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「強く生きろよ」が悔しくて。

朝のコーヒー飲みながら新聞をななめ読みでしてたら、新聞下段の広告スペースに制服姿のかわいい女の子の写真が目に止まりました。新聞社主催の「あなたの心にとどいた大切な言葉」という中高生向けの作文コンテストのお知らせのようです。


私だったら何を書くかなぁ。みなさんあります?心に届いてずっと残っている言葉。私はあります。


中学卒業式終了後、担任の男の先生は生徒のひとりひとりと握手したんです。私と握手した時、先生は言いました。「強く生きろよ」。私はじわぁと涙が出てきました。悔しくて。


え? そう、悔しくて。


先生は私のことを弱いって思ってたんだなぁと思って。この先生のこと好きだったし、先生も私のことを嫌いではなかったと思います。気にかけてよく心配もしてくれました。でも成績表の記述欄に「自分の世界に閉じこもる傾向があります。もっと広い世界にたくましく生きてほしい。」と書いたように、小さな自分の世界に閉じこもってびくびく生きている子、もっと強くなければ幸せになれない子、と私を評価しているようでした。(それには私が当時良くない意味で目立つ容貌をを持っていたことと関係あるのですが、それはまた別のお話)


でも私は当時思っていました。いつもひとりで本ばかり読んでいた自分は他の生徒より広い内面世界をもっていると。今でもそれは間違った認識でもなかったと思っています。こうも思っていました。憐れまれたりバカにされりしてたまるか、と生徒同士のヒエラルキーの中に組み込まれない自分が弱い訳がない。そう、とってもプライドの高い中学生女子でした。今でもそういう少女は私の中に住んでいます。今でも生意気で自意識過剰気味の中学生の私は私を見つめています。「プライド持って生きてる?舐められてない?」って。


心にズシンと残る言葉って自分を励まし勇気づける言葉とは限らないですよね。


私は、この先生の言葉が悔しくて高校一年生の夏休みに先生に暑中見舞いをだしています。ハガキに渾身の水彩風景画を描き、どれほど友達が多く、幸せでイキイキした高校生活をおくっているか書きました。嘘ではなかったです。


でも、先生が願ったようなわかりやすい幸せを生きる自分に変わったように書いたことを今は少し恥ずかしいと思っています。私は私のままで幸せになれるのだと伝えられれば、それが本当は一番良かった。


私は、15歳の少女は、先生に褒めてほしかったんですね。お前は逃げてない頑張って生きてるって言って欲しかった。


あの言葉を大事にしてきたのかと問われれば、大切に思っているというのとは違うように思います。けれど、私自身がどのように他人の目に映るのか、私はそれにどう対峙して生きていくのか、という新たな思考の出発点になった言葉でした。それは、私にとって「大きな事」であるのは間違いないように思います。

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