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究極的に幸福な社会

幸福とは何か?
そう言うと胡散臭く思われそうだが
真面目に論じてみたい。

まず、幸福とは何であるかを語るには
精神が何であるかを語らなければいけない。

ある機構のある状態について語るには、
その機構が何であるかを
語らなければいけないのだ。

精神とは主に3つに分けられる。
本能,感情,知性である。
本能とは具体的な感覚。
感情とは抽象的な感覚の中でも
強く快不快を起こす物。
知性とは抽象的な感覚に
思考という処理をし新たな
抽象的感覚を得る機能,欲求。

幸福を論じるにあたって、
重要なのは本能と感情である。
今回の議題においては、
知性は感情の1種と捉えてしまっても良い。

なので、幸福を論じるとは、
本能の幸福と感情の幸福を論じるに相当する。
(幸福とは感情の1種という意味で
使われる事が多いので
本能の幸福という言葉は
いささか矛盾しているが、
今回は快一般を幸福と呼ぶ)

本能は具体的であるが故に
満たされている状態と
そうでない状態は限定されている。

逆に感情は抽象的なので
何が不満なのかわからないが
不満であるという事が多い。

食欲における幸福とは
飢えているか栄養豊富な
飯を食べているかの違いであり、
睡眠欲とは十分に寝ているか寝ていないか。
痛みはあるかないか。
寒さもあるかないか。

本能の幸福は上限がはっきりしているし、
足りないか足りてるかな話が多いので
加点ではなく満点からの
減点で考えた方が良い。

では、現代において本能の幸福はどうか?
それは究極的に幸福と呼べる。

古代から人はより、味の濃さ×食事量を
高めようとしてきた訳だが
現在、これ以上,味を濃くしたら
不味くなる程に濃い味をした料理を
これ以上,食べたら満腹,過ぎて
不快になるまで食べれる。
食欲は究極的に満たされているのだ。

本来、人は,生物は生存ギリギリの食事量で
半ば飢えながら生きる物である事を
考えると異常な豊さと呼べる。
生存ギリギリの食事量じゃなかったら、
人口が増えているという事であり、
それは本来的ではなく、
あらゆる生物は基本的に、
人口,頭数が増えも減りもしないのだ。

食欲が究極的に満たされていると言うと、
高級料理を食べられないと
言う人達が出るだろうが、
高級料理は幻想に過ぎない。

重ねて言うが食欲の幸福とは、
味の濃さ×食事量が基本であり、
味のバランスは基本、
ないと不快なだけで、
あれば不快ではないだけだ。

いかに味のバランスを整えようと、
95点の料理が97.5点や
98.75点になるだけで、
味のない白米とカレーライス程の
美味しさの違いは生まれない。

味のバランスは、
悪いと美味しさを減らすが、
逆に言うと悪くなければ、
美味しさを減らさないだけで、
味のバランスをどれだけ高めても
美味しさが増える事はないのだ。

当たり前だろう。
500カロリーのご飯を食べたのに
1000カロリーのご飯を
食べた様な幸せを感じれる訳がない。

味のバランスがどうだろうと、
500カロリーのご飯よりも
1000カロリーのご飯の方が
より命を長らえさせる。

車にガソリンを1L入れた時よりも
2L入れた時の方が2倍,進める様に、
味のバランスをどうこうしたところで
その食べ物の本質たる、
カロリー,塩分量,油分量,タンパク質量は
変わらないのだから、
美味しさが大きく変わる訳がない。

どれだけ味のバランスが究極的でも、
中世の食事並みの薄味なら
カップラーメンに劣る。

カップラーメンは究極的に美味しく、
高級料理と大して変わらないのだ。
100円の飯と1000円の飯なら
ある程度の差があるかもしれないが、
1000円の飯と10000円の飯となると
違いが全然わからなくなる。

正直,1万円のディナーなんて
別に美味しくないだろう。

高度な味のバランス、高級料理は
0.9,0.99,0.999と
有限である1という値に
近付こうとする営みに過ぎない。

そして、薄味のラーメンは1で
濃い味のラーメンは2。
所詮,成分がどうであるか、
味の濃さがどうであるかで
大半が決まるのだ。

また、寿司やいくら,蟹は美味いが、
単にめったに食べられない食材で
新鮮な味をしているだけで、
食べられたら嬉しいけど、
別に10年,20年,食べなくても
何ともならない程度でしかなく、
真に欲しているとは呼べない。

よって、先進国の国民は
食欲が究極的に満たされている。
食欲は本能の中でも
快の側面が強く、単に不快が
あるかないかといった物ではないが、
では、本能的な不快が
先進国の国民にどれだけあるか?

