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パーマネント・アンシーン

ANG

ANGとは、エイリアネーション・ジェネレーションのことである。ANGは、疎外された世代である。そこに存在しているのに不可視なものにされている。とても小さくて見えないものにされているのではない。逆に、それは大量にして膨大で分厚すぎるがゆえに、どこをとっても過剰で、まるでハレーションを起こしたかのように真っ白な見えないものにされてしまう。そして、それは、つまるところわたしのことなのである。正確には、わたしの属する世代のことである。より厳密にいうと、今とても苦しい思いや辛い思いをしているわたしたちの世代の多くの人々のことである。ただし、わたしたちの世代にも全く苦しい思いや辛い思いをせずに日々を過ごせている人々もかなりいる。だから、それはわたしたちの世代のほんの一握りの人々のことなのかもしれないのだ。もしかすると、ほんの一握りでもなくて、それはただわたしのことだけをいっているのかもしれない。だとすると、それはつまるところわたしのことなのである。ANGとは、そういうもののことをいう。これから、そのエイリアネーション・ジェネレーションについて、あれこれつらつらと考えてみることにする。

YOU

1984年6月9日に放送された「YOU」の放送100回記念特番「気分はもう21世紀人」が再放送されていた(2021年2月14日)。まだ、司会が糸井重里だったころの放送回で、とても懐かしい気分になった。あの頃、毎週土曜日の夜に「YOU」を見て、新しい時代の空気のようなものを思い切り吸い込んでいたのだなあと、今となってはしみじみと思う。教育テレビの夜の番組であるのだが、お正月にスタジオでRCサクセションがライヴを行い、そこにアントニオ猪木が合流して夢の共演を果たすという、かなり突き抜けた自由な内容で、ひときわ異彩を放っていた。時代のフツーに抗いたい、そのへんのフツーでは物足らない若者たちからの絶大な支持を受けていた番組だったと思う。土曜日の夜というとドリフやひょうきん族も放送されていたが、そういう意味では「YOU」には、そうしたお子様向けヴァラエティの要素はほぼ皆無であった。そのちょっとした堅さや真面目さこそが、教育テレビの「YOU」だからこそ寄せることのできる信頼感の証しともなっていた。従来の子供向け番組ならではの浅さというものを若者たちはもう求めていなかったのであろう。番組のターゲットは高校生以上のつまりハイ・ティーンであったというが、実際の視聴者層はもう少し広かったと思う。まだ中学生だったわたしもよく見ていたくらいだから(「歴史への招待」や「YOU」などNHKの番組であれば、少し遅い時間帯でも親が見るのを許してくれたのだ。小学生の頃は原則的にテレビは夜九時までしか見れなかった)。広い意味での若者全般に響く情報が発信されていた番組であって、要するに八十年代を生きる新人類のための若い広場であったのである。

これを今の若い人たちが見ると、ちょっと開いた口が塞がらないようなテレビ番組らしからぬテレビ番組だと思えるのではなかろうか。スタジオの中にいる人が、カメラの向こう側にいる多くの人たちに見られることをあまり意識していないというか、見せることを意識していないというか、身の丈以上によく見せようとはしていないというか、かなり無造作で無防備なのである。どこもかしこも。実際には、スタジオの中では十二分過ぎるほどにそれが見られることを意識しているし、鮮度そのままにおもしろく見せる努力も意識的にやっている。ただ、その度合いや密度が、今と三十七年前とでは格段に違ってきてしまっているのだろう。昔のテレビは何も意識していなかったわけでは決してない。もしかすると今の方が変に無駄なところにまで意識を張り巡らせてしまっていて相当に自由度が削られてしまっているのではなかろうか。とはいえ、それでもやっぱり「YOU」という番組は、変なところで変に緩いし、すごく適当な仕切りだし、今とは違っていちいちテロップを出して各々の発言をフォロー・アップしてくれないので視聴者に対してかなり優しくない。しかし、当時は、これぐらいがちょうどよい湯加減だったのだ。逆に、現在があまりにも厳密さや正しさを常に求める時代となってきてしまっているということがよくわかるような気もする。誰もがみんなに対して優しい時代になったということだろうか。否、そんなことはない。その割には社会全体がギスギスしすぎているようにも思えるから。とても無邪気かつ能天気に思ったことを口にしてビュンビュンあっちへこっちへ言葉がすっ飛んでゆくスピード感こそが、あの時代の醍醐味であったのだろう。そのおしゃべりを(ひとつの娯楽として)集団でスポーツのように選手も観客も一体になって楽しむことができていたのだ。おもしろいことはその場限りの一回限りだから、ぼやぼやしていると乗り遅れてしまうので、とにかく全員で食らいついていた(当時はまだ家にビデオデッキがなかったから、録画してゆっくり見るなんていう感覚も芽生えていない)。そんな「YOU」は、今でいうとクラブハウスのようなものだったのかもしれない。よくしらんけど。(これを書いてから一年ぐらいが経っているが、もうすでにクラブハウスの「ク」の字も聞かなくなった。その昔、クラブハウスというものがあったのである。瞬間的に大きな話題となったが、一度も使ってみることなく下火になった。世の移り変わりの早さを思い知る。)

