04,19 タクトと中崎街散歩
2022,04,26 シンガポールへ向かう、母の見送り。
シンガポール滞在より前の記録がここにある。
見返してみると意外にも既に懐かしい。
けど昔、仲間と遊んだ時に撮影した写真とは全く違う。
なんなら昔の方が写真が上手だったと思う。
今の記録の写真も大切な記録だけれど、昔持っていた情熱みたいなものはすっかり失われた感じだ。
だからこそ、そろそろデジタルへ移行できそうな気もしているのだけれど。
やっぱりどこか寂しい。
写真を見て強く寂しいと思えない事が寂しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?