寒さに悩むか?暑さに悩むか?
不眠に悩むか?痛み苦しみに悩むか?
基本的に悩まないだろう。

生活保護の収入だろうと、
冷房も暖房も使うし、
ベッドと毛布と布団で心地よく眠り、
猛獣に襲われ怪我を負う事もない。

先進国の国民は本能的には
究極的に幸福であると言える。

病を除けば、
本能的に満たされているという点では
中世の王族と先進国の国民の暮らしは
何も変わらないし、
先進国の国民はその上で
文化的に恵まれている。

これは異常な事で生物としての
理から外れた状態だ。
飢えに苦しみ、病に苦しみ、
寒さや暑さに苦しみ、
本能的に満たされない状態が基本であり、
人類は文明を起こしてから数千年間、
本能を満たす為に進歩を続けてきた。
今の社会はその到達点と言える。

では、感情の幸福はどうか?
日々,人が感情を満たそうとする行動は
文化に触れ,創造する行動が
大きく占める。

ゲームをし、アニメを見て、
漫画を読み、歌を聴いて歌う、そんな事だ。
文化も昔に比べ発展している。

先進国の国民は本能が満たされ、
感情的になった。繊細な感情を持った。

本能的に満たされているから、
飢えてなく死の危険がないから、
些細な悩みを持てる。
感情的になれるし、繊細な感情を持てる。

そして、繊細な感情は
より高度な文化を生むし、
より人間の感情を表現できるように、
より細かく思い通りに表現できるように
発達した道具によっても文化は発展した。

50年前の歌や漫画が
つまらなく感じるのは
時代が違うからだけではない。

単に昔の文化より今の文化の方が
優れている、面白いからだ。
昔の文化にも良い物もあるが、
良さと頻度の分布を考えれば、
今の文化は昔の文化より
全体的に優れている事がわかる。

30歳のオタクが
最新のアニメを見て、
最新の歌を歌う事はあるし、
15歳の人が
15年前のアニメを見て、
15年前の歌を歌う事もあるが、
15歳の人が15年前のアニメだけを見て、
今のアニメをつまらなく感じる
なんて事はない。

昔の文化を良く感じ、
今の文化を良く感じないのが
老人だけで若者にそれがないのは
今の文化の方が優れているからだ。

先進国の国民は文化的な幸福も得られ、
感情も満たされているといって良いだろう。
だから、今の人達は
究極的に幸福でありこれ以上の幸福など
想像もできない筈だし、
100年前の王様よりも幸せな
生活保護の人がいるこの社会で
不幸や貧困などない筈だが、
人々は直感的にそうは思わない。
それは何故か?

まず、人は石ころを宝石だと思うからだ。
人は価値を妄想できる。

1000円の飯と何も変わらないのに、
10000円の飯を食べたいと願い、
それを強く望む者は
それが叶わない事で感情的に不幸になる。

これはあらゆる高級品がそうだし、
人はなくてもいい物を
なくてはいけないと妄想し
勝手に不幸になってしまうのだ。

どうせ、ベッドの上でゴロゴロ,
スマホをいじる以上の
娯楽なんてないのに広い家を欲しがり、
石ころでしかない宝石を欲し、
カップ麺と何も変わらない
1万円の飯を食べたいと願う。

そして、それができない事を
不幸だと感じているのだ。

その不幸は自分で勝手に
作っているに過ぎない。

この社会では生活保護でも
究極的に幸福だし、
月収10万と100万に
大した違いはない。

想像してみよう。
具体的に月収10万と
100万で何が変わるのか?
月収10万では手に入れられない
大きな幸せとは何か?

世界最高級のゲーム機は
switchやps4だろうが、
月収10万でも買える。

世界最高級の携帯型通信機器は
スマホであるが
5000円のスマホも
20万円のスマホも何も変わらない。
同じ様にゲームができて、
youtubeが見れる。
分割払いなら月収10万でも
5万円くらいのスマホを買うだろうし、
wifiもモバイル通信も
月収10万で契約可能だ。

究極的に美味しいカップ麺や
カレーライスが食べれて、
毎日とは言わないが、
たまにはカップ麵より
ほんの少し美味しい、
1000円のラーメンも食べれる。

風呂に毎日,入れるし、
暖房も冷房もわざわざ
節約する必要なんてないだろう。

柔らかなベッドの上で
暖かな毛布と布団で身を覆い眠れる。

生活するのに困らない設備と
広さのある家はワンルームで
家賃は1万円くらい。

さて、月収100万になったら、
何が変わるのか?

switchより面白い、
switchより20年くらい
進んだゲーム機が手に入るのか?