テレビなんて、こんなものだったのだ。つまらないものだったテレビに少しずつ変化が起き、閉じた発信装置にならないように、あの手この手で人間味を追い求めていた。ざわざわとそこに雑多な人がいる感じが、現実味のある人間の情動や反応をスタジオにもたらした。視聴者をオーディエンスとして番組に参加させる公開収録というスタイルが、「YOU」が本当に今のこの時代に実際に起きていることを伝えているということを保証していた。その時代の空気から生まれるその場のノリを重視することが、とても今っぽい番組制作に繋がっていたのだと思う。また、スタジオのセットの作りも当時としてはおしゃれでかなりシャープな印象のものだったのではないだろうか。色鮮やかでごちゃごちゃうるさい画面よりもスッキリした見栄えの方が洗練を感じさせていた。現代のきっちりと作り込まれた細部までびっしり手が混んでいるセットで収録される番組を見慣れている人々には、この「YOU」の特別番組はまだ完成途中の作業現場で急遽収録しているように見えてしまうかもしれないが、あれはあれでばっちりいい感じなのである。空間的に開かれていて思い思いにワイワイする。そこに自由が感じられたのだ。小さく狭められたり必要以上に縛られることは、全く自由ではなかったし息苦しくてちっともノレないものだった。

だがまあ、喋りも進行もグダグダだし、無駄にいろいろなトピックを詰め込みすぎだし、とにかくこれはこうだと決めつけないし明確な結論づけもしないので結局何を言いたいのかがはっきり分からないし、ちょっと空気が薄寒いし、てんでわきまえていないので取り止めもなく自由に喋りすぎだし、あんまり話が噛み合っていなくても構わず自分の喋りたいことは喋るし、コンセプト的にはユーが主役であるはずなのにみんなほとんどミーだけの道を突き進んでいるだけだし、冷静になって眺めて見てみると、まったくもって「なんじゃ、これ」なのである。

八十年代の初頭、いろいろなものがあっちにもこっちにもごろごろ存在していて、おもしろいものが湧き出す泉が街の中に大量発生しているようで、それを変に整理・整序してまとめてしまうよりも、様々なおもしろいものやおもしろいことの情報をありのままに押し出しているだけでも大きな意味があったのだろう。何かを探索する際の最も基本的なツールとなるものは、直感と自分の足と「ぴあ」や「シティ・ロード」といった街の情報誌ぐらいしかなかった。最新の情報をチェックするために、いつもとりあえずまずは本屋で立ち読みをしていた。ページの端や下部の余白部分にもすごく見逃せない情報が、とても小さい文字で載っていたりするので、立ち読みも気が抜けなかった。今でいえばネットで検索するような感覚で、頻繁に本屋に行って立ち読みをしていた。それでも、情報は乏しく、日常は代わり映えのしない毎日であったが、真剣になって探せばおもしろいことはあっちでもこっちでもいっぱい起きていることだけはわかっていた。そういう時代の、様々な新しい情報を発信する媒体のひとつとして「YOU」は存在していたといえるのかもしれない。本当に、かなり何もかもが投げっぱなしであるが、内容そのものは濃いので、当時はさらっとやってしまっていることが今となっては考えられないような瞬間となっていたりもする(アントニオ猪木に肩車されながら歌う忌野清志郎なんて、本当にもう伝説的な歴史的瞬間でしかない)。一応、司会の糸井重里はボソボソと常にコメントらしきことは喋っているけれど、そんなものではまったく追いつけてはいないような意味深いことが、スタジオの中ではいつもいつもびしばし起こっていた。

今あらためて見返すと、かなり自由度が高い番組内容というか番組コンセプトが徹底されていて、ちょっとこれはすごいなと思う。こんな好き放題な番組を毎週やっていたなんて、ちょっと考えられないことだ。しかし、これぐらいに砕けた感じで突き抜ける姿勢こそが時代の気分だったのだろう。それまでは、テレビはかなり余所行きなメディアであり、送る側も受ける側も相当にかしこまっているようなところがあった。八十年代になって、そういう形式主義的なものから解放され、もっと人間らしく自分らしくやっていいのだとなったときに、若さゆえの反動で「YOU」のような番組が生まれてしまったというようなところもあったのではないか。公開収録にきている若者を見てみても、真面目そうな男子女子から普通の女子大生、聖子ちゃんカットの女の子、ちょっとつっぱってる青年、明らかに坂本龍一のファンらしき当時の感覚でいうとプールバーやカフェバーにいそうなお姉さんたちなどなど、かなり雑多である。しかし、ごく普通の若者として括られるあらゆるタイプの若者たちが、これだけわんさと教育テレビの番組のスタジオに集っていたというのは、後にも先にもこのころぐらいしかなかったのではないか。同じ時間帯に民放でもいろいろな番組をやっていたはずである。それでも三チャンネルが選ばれていたのだ。驚くべきことである。あのころの若者のありのままの感覚や興味や趣味とぴったりノリの部分でシンクロすることができていたのが「YOU」だった。誰もがまだ何かコレだという軸はあまり定まっていなくて、あっちもいいなこっちも楽しいぞと常にフラフラしながら時代を見てまわれていた時代であったからこそ、「YOU」のような能天気な番組も可能になり多くの同時代の若者たちに関心をもたれることになったのではないだろうか。だから変に作り込んでしまうよりも、あれこれ陳列する形式が、ありのまま若者層のリアルな視点にそぐうものになっていたのだろう。逆にいえば、もはやなかりリアルなものでないと当時の若者は食いつかなかったであろう。いよいよ作り込まれたものや予定調和に飽き飽きしていた世代でもあったから。見回せばワケのわからないものや意味のわからないものだらけで、それをそうあるべきだと無意識的に許容している若い世代がいて、ごちゃごちゃのカオス状態であればあるほどに活気づいてくる時代の空気があった。古いものときっぱりと断絶するためならば若者たちは意識的に落ちこぼれたりアパシーをも選択した。時代もまた軽薄短小なノリに包まれつつあったが、それに従順に従えてしまえるほどには頭がピーマンというわけではなかった。どこまでいっても自分に対しては無責任にはなれない若者たちは、絶対的に新しく確かなものとの邂逅に飢えていたのである。

