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知識のアップデートの必要性、どれくらい理解されている?

新型コロナウイルス感染拡大が止まりません。

第5波の特徴は大きく二つ。一つは新型コロナウイルスの中でもデルタ株と呼ばれる種類の感染力が、これまでの種類よりも大きいということ。もう一つはより若い世代でも感染するということ。

後者については、18歳未満の子どもの間でも感染が広がっていることが、ワクチン接種の進んでいるイスラエルやアメリカといった国で報告されています。マスク着用義務の緩和など示していた国が、もう一度着用を促すなど、これまでの政策からの転換が見られます。

先にあげた2つの特徴とそれに基づいた政策転換には、「知識をアップデートする」という大前提がはたらいています。新型コロナウイルスについて先に分かっていたことが、後から分かってきたことによって置き換わったり覆ったりということを繰り返し行なっています。

参照する知識が変わるからこそ、取るべき行動も変わってくる。このロジックを働かせるためには、先に述べた前提がなければできません。

しかし、どのくらいの人が知識を更新したり覆したりできると思っているのでしょうか?

科学知識は永続的かつ固定的なものではない

科学知識がどういった性質をもっているものなのか。そのような議論は科学史や科学哲学の中で行われているものです。

普段の生活の中で使っている知識は、昨日使ったものが今日や明日にも使えると思っています。そうでなければ、とても生きてはいけません。学校で学んだこと、教科書や参考書で書かれた内容も、そうそうすぐに変わるものでないからこそ、伝承のためにわざわざ書き残します。そうでないと価値がありません。

ところが、知識というものは、長期的に見れば、後から分かったことにより情報が加わったり、それまで信じられてきたものが覆るということが起こりえます。

少し古い例を出しましょう。

ある昔、ドイツの医者であるシュタールは『化学の基礎』という著書で、ものが燃えたとき、燃えた物質から「燃素」と呼ばれる物質が放出されると説きました。紙や木炭といった物質は燃素をもっているので燃えることができ、燃えて燃素がなくなってしまった物質(例えば灰)は燃えないと考えました。

そこに、別の科学者ボイルが異を唱えました。金属は燃えると質量が大きくなる。燃素が放出されるのであれば、軽くならなければおかしい、と。すると今度は別の科学者が、燃素は負の質量をもっていると説きました。

負の質量ってなんだよ(笑

現代の知識では、「燃える」は燃素が放出されることではなく、酸素と結合することで説明がつきます。紙や木炭の場合、中に入った水分などが蒸発する関係で質量は軽くなりますが、金属はそういったことはないので、酸素とくっついた分だけ重くなります。酸素を発見したのはラボアジエという科学者でした。

この昔話は、燃素=フロギストン説と呼ばれる、1600年台後半に実際にあった化学理論です。この話は他にも色々なエピソードがあります。例えば、水素の発見も最初はフロギストンの発見だと思われていました。

最終的には、燃素は存在せず酸素がより科学的な知識として受け入れられるわけですが、ここまでくるのに約100年以上かかります。もちろん今では燃素は教科書に出てこないか、コラムでちょっとストーリーが出てくる程度です。

一度信じた知識を変えるのは簡単じゃない

この実際にあった歴史から得られる教訓を一つ挙げるとするなら「一度信じた知識を変えるのは簡単じゃない」ということです。

フロギストンの時代と現代では当然のことながら科学技術に大きな差があるわけですが、それはいつの時代を切り取っても必ず差があるのだから、それを言い訳にしても仕方ありません。

この話のポイントは、「負の質量」で説明したのがシュタール本人ではなく別の科学者だったというところです。シュタール一人が言い張っていたわけでは決してなく、その理論を支持していた科学者が一定数いたということです。また、酸素という存在が分かったからすぐに乗り換えたというわけではなく、酸素説がより信じられていく過程で、長い時間をかけて相対的にフロギストン説の支持が衰退していきました。

新型コロナウイルスの話に戻りましょう。

新型コロナウイルスも、2020年初めの頃はその脅威も対策の仕方も十分には分かっていませんでした。マスクや手洗いの徹底、三密を避けるといった行動指針は、新型コロナウイルス特有の対策ではなく、飛沫感染の恐れのあるウイルスに対するごく基本的な対策です。もちろん風邪やインフルエンザの際にも使えます。

大きく異なるのは、感染力の強さと変異ウイルスの存在です。対策が同じだからといって、感染のしやすさが同じというわけではないし、感染のしやすさがずっと変わらないことも元々意味してはいません。・・・意味はしていないけれど、私を含め、最初同一視してしまったという方も少なくないのではないでしょうか。

知識は自ら更新できる、変わってもよいものだという認識

新型コロナウイルスの最新情報を集め、知識をアップデートしていくことは必要です。ただ、ふとこれまでの学校の学びや日常を振り返ったとき、そもそも知識をこんなにも短いスパンで次々と更新する機会はそうそうなかったと感じます。

それでも、学校を出た後も学び続けている人なら知識のアップデートはそんなに違和感がないかもしれません。逆に、慣れていない人だと「言われた通り対策したのにダメだったじゃないか!」と怒り出しても無理はありません。

新型コロナウイルス感染は、全人類にとって存亡の戦いであると同時に、「知識」というものの形、性質、あり方、伝達の仕方、行動の実行について問い正されているような、そんな現象にも見えます。

これを読んだあなたは、どう思いますか?

自分や周りの人は、知識というものをどういう性質のものとして捉えているのでしょうか? 知識のアップデートの必要性、どの程度理解されているのでしょうか? 機会があったら調べてみたいです。

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