ジャベールの死とキリスト教

 自殺はキリスト教において大罪である。

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、ジャベール警部だけが天国に迎え入れられない。彼は“悪人は死ぬまで悪人である”という考えの元、主人公ジャン・バルジャンを執拗なまでに追いかけ回すのだが、終盤でその正義に疑念を抱き、絶望して自ら命を絶つのだ。

 物語では一貫してジャベールの方が悪役として描かれているため、どう見ても心を入れ替え善人となったバルジャンへの彼の頑なな態度は目障りに映るが、公平な目で見れば彼はただ職務を全うしていただけである。
 自分では正しいと信じてきたものが実は間違っていたと判明してしまっては、それまでの人生の一切が無に帰したと感じても不思議ではない。
 ジャベールの死は、その間違った正義で傷つけた人間たちに対する、一種の贖罪とも取れる。

 一方、勝ち目の無い革命に命を燃やした青年たちは、全員天国に行く。
 確かに、負けを悟って自害するような人物はいなかったが、死ぬと分かっていて戦いに向かうのは自殺と何が違うのか。
 もちろん、原作が発表された当時のフランスの状況は考慮に入れるべきだろうが、前者は己の信念に敗れた故の死、後者はそれを最期まで貫き通したが故の死であるのが、両者を分ける要因なのだろうか。

 しかし、革命軍の青年たちが自由を手にするのは、死んでからのことだ。
 娘の養育費のために劣悪な環境で娼婦にまで身を堕としたフォンティーヌも、恋する革命軍の青年を助けるために命を落としたエポニーヌも、幸せになれたのは天国に行ったからである。
 もう苦痛も、争いも、不平等も無い場所にようやく行けたからだ。

 わたしはあの終わり方に寒気を覚えた。
 人生での苦難を乗り越える強さを謳った話だと思っていたら、結局死なないと報われないなんて、あまりにも無情すぎる。自殺は大罪とする割に、死そのものを救済として描くのはおかしいではないか。
 救われる道があるのなら、それを選びたくなるのが人だ。それなら革命軍の彼らにも、無駄死にするのではなく、生きて世界を変える選択をさせて欲しいものである。死なないと幸せにはなれないのなら、生きる意味など有って無いに等しい。

 一部の人にとって、死こそが救いになるのは否定できない事実であり、自らそれを選ぶ人を責める権利は誰にも無いのだ。
 キリスト教では、命は神によって与えられたものであるから、人間が自害するのは自身に対する殺人であり、いつ死ぬかも神の思し召しという理屈らしいが、だったら神があの青年たちをあそこで死なせた理由は何なのか。

 わたしにはジャベールの決断が、それまでの人生で彼が成し遂げてきたこと全てを帳消しにしてしまうほどの罪であるとは考えられないのである。

 彼は自らの行いを悔いたからこそ、身を投げたのだ。罪悪感や絶望に耐えかねて死を選んでしまう人たちが辿り着けないような場所が天国なら、そこは強者のための場所であり、優しい楽園などではない。

 もし、今は神が気を変えて自殺者も天国に迎え入れているようなら、間違いを犯した神はもはや人間と変わらず、人の生き死にに口出しできる立場にはないのだ。

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