生真面目に古いものを参照しつづけていては、なかなか前に進むことができない。面倒くさいのでまどろっこしいところは全部省略しますと勝手に宣告して思い思いに好きなように進み出して、新たに芽吹いた八十年代のスタイルがそこかしこにはびこり始めたのが、この時期のことだった。そのごちゃごちゃや喧騒や混沌の中で、われわれは自分にフィットする何かを探していた。探せばいろいろおもしろいものがあった時代だったと糸井重里も振り返っている。まとまりなくごちゃごちゃととっ散らかっていて落ち着きとは無縁の時代であったが、それだけいろいろなものがダイナミックに動いていた時代でもあったのだろう。「YOU」という番組も、どこにどう転がってゆくか分からないようなところがあって、そこに最も共感できるリアルさがあった。一応ちゃんと台本はあったようなので予め練りこまれてはいたのであろうが、ハプニングのような偶然の出会いを思わせる感じが、そこには確かにあった。

八十年代半ばは、まだごちゃごちゃといろいろなものがあたり一面にばらまかれているような状態で、そこからおもしろそうなものを探し出して拾って歩くのに忙しくて、正直いってまだ二十一世紀のことなんて先の先のことで全く何も考えてはいなかった。それに、ノストラダムスの大予言が的中して二十一世紀なんてこないんじゃないかともどこかで薄々思ってもいた。世紀を越えて三十代以降の人生を歩むことがないのであれば、若いうちに好きなだけ好きなことをして楽しむしかないだろう。大予言なんてハズレることはわかっていた。それでもいつまでも遊んでいたかったし、楽しいことだけしていたかった。二十一世紀のことなんてちっとも考えてはいなかった。われわれの二十一世紀のイメージは、子供のころにみた空想の未来予想図のままだった。空飛ぶ自動車、チューブの中を高速移動、ロケットで宇宙旅行。宇宙食のような食事。テレビ電話。初めてコンピュータに触れたのは八十年代の終わり頃だった。その後、初めてマッキントッシュに触れてみて、これは革命的だと思ったが、二十一世紀を感じたというよりは面倒くさいコマンドを打ち込む手間が省けてすごく楽になったなあぐらいの感想だった。まだその当時のコンピュータはインターネットには繋がっていなかったのである。八十年代前半、まだ家にはビデオデッキすらなかった。音楽は主に貸しレコード屋から借りてきたレコードをホームテーピング(カセットテープに録音)したもので聴いていて、サウンド・ストリートやジェットストリームなどのFM放送や米軍基地から流れてくるFENに耳を傾けた。ぱらぱらと情報誌を立ち読みし、「宝島」や「DOLL」などのちょっと特殊な音楽も扱う雑誌を隅々まで読み込んだ。新しくておもしろい情報にどこで出会うかわからないので、常に何かないかと探し回っていた。暇さえあれば、本屋、レコード屋、楽器屋をウロウロしていた。一般的にいう流行はあったのかもしれないが、流行しているものにはあまり興味がなかった(軽薄短小がもてはやされる、そんな時代の中で誰かに作られた流行に、何かグッとくるものがあるとはちっとも思えなかった)。逆に、まだ誰も知らないような、一般的な流行からは一番遠いところでおもしろいものを探すのが、とてもおもしろい時代でもあった。

この「YOU」を見て最も鮮烈な印象を残すのが、あまりにも清廉で少し透き通っているようにも見えてくる原田知世の稀有なる存在感である。すごくおもしろいことを話すわけでもなく、極めて普通のお嬢さんといった風情であるのだが、それだけなのに燦然と輝いてしまっている。これが生まれながらのスターというやつだろうか。このときまだ十六歳であった。前年の映画『時をかける少女』で、われわれ十代前半の世代のガキどもに大きすぎるほどに大きな衝撃をもたらし、まさに別格というような存在として君臨していた。いわゆるティーンのアイドルではあったが、そこら中にいっぱいいるアイドル歌手とは一線を画す存在というか、十把一絡げにはできないような特別なアイドル性があった。わたしよりも少し年上であったから、いわば学校の先輩というか高校生の素敵なお姉さんというような雰囲気もあって、遠く手の届かない映画スターのようでもあり身近な学校の先輩のようでもあるという独特な魅力が当時の原田知世にはあった。あの例の映画を見にゆくと特典でもらえたラベンダーのかおりのするしおりを、そっと文庫本の中に忍ばせて持ち歩いていたのは中学二年生のころだっただろうか。中学生のころにはもう筒井康隆の作品は結構あれこれ読んでいたので、あの芳山くんが物語の中から現実の世界に飛び出してきて原田知世として歌や芝居をしているようにも思えた。とにかく断トツのかわいらしさだったし、『時をかける少女』はあまりにも鮮烈だった。そのあたりの飛び抜けたアイドル感のようなものは、この「YOU」を見るだけでも、十分すぎるほどに伝わるのではないかと思う。

