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できないのは「子どもだから」じゃない

夏休みと冬休みに、小学生向けの図工教室でワークショップをしている。
主催者が別にいて、そこにワークショップの企画を持って参加するのだ。
開催の2ヶ月前くらいに企画の確認会があって、危険な行程はないか?子どもたちが楽しめる内容か?などを主催者と話し合う。

そこでよく言われるのが「これは子どもはできないよ」だ。
私には子どもがいないし、親類縁者にも小さな子はいない。
3歳違いの弟が幼かった頃が、小さな子と一緒に過ごした最後だ(その頃は私も子どもだった訳だが)。
だから、私には子どもがどういうものかわからない。
何ができて、何ができないのか、その線引きがわからない。
小学生向けのワークショップを1年半やっているけれど、図工教室の1週間の間しか触れ合っていないのだから、やっぱり未だにわからない。
だけど、思うのだ。
「子どもだから」できないのでは、ないんじゃなかろうか?と。

ワークショップをやっていると、1年生のA君はできたが、5年生のB君はできない、ということが普通にある。
子どもが手間取っているのでお母さんが手伝ったら逆に大惨事、ということもよくある。

1歳より2歳、1年生より2年生、小学生より中学生、子どもより大人…と、より長く生きている方がいろいろなことができると思ってしまいがちだけれど、たぶん、そうじゃない。
そうじゃない、というか、長く生きているからいろいろなことができるのでは、ない。
「知っていること」の量と「やったことがあること」の量が多いから、そのぶんできることが多いのだ。

家庭によって教育方針は違うだろうけれど、公立小学校に通っていれば1年生で知ることができることの量はだいたいみんな同じだ。
2年生になれば、みんなだいたい同じだけの新しいことを知る。
だから、1年生と2年生でできることには差があって、それはみんなだいたい同じだと思ってしまっている。

だけど。
子どもたちはみんな違う生活をしている。
家で折り紙ばかりしている子と、公園で遊んでばかりいる子では、知っていることが違ってくる。
折り紙ばかりしている子は、ズレないように折るコツを知っているかもしれないし、2箇所を同時に抑える時に自分が力を入れやすい指がどれかを知っているかもしれない。
公園で遊んでばかりいる子は、雨が降る前に空気の匂いが変わることを知っているかもしれないし、自分の場合は順手の方が力が入りやすいから逆上がりも順手の方が良いと知っているかもしれない。
じゃぁ、それらを大人が知っているかというと、そうじゃない。
紙をズレないように折ることができない大人もいるし、逆上がりができない大人もいる(私だ)。
ちなみに、紙は綺麗に折る方法を知って少し練習すれば誰でもズレずに折れる。
聞くところによると、リズムをつかめば誰でも逆上がりができるらしい(マジか)。

もちろん、「力が弱いからできない」「体が小さいからできない(届かない、とか)」は当然ある。
でも、それは「子どもだから」ではない。
大人だって非力であればできないだろうし、背が低ければ届かない。

結局、個人なのだな、と思う。
「この年齢だとどうなのか?」というのはものすごくざっくりとした目安でしかなくて、できるのかできないのか、どう伝えればできるのか、というのは一人一人違う。
作業のスピードも、年齢の問題ではなく、性格の問題だ。
子どもと同じ講座を大人がやっても、出来上がりまでにかかる時間はそんなに変わらない。

冬休みの図工教室で、右手を骨折している子がいた。
お母さんは「利き手が使えないので、サポートをお願いします」と伝えられた。
骨折してても参加したいと来てくれたことが嬉しくて、しっかりサポートしようと気合をいれたのだけれど、結局、その子は私の手助けなど必要とせず作品を作り上げて帰って行った。
どうやら、手を固定した状態でも使える指はどれか、どういう動きで物を抑えられるか、そんなことをもう知っていたようだ。
利き手を骨折していたら工作はできない、というのは思い込みでしかないのだ。
利き手を骨折していたらいつもと同じように工作ができない場合が多い、というのは事実だろうけれど。

「できない」と決めつけて、機会を奪うことはしたくない。
確実にできることだけをやっていては、新しく何かを知る機会はなかなか訪れない。
「知る」ことで未来の選択肢が増えるから、私のワークショップではできるだけ新しく何かを知ってほしい。
今のままでは「できない」なら、できるようになる情報を知ってもらえば良い。

今年の夏は、子どもたちを何を作ろうかな。

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