スマホより20年くらい
進んだ携帯型電子機器が
手に入るのか?

物凄く気持ちよいお風呂に入れるのか?
物凄く気持ち良い
射精の様な睡眠が叶うのか?

白米そのままとカレーライスの
美味しさの違いくらい、
カップラーメンと美味しさが違う、
とても美味くて感動し、
身悶えする様な飯が食えるのか?

そんな幸福はこの世界にない。
月収10万の時点で
究極的に幸せであり、
それが上限なのだから、
それ以上,幸せになるのなんて
そもそも不可能なのだ。
薬物でもやらない限り。

自殺するくらいブラックな会社に
務める人は別に不幸じゃなく、
やめればいいだけの話で
不幸というより単に哀れでしかない。

中卒フリーターと聞くと、
貧しく辛い人生を思い浮かべるが、
それは王の暮らしであり、
月収100万の暮らしと大して変わらない。

高校,行かなくても不幸にならないし、
何なら人を殺して刑務所,暮らしでも、
多少,古めかしくて自由が少ないだけの生活で
飢える事なんてない。

先進国の社会において、
真に不幸と言える者、
真に貧しいと言える者などほぼ存在しない。
犯罪にでも巻き込まれない限り幸福だ。

ただ、感情において、
満たされていない人がいる幸福もある。
それは恋愛や結婚,子育てだが、
これは感情の幸福であり、
感情の幸福は得られなくても、
得られてない事を意識せず、
不幸と感じない人が多く、
所詮、あったら良いけどなくても困らないし、
実際に叶えてもより不幸になるかもしれない、
頭の中にある幸せに過ぎない。

そもそも、感情の幸福の多くは、
なくても苦しくないし、
なくなってもすぐに慣れるし、
得てもすぐ慣れるから、
あってもなくてもあまり変わらず、
どちらかと言うと、
あった方が若干,幸福である程度の
話に過ぎない。
真の幸福も真の不幸も、
つまるところ本能が満たされているか
どうかだけで、故に
先進国の国民は究極的に幸福である。

恋愛のうち交尾は性欲だが、
性欲は感情的なので、
得られなかったら得られなかったで
その現状に慣れるし、
得たら得たらでその現状に慣れる。

空腹や寒さなどの本能は
慣れる事なんてないのにだ。

だが、本能的幸福にも唯一、
先進国の社会で得られてない物が
あるかもしれない。

それは労働だ。
人は1日16時間程,起きているが、
そのうち半分もの時間、
代償でしかない時間を過ごしている。

労働とは即ち苦役であり、
時間がなくなる事だ。
労働は基本的に趣味ではなく、
労働に面白みがあるとしても、
そんなのはコピー用紙を食べるのは
厚紙を食べるよりは
マシという程度の話でしかなく、
基本的には苦役でしかない。

本当に労働が楽しいとしたら、
たまたま趣味で、
労働で発生する効果が生じてるだけで、
それは趣味であって労働ではない。

その点を踏まえて、
究極的な幸せとは何か?

それは働かずに
先進国の暮らしをする事だ。

つまり、ニートか不労所得で暮らすか、
趣味で金が生じる様にするかである。

1日8時間,働き、
疲れた頭でなにも楽しめず、
何もできないまま眠りにつく、
そんな毎日を送る社会人に比べ、
1日中,遊んでいられるニートが
どれだけ幸福か。

死ぬまでニートできたなら勝ち組だ。

だが、ニートは老後が心配だし、
道徳的に問題だし、
可能かどうかは親の性質に依存する為、
憧れる人は少ない。

株のトレーダーや会社経営などで
労働以外での経済活動で不労所得を得るか、
youtuber,vtuber,漫画家,
イラストレーターなどの
文化的な職業(学者などの
学術的な物も含む)に就き、
趣味で金を生む事に憧れる人が多い。

結論を言うと、好きにすればいいのだ。
どう転んだって幸福な事に変わりなく、
好きなだけ挑めばいいし、
好きなだけダラけて
何も頑張らずに生きるのもいい。

中世の人々が夢に見たこの天国に
本当の不幸などありはしなく、
守られきっているのだから。

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