結局のところ「YOU」を夢中になって見ていたのは、当時の高校生や大学生などの若者世代のかなり幅広い層であったのだと思われる。そこに、俗に団塊ジュニア世代と言われるような当時まだ中学生ぐらいのロー・ティーン層までが引き込まれてゆき、夜の(ポップな)若者向け人気番組としての地位が確立されていった。ただ、番組の公開収録に参加しているのは、ほとんど二十歳前後ぐらいの若者のように見える。このときに二十歳と言うことは、ちょうど東京オリンピックの頃に生まれた世代にあたる。少しばかりわれわれとはかけ離れていたような感じはある。しかし、長寿番組の「笑っていいとも」も番組を観覧できるのは十八才以上であったと思うので、おそらくは「YOU」も基本的にはそういうレギュレーションだったのではなかろうか。よって、実際の視聴者層よりもスタジオ内の年齢層は若干高めだったのではないかと思われる。当時の中学生の感覚でいうと、公園通りなどの渋谷近辺を闊歩していたのが大学生ぐらいの若者で、それより下の子供たちは原宿にうじゃうじゃと集まっていた。そして、高校生ぐらいになると大中に行きたいとか屋根裏に行きたいとかパルコで映画観るみたいな感じになる。そういう意味では、あの「YOU」のスタジオの雰囲気は、当時の渋谷の街の感覚のようなものを反映していた部分も少なからずあったのではないか。

この放送があったころ、安倍晋三はもう二十九才で衆議院議員であった父親の秘書として政治の世界に足を踏み入れている。一応、まだ二十代の若者であったわけだが、おそらく「YOU」のようなものとは無縁の生活であっただろう。ゲストの坂本龍一は三十二才である。八十年代という新たな時代に大きな変化が起こりつつあることに対しても当然ながら意識的だった三十代だ。このあたりの世代の人というのは、六十年代から七十年代にかけての動乱の時代に、何を見て、何を聴き、何を読み、何を感じていたかで、かなりその後の人間形成に違いが生じているようにも感じる。ドアーズやジミ・ヘンドリクスやヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いて、モータウンやアトランティックのニュー・ソウルを聴いて、グラム・ロックに衝撃を受け、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンに新しいロックのうねりを感じる。そうしたものに触れるか触れないか、その違いは小さいようでとても大きい。そして、七十年代後半から八十年代初頭にかけて、時代の閉塞感を打ち破るような揺動が、さらにもうひとつの新しい世代を生んだ。その先に「YOU」がある。それは、リベラルかつアナーキーなパンク・ロックの姿勢、自治主義や自律主義の系譜に連なるインディペンデントなカルチャーなどを自明なものととらえている世代であった。七十年代生まれの団塊ジュニア世代が、そんな時代の空気の中で、いろいろな新しくおもしろいものに触れて、自分を見つけ、自分を作り出していた頃に、ちょうど「YOU」が放送されていた。この頃を、まだやわやわで感受性が強かった年代で経験した世代と、あの躁的なごちゃごちゃを知らない昭和が終わりバブルが弾けた八十年代終わりから九十年代初頭に人格形成期を迎えていた世代では、これもまたちょっと性質が違ってくる。ただし、バブル期に実際にバブルを実感できるほど大人ではなかったという部分だけは共通している。そして、そこのところこそがわれわれ団塊ジュニア世代とそれより前の東京オリンピックの頃に生まれた世代とが大きく隔たっているところでもある。つまり、あの「YOU」のスタジオで収録を観覧していた若者の多くは、あの数年後にはバブル景気で泡まみれになる。われわれは小学生の頃に「600こちら情報部」で世相を学び、中学生で「YOU」に食いついていた世代である。バブルの頃はまだ学生だった。昼食抜きで新譜と中古のレコード店を何軒もまわり、公園のベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲みながら一服する、そんなヤングでスノッティな日々に、どこにもバブルの香りなどはなかった。

今の若者は、どういうことに興味があり、どういうことを考えているのだろうか。たぶん、もう「YOU」のような何かよくわからないおもしろそうなものを見つけ出してきて送り出す型の番組は、必要とはされないであろうことだけは確かだが(逆に街で話題になっているものを紹介する情報番組は隆盛をきわめつづけている)。今や完全に流行らしい流行のない時代になっているともいえる。アニメ「鬼滅の刃」が大流行すると、それが話題になればなるほどにキメハラ被害を訴える人も増えてくる。八十年代には何がインで何がアウトなのかを誰もがそれぞれに自分の物差しで考えることができていた。それが今ではインなものは最初からインなものであり、それを望もうと望むまいとおすすめ機能によって押しつけられるものになった。誰かのインとアウトと自分のインとアウトが違っていることは許されざることだと思われるまでになってしまっている。みんな仲良しなのはとてもいいことだが、それもそうそううまくゆくとは限らない。ごちゃごちゃとしていていろいろなものをぶんぶん投げかけてくる「YOU」のような番組は、これから自分が十代を過ごしてゆく社会や世の中というものについて予習するような場でもあった。自分の興味があるなしにかかわらず、この世の中にはたくさんのおもしろいものがごろごろと転がっているということを実際に見て知るだけでも「YOU」という番組を見る価値はあったのではないかと思う。今はもう立派な大人になっている著名人たちが若い頃を振り返る青春プレイバックのコーナーは、ふむふむなどと思いながら見ていたような印象があるけれど。ふむふむ、みんな悩んで迷って大人になってゆくのだな、と。おかげで、悩んで迷ってばかりの人生になってしまって、まさに青春プレイバックならぬ青春カミバックな気分である。

HNL

番組の中でSF作家の新井素子が、自分が何を書いてもおもしろいと言ってくれる人が今ふたりいるので(創作が)行き詰まることは全くないという(ちょっぴり)能天気な発言をしている。それゆえに、もはや世間ウケというものを超越してしまっている境地にあるというのである。当時まだ二十三歳であったはずだが(見た目は完全に学生さんだ)。この発言を聞いて、ある人が(今から三十年ぐらい前に)同じようなことを言っていたことを思い出した。

