【読書感想文】 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』を読んで〜ウィルヘルムを考える〜
こんにちは。胡乱布団です。
先月、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んだのでその感想と邪推を残しておこうと思います。
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好きなタイプの純文学だった。
わたしは、小説、特に純文学では、登場人物が自身の哲学観をさもありなんと語ってみたり、理想と現実が屈折して懊悩したりするものが好きなのですが、『若きウェルテルの悩み』はまさにそういう作品でした。
ウェルテルの人生観
この一節は、第一部の序盤に出てくるのですが、ウェルテルは人間の「自省」について述べています。自省というものは、人間が社会的成長をするうえで不可欠な人間的なものであると思いますが、裏を返すと、生物学的成長をするうえでは必ずしも必要ではなく、詳しくはありませんが、ほかの動物は自省というものをしないのではないでしょうか。
とすると、この自省という行為は後天的に備わったようにも思えてきて、それなのに、どうして人間はこの「自省」を止めることができないのでしょう。まったく不思議なものです。
これは共感できる方も多いのではないでしょうか。
幸せを定義することは、意外と難しいものですし、それを測ることはさらに難しい気がします。
たとえば、瀬尾まいこさんの小説に『そして、バトンは渡された』という名作があります(わたし、これめっちゃ好きです)。
この小説は
という書き出しから始まるのですが、これは主人公(優子)が両親が合わせて5人いるという稀有な自分の境遇に、大抵の人は同情を覚えてしまうことへの申し訳無さを表した一文となっています。
これはほんとうに強がりではなくて、主人公はどの親の元でも楽しそうに暮らしています。
つまり、この場合は、優子の幸せを周囲の人は正しく測れていないと言えます。
これこそが、ウェルテルの言う、「幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ」に該当するわけです。
気になったポイント:ウィルヘルムはだれなのか。
『若きウェルテルの悩み』のほとんどは、ウェルテルからウィルヘルムに宛てた書簡の文章のみで構成されています。まあ、書簡体小説というやつです。
ウェルテルは、旅先でのあれこれ、シャルロッテに対する止まらぬ思いなど、彼の生活に関することをことごとくウィルヘルムに宛てて書いています。
順当に考えるなら、ウィルヘルムはウェルテルの良き友人なのですが、わたしが気になるのは、ウィルヘルムからウェルテルへの語りかけが一切小説内に現れないことです。
ウィルヘルムがウェルテルになにか物申したことは、ウェルテルの書簡内で言及されてはいます。ですが、ウィルヘルムからウェルテルに宛てた手紙や、ウィルヘルムについての詳しい描写は一切なかったように思います。これは怪しいです(まあ、ウェルテル宛ての書簡はウェルテルが書類をすべて処分してしまったという描写があるので、無いのは不自然ではないですが)
もちろん、ウィルヘルムはまったく別の場所にいると考えられますから、出てこないのは当然かもしれません。しかし、ウェルテルの書簡にはたびたび自分が自殺を考えていることが仄めかされています。
それであるのに、彼のもとを訪れようとしないのは、ウェルテルがウィルヘルムに向けている思いと、ウィルヘルムが彼に向けているそれとでは、なにか質的な差があるのではないかと邪推してしまいます。
さらに、ウィルヘルムの為人も一切明かされていません。これは怪しくなってまいりましたよ……(`・ω・´)
邪推1:ウィルヘルムは編者なのではないか?
『若きウェルテルの悩み』は先にも述べたとおり、書簡体小説であります。加えて、この小説には編者という、この小説の諸々の書簡を編纂した人物が読者に語りかけてくる形で登場します。
そのため、編者とウィルヘルムは知り合いである、少なくとも関わり合いになった可能性が非常に高いです。
後世の奇特な人が書簡を掻き集めたのでは? という反論もありそうですが、編者は書簡にはなっていない当時の情景そのものも把握していることからすると、やはり同時代の人間と考えるのが自然だと思います。
そのうえで、『若きウェルテルの悩み』にはウィルヘルムの人物的特徴がまったく掴めないようになっています。
仮に、編者がウィルヘルムをインタビューでもして、書簡を集めたら、多かれ少なかれウィルヘルムについても述べるのが、自然な構成ではないでしょうか。それなのに、書かれていないということは、編者自身がウィルヘルムだった……、と考えることも出来ます。
なぜウィルヘルムは編者となったか
ウィルヘルムはいわば、自分の友人が自殺したのを止められなかった不名誉があります。さらに、ウェルテルの口ぶりからもウィルヘルムの出自は平民などではないでしょう。
ウィルヘルムは自身と友人の醜聞が広まるのを恐れたがゆえに、自らの手で書簡を編纂し、ウェルテルの自殺をひとつのラブロマンスに仕立て上げたのではないでしょうか。
このように書くと、なんだか露悪的でウィルヘルムが嫌なヤツに見えてきますが、ウィルヘルムをフォローしておくと、編者は文中でこのように述べています。
ここには、ウィルヘルムの内省と弁解が表れています。まず第一文は、「自殺という〜変らぬものとなった」とありますが、この時点ではもう自分にはどうしようもなくなってしまったという弁解、および、自身の力不足を呪っていると解釈できます。
次の文は「文章不明瞭」とは言うものの、編者が編纂をしている上で、この書簡が最後通牒のようなものであったのだと気付いた、つまり、当時は気付けていなかった後悔や反省が表れているのではないでしょうか。
いわば、ここはあとから気づいたターニングポイントで、ウィルヘルムの悔恨がそれとわからぬ形で表れているのだと思います。
邪推2:ウィルヘルムは非存在なのではないか
ウィルヘルムはそもそもウェルテルのイマジナリーフレンドで、ほんとうは実在していないのではないでしょうか。
あるいは、ウィルヘルムこそが彼の理性で、ウェルテルは感性であるということも考えられます。
つまり、あの書簡はすべて――実際に書かれたか否かは問題ではなくて――ウィルヘルムという他者にではなく、自分自身に宛てられていたということです。
これは、あまりにも突拍子もないことに聞こえますが、ゲーテはヒントを出していました。
これは先にも引用しましたが、いちばん最初の書簡に出てきます。この一文は「この小説は内省小説である」と宣言していると捉えることもできなくもなくもないかもしれなくもないですね。ええ。
とすると、最後の自殺もメタファーなのではないかとも思えてきて、√ウェルテル生存が見えてきました。
まとめ
なかなか良い読書体験でした。
わたし個人は恋愛にはまったく疎い欠陥人間なので、正直、恋愛感情の機序とか機微とかは、1ミクロンほども理解もできなければ、実感も経験もないのですが、ウェルテルのように自分の生を擲ってまで他者を思える感性と情動の強い人間が――フィクションではあるものの――世界にはいるんだなと、しみじみ思いました。
また、これを読んで自殺してしまった人が続出した、いわゆる「ウェルテル効果」というやつですが、読む前はなにをバカバカしい、小賢しい出版社のアジ的な宣伝だろ「ええ! そんなことあるの!」と半信半疑でしたが、ぜんぜんあり得るなということも実感できました。
この小説は、ほんとうに恋をしている人の機序が、かなりのリアリティが担保されつつ、描かれています(おそらく)。
ために、実際に恋愛をしていて、この小説に感銘を受け、ウェルテルと同じ道をたどるということは十二分にありえるような気がしました。
*この記事は徹夜明けに書いています。そのため、適当なことばかりを論じていた可能性がおおいにあります。
胡乱布団
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