あれは、大学を卒業してすぐに中途採用で入った会社の社員旅行でのことだった。大学時代は、特に就職活動などをしないで好きなことばかりして過ごした。全くもってのほほんと卒業してしまい、春休み中に新聞の求人広告を見て、なんとなく応募してみたら採用になり、ゴールデンウィーク明けぐらいから働き始めた(大学に入るときも受験勉強らしきものはほとんどしなかった。周りがみんなしているからという理由だけで一緒になって雰囲気に流されてしまうのが嫌だったのだ。そういうことには、ことごとく抗っていた。大勢の中のひとりになることに対して、本当に我慢がならないほどの嫌悪感があったのである。我ながら実に青かったと思うが)。

職場は、渋谷の神宮前の明治通り沿いであった。要するに、毎日仕事で渋谷に行くついでに、仕事終わりにでも宇田川町のレコード屋めぐりがたっぷりできるだろうという大変に軽い心持ちで働き始めてしまったのである。大学の卒論を書き始める四年生の一月ごろまでは、渋谷のスクランブル交差点のすぐそばのタバコ屋で二年ぐらいアルバイトをしていた。なので、学生時代も卒業後もほとんど渋谷に居てあまり生活のサイクルや内容には大きな変化はなかったことになる(思えば、この二十代の十年間はほとんど毎日のように渋谷界隈に行っていたような気がする。だからといって、渋谷系の若者であったわけではない。基本的にあまりおしゃれなものや流行には興味がない。みんなと一緒なのは嫌なのだ)。ただし、平日の夜にクラブに遊びにゆくときには、私服をリュックに詰めて背負っていって退社時に着替えて街に出るというようなことをしていた。変化はそれぐらいだっただろうか。ほとんどレコード屋とクラブがメインで、その合間に仕事をしているといった日々であった。

勤めていた会社は本社が大阪にあり、社員旅行は本社と東京支社の合同で行われた。行き先は、常夏の島ハワイ。ともに伊丹と成田から飛んで現地で合流という形であった。もうすでにバブルはとっくに弾けていたが、マーケティング・リサーチ業界は世の中が不況になったときにこそ真価を発揮するのだと会社全体いや業界全体で鼻息が荒くなっていたのであろうか。とにかくハワイ旅行に行くことになった。一月の後半、ハワイが一番寒い時期に。正月休みに大挙してやってきた日本の芸能人や日本人観光客がごっそりと帰国して、ワイキキに再び静けさが戻ってきたころに。そして、プロボウルで今度はアメリカ本土からたくさんの人がやってくる前には、われわれは東京に戻っていた。

ホテルはヒルトンだったと思う。一番奥まった棟で、窓からは海が見えない部屋だった。隣りに建つホテルが真正面に見えていて、いくつもの同じ大きさの窓が上から下までずらずらと並んでいるだけだった。たぶん、向こうのホテルからこちら側を眺めたとしても同じように見えただろう。窓を開けてベランダに出ると、下の公園の緑地の周りを退役軍人らしき白髪の老人たちがよぼよぼ散歩しているのが見えた。かつて沖縄やヴェトナムで戦った人々が、今は南の島で老後の生活を楽しんでいるのだなあと思った。ハワイは陽気もよく、静かで長閑だった。窓を開けたまま昼寝をしていると、鳩が部屋の中までちょこちょこ歩いて入ってきた。アメリカの鳩はさすがに振る舞いが自由だなあとひとしきり感心したものであった。

社員旅行は普段は離れて別々に仕事をしている大阪本社と東京支社の社員同士の親睦を図るという目的もあったため、ホテルの部屋割りは大阪組と東京組のひとりずつのペアで二人一部屋という形になっていた。東京組の一番下っ端のわたしは大阪本社のMさんと相部屋であった。現地で渡された部屋割り表を見て、多くの東京組の先輩社員たちは口々に大変だろうけど頑張ってと多少の憐みの情のこめられた慰めの言葉をかけてくれた。Mさんは大阪本社きっての変わり者だという。四六時中べらべらべらべらずっと喋っているため五月蝿がられ煙たがられているらしく、相部屋になったらずっと話に付き合わされて一睡もできないのではないかというのが先輩たちの見立てであった。ただ、いくら周囲から変人呼ばわりされていても会社の中での存在感は大きかった。口を開けばノンストップでよく喋るので口八丁手八丁の人かと思われるような部分はあるが、実際は飛び抜けて有能なアイディアマンであった。大阪に本社のある電機メーカーの商品開発などにマーケッターとして携わり数々のヒット商品を生み出しているという話もあった。そんな猛烈に稼ぐ一匹狼的な古参社員であったこともあって、相部屋を敬遠されていたというところもあったのだろうか。おそらく誰かがおもしろがってこのペアリングを画策したのだと思われる。何も知らない新入社員にお鉢を回して高みの見物を決め込もうということか。言うなれば、体よく一番下っ端のわたしにMさんのお世話がかりを押し付けたという形である。

大方の人々の心配や思惑を他所に、相部屋になったMさんと一緒に過ごしたハワイの数日間はとても楽しく印象深いものだった。こちらもかなり変てこな人間であったこともあり、変わり者同士で何となく気が合うようなところもあったのだろうか。特に何もすることのない日には、当てどなくワイキキを隅から隅まで歩き回ったり(個人的には人の多いメイン・ストリートよりもワイキキの外のアラモアナの公園や動物園や水族館の近辺の公園が気分的には楽しめた。陽性度の高いハワイのノリに対してどう対処してよいかよくわからなかったのだ)、夜は橋を渡って日本人があまり来なさそうな場所にあるレストランで食事をしたりした(夜中は東京支社の先輩たちと裏道をウロウロして地元のダンス・パーティに潜り込もうとしたりライヴハウスに繰り出したりした。とてもかわいらしいウェイトレスを気に入ってしまった先輩が行こう行こうとせっつくので、ライヴハウスには連日通った。そこでハワイのナイスなハードロック・バンドをいくつか聴いた)。Mさんは特にアラモアナ・ショッピング・センターを大いに気に入ったようだった。広大なモールの中を一緒に探検して回った。アラモアナの中にシアーズがあって、Mさんはまだ日本には入ってきていないような多彩なアメリカの日用品や便利グッズの数々に見入っていた。何か仕事に活用できるものがあると閃いていたのかもしれない。するとシアーズのカタログを参考資料に持って帰りたいと言い出した。しかし、店内をあちこち探し回ったがなかなか見つからない。そこでわたしが店員に話しかけて持ってきてもらい無事に入手することができた。分厚いしっかりとしたカタログだった。最後の日の夕飯もアラモアナまで行ってシアーズの近くで一緒に食べた記憶がある。わたしが片言の英語で店員に尋ねてくれたから欲しかったカタログを手に入れることができたとMさんにはとても感謝された(先輩からはわたしと一緒でなければあんな地元の兄ちゃんたちが集まる怪しいライヴハウスにゆくことはなかっただろうととても感謝された)。

Mさんとわたしが実際に気が合っていたのかは定かではないけれど、互いに一緒にいて苦にはならない相手であったことだけは確かであった。とにかく関西弁でMさんがよく喋る。それをとにかくわたしが聞く。ほぼそれだけだったが、不思議と関係性としては成り立っていた。春に入ったばかりの会社であったが、別にやりたいことがあるので三月末で辞めようと思っていることを、もうすでに上司などには伝えてあった。たぶん、そのことはMさんも知っていたはずだ。夜、ホテルの部屋で、将来わたしが何をしたいと思っているのかといったような話題になった。あの頃のわたしは本当に漠然と好きな音楽にまつわることをしたいと思っているだけで、興味のあることについて調べたりあれこれ文章を書いたりしたいななんていう願望をもっているだけの実に青い若者だった。しかし、そんなふんわりしていて焦点が定まらず掴みどころのないわたしの話を聞いても、Mさんは型通りのまずは仕事を続けながら道を模索してみて、なんとかなりそうなメドがついたらそっちに専念すればいいというようなことは決していわなかった。自分で何かしたいことがあるのならば、それをとことんまでやってみればいいというスタンスであった。調子のよいわたしはすぐにMさんの言葉に思い切り背中を押されたような気分になってしまった。

そのときに若いころのMさんのこともいろいろと聞かせてもらった。一番驚いたのは、大阪芸術大学を首席で卒業したというエピソードであった。本当なのかどうかはわからないが、話すことはとても下らないネタばかりであってもいちいちおもしろいし多くのヒット商品のコンサルタントもしていることを考えれば、非常に発想そのものが常に豊かだし頭の回転もものすごく速くて天性のアーティスト性を感じさせる部分は至るところにあった。ほんの数日間近くにいただけでもMさんのすごさははっきりとわかったし、芸大の話にしても全く疑ったりするような気分にはならなかった。若いころのMさんは、プロのマンガ家かイラストレーターになることを目指していたらしい。だがしかし、若く才能も実力もあるMさんであっても、なかなかプロとしてデビューするチャンスはつかめなかったようだ。相当に努力もしたのだろうが。そんな折に今勤めている会社の社長と出会い、鞄持ちのようなことをして仕事を手伝っているうちにいつの間にか就職していたという。そのときにマンガ家やイラストレーターになる夢は諦めてしまった。だが、別に全く描かなくなってしまったわけではなく、わざわざプロになってそれを仕事にしなくても全然平気なことがその時点でわかってしまったからだそうだ。では、なんのためにMさんは描くようになったのか。

夜のホテルの部屋でMさんは(芸術)表現についての持論を語ってくれた。自分が表現したものが受けるか受けないかなんていうのは突き詰めていえば百か〇かみたいなものなので、作品が大ヒットして何百万人もの人に広く読まれるなんてことはどう考えても実感をもって感じられることではなくて、考えれば考えるほど全くどうでもいいことになってきてしまったようなのだ。それならば、地球上でたったひとりだけでもいいから自分の表現することをちゃんと理解してくれている人に読んでもらってきちんと評価されることの方が比較にならないくらいに喜ばしいのではないかと思えるようになってきた。そして、そういう人がひとりもう見つかってしまったので、もはや何百万人もの読者などというものは必要のないものになってしまったらしい。その時のわたしは、そんなものなのだろうかと、腹の底ではあまり腑に落ちないような感じで話を聞いていた。まだ誰からも評価されていないし理解もされていない何者でもないただの若造でしかなかったから。Mさんの表現の一番の理解者でありたったひとりの特別な読者であった人が、今の奥さんであることや、今も奥さんや子供たちに読んでもらうマンガを時々描いていることなどをいろいろと聞かされた。自分を表現することや誰かに評価されることや理解されることについて、あれこれ考えさえられる話だった。

84年の「YOU」で新井素子が喋っていたことを今またあらためて見て、あのときMさんが話してくれたことを思い出していた。何を書いてもおもしろいと言ってくれるふたりのうちのひとりは今は新井素子の良人なのだという。そのあたりも共通点があり、あらためてそんなものなのかなあという気分にさせられもした。ハワイに行ったのは、もう三十年も前のことである。あれからわたしはこれまでに何を表現できたのであろうか。いまだ、何ひとつとして成し遂げてはいないのではないか。いろいろやってきたつもりだが、実際には足跡のひとつも残せてはいない。もしや、なんの意味もない人生だったのではないかと少しばかり虚しくもなる。何百万人もの読者もいなければ、たったひとりの良き理解者もいない。これではまだやめるにやめられない。諦められない。やめられない。どんなことでもあきらめずに続けてさえいれば、誰でもどこかでたとえ一瞬だけだったとしても時代と波長が合ってスポットライトを浴びるときがくると日比野克彦はとても簡単で単純なことのように語ってはいるけれど。評価され理解されるまで創作や表現をあきらめてはいけないのか。本当だろうか。

OBC

「お前なんか森喜朗と一緒だよ!」

https://dot.asahi.com/dot/2021021100009.html

放送作家の鈴木おさむが、妻の大島美幸(森三中)から「お前なんか森喜朗と一緒だよ」と非常に厳しい言葉で怒られたというエピソードをアエラドットで連載しているコラム「1970年代生まれの団ジュニたちへ」のなかで紹介していた。72年生まれで四十八歳のいいおじさんが、こんなことを言われてしまうというのはちょっと痛い。これはかなり屈辱的なことなのではないかと思われるが、おじさんになると誰でもいつしかああなってしまうのではないかと我が身を振り返り反省していればそれでよい問題であるのだろうか。森喜朗のような戦中派世代と団塊ジュニア世代とでは生まれも育ちもまったく違って、遠くかけ離れた場所で生きてきたのではなかっただろうか。日本は天皇を中心とした神の国だと信ずる感覚は、まったく話にならん前時代的阿呆だと思ったではないか。それなのに、結婚して幸せな家庭を築いたりすると保守的になってすぐさま森喜朗のようになってしまうのだろうか。越えがたいと思っていた世代の壁は、そんなに簡単に崩れてしまうものなのか。きっと、日常のちょっとした言い方や態度で、あのような罵声を浴びせかけられているのではないのだろう。毎日の生活の中の端々で感じられる人間性そのものが一緒だと感じられているからこそ、いざというときにあのような言葉が飛び出してくるということなのではなかろうか。だから、その場で反省して、意識して直そうとしていっても、そう簡単にどうなるものでもないのだろう。常に根本から問い直すようにしてゆかなくてはならないから。今までと同じようには書けなくなるかもしれない。今まで頭の中に湧いてきていたおもしろい発想は、森喜朗のようなズレた老人がおもしろいと考えるものと一緒の根をもつものであるかもしれない。そこを常に問い直さなくてはならない。ちゃんと反省することで、今までと同じように仕事ができなくなる惧れもある。そこまでの覚悟を持って、あの鋭い刃のような切れ味をもつ一言と向き合えるだろうか。何とかかんとか言い訳を考えておざなりにしたまま、これまでと同じような(森喜朗と一緒な)生活を続けていくのではなかろうか。考えてみたけれど変えないが一番楽な道だから。

鈴木おさむのプロフィールを見ると十九歳で放送作家としてデビューしたとある。平成の初頭、91年のことである。そのころもうすでに森喜朗ぐらいの世代の人たちは五十代になっていて、たぶんテレビ局やラジオ局で重要な役職に就いていたであろう。そんな上の世代のおじさんたちにも認めてもらえるようなものを意識して送り出し(お茶の間を相手に意識してものを送り出すということは、そういうことだろう)、評価され重用され、あのころに「YOU」的なものとは全く関わりがなかった人々や世代からも可愛がられ、あちら側に取り入れられることで、ひょいひょいと世を渡ってこれたようなタイプの人なのではないだろうか。だから、結局のところは森喜朗と一緒であると指摘されてしまったのではないか。

見るからに灰色にくすんでいる上の世代のようにはなりたくない。浮かない表情で満員電車に揺られているおじさんたちとは違う道をゆきたい。そうやってきっぱりと拒絶してしまって安定性のかけらもない泥濘の道をゆくよりは、鈴木おさむのように若くしてすっぽりと大人の世界に取り入れられてしまう方が、たぶん賢い生き方であるといえるのかもしれない。しかし、そういうのなんかヤダよねという意識を根底にもっていたのが「YOU」的なものであり、そういう生き方や考え方であっても(今の若者らしくて)いいんだよと許容してくれていたのが「YOU」だったのだろう(鈴木おさむは、あえてファジーな時代の空気によりそったおもしろさをもつ「YOU」的なものを抜き去ることで、新しい時代のビシッとおもしろいテレビを作り出そうとしたチャレンジャーであったのかもしれない。だが、それは「YOU」が邪気なくズタズタにしてお払い箱にしてしまおうとしたものに立ち返ってみる部分をもつものだったのではないだろうか。新しいおもしろいことのような外見をもつ表面的な緩みの裏で上から下までびしっと階層的に筋が通っているような作りというのは、一見するとわかりやすいがやもするとそれゆえに旧套墨守的な方向に傾きがちであることも確かなのではなかろうか)。そして、わたし(たち)は、もうすでに世の中で当たり前のものになっている気分が滅入るような退屈なものすべてから逃げ出した・逃走した(まるで浅田彰とその周辺にそそのかされるように/だが、逃走線を引くことはすべてから脱げ出すことではない/それは漏れ出ることでもあり引かれた線の両側にまたがることなのではないか)。

あえて、道をはずれたまま生きてきた。ちゃんと段階を踏んで立派な大人になって社会の中でやるべきことをきっちりと行っている人から見れば、そんなの生きてきたと胸張っていえるような人生では決してないと思えることであろう。わたしもそう思う。自慢できるようなところは何ひとつとしてない。そして、あとに残るものも何もないはずだ。だからこそ、少しでも痕跡を残しておきたい。誰の目にもとまらぬことなどわかってはいる。ただ、それだけなのである。いつだって大通りを避けて、あちこちにある小道や路地に足を向けた。ときには、行き止まりの道もあった。大回りして、結局は元の位置に戻るような道もあった。細い獣道を深い藪をかき分けながら進んだ。傷だらけになった。身体にもガタがきた。いいことばかりではなかった。それでも、あのころは、まだ何もかもが輝いていた。輝いて見えていた。インディーズという言葉があちらこちらから狼煙のように立ち上がり、音楽、演劇、映画、笑い、ファッション、出版などなど、大手の流通とは別のルートで巷に湧き出してくるおもしろいものが山ほどあった。だがしかし、それだけに一過性のものも多かった。もしかすると、みんな二十一世紀なんでこないと思っていたのだろうか。大予言は的中すると思って。そのときその場所で輝いていておもしろく感じられるということだけが全てだった。そんな毎日が続いていた。そして、それがずっと続くのだと思っていた。

自分の意思で逸れたのだから、正規の権利をもって日のあたる大通りをゆく人々とは違う世界で生きなくてはならなくなってしまったのも致し方ないのか。それとも、大通りだろうが細道や脇道だろうが、ずっと前方に何かがつかえたままになっているせいで、もう前に進むに進めない状況になっていたせいで、何かの弾みで弾き出されてしまっただけなのか。今では(未だに)よくわからない。道を逸れて進んでいっても、ある程度まではゆけた。だが、その先には何もなくて、目の前に現れたのは崖だったりした。わたしたちは、ことごとくそこから突き落とされた。もはや、どうしたって這い上がることもできないような、深い深い谷の底に。

やはり、いつの時代にものさばる人々というのはいて、そういう人々が頑として自分の席を渡そうとしなかったのかもしれない。いつだって腰抜けというのは、正々堂々とは事に向かい合わない。必ず、ずる賢い手を使う。全く価値観というものが相入れない、ごちゃごちゃとした八十年代の空気を胸いっぱいに吸い込んで育ってきた、自分のやりたいことをやりたいようにしたいだけの、過去のものや古いものを屁とも思っていない、根っからのニュー・ウェイヴたち。ただそれだけなのに、ただそれだけだからこそ、それは大きな脅威となったのだろうか。そいつらが学んでいる学校を見れば、それは火をみるより明らかだった。ひとクラスに四十人以上が詰め込まれていて、その教室がずらりと十も並んでいる。それが一学年である。まるで家畜の飼育場だ。うじゃうじゃうじゃうじゃ、そこら中を制服姿で自由気ままに這い回る。大人たちから見れば、まさにアンファン・テリブルそのものであったのだろう。御し難き理解不能な世代である。ならば、ドボドボと崖下に突き落としてしまうしかない。すぐ下から社会そのものを押し上げてしまうように大挙してせりあがり迫ってくる分厚い世代は恐れられていたのではないだろうか。溢れかえる若い世代に場所を占有されてしまうと、ついちょっと前までバブルでウハウハしていた旧世代は一挙に居場所がなくなってしまう。ゴキブリみたいに数だけ多い畜舎育ちの人間たちに席を奪われてはならない。蹴落とせ、生意気な子供たちを。

「またお年寄りかと言われるのが一番不愉快。年寄りだろうが若いやつらに負けないくらいにやれるぞって、それくらいのことを言いたい」

https://mainichi.jp/articles/20210211/k00/00m/050/264000c

「みんなが思うのは、森さんが83で俺が84。またお年寄りか、と言われるのは一番不愉快なんだよな。年寄りだろうが何だろうが、若いヤツなんかに負けないくらいのことをやれるぞと。そのくらいのことは言いたいけど、そんなことは口が裂けても言うなよと、家族から言われているから。」

https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/02/12/kiji/20210212s00048000114000c.html

「従って誰かが老害、老害と言いましたけども年寄りは下がれというのは、どうもいい言葉ではないので、子どもたちに対する、何と言うんですか、いろんな言葉がございますけども、老人もやっぱりちゃんと日本の国のために、世界のために頑張ってきているんですが、老人が悪いかのような表現をされることも極めて不愉快な話であります。」

https://www.chunichi.co.jp/article/201222

しきりに誰かが誰かがといっているが、その誰かというのが誰のことかわからなくなってくるのも「老害」というのではなかろうか。そもそも「老害」といっているのは自分なのである。問題となった謝罪会見で自分からその言葉を使っていたのではなかったか(海外の国際五輪委員会のメンバーからもオールド・ボーイズ・クラブとツイッターで吊し上げられたのが、相当に気に障っていたのであろうことは容易に察しのつくところではあるが)。女性蔑視発言への謝罪と反省の弁だけが必要とされていた場で、なぜか自分から「老害」と言い出したのだろう。何度も繰り返し自分からそういう言葉を使うのは、周りが思っている以上に自分で自分が「老害」だと思っているということのあらわれなのではなかろうか。だがしかし、こちらとしてはあちらが思っているほどには老人や「老害」が悪いといっているのでは決してない。旧態依然とした老人が思慮に欠ける発言を繰り返していることは、まさに「老害」そのものではあるのだけれど、哀れにも恥ずべき醜態を露呈させているのではないかとご指摘をしているだけなのである。

川淵三郎も森喜朗も老人扱いされるのは大変に不愉快らしく、年齢を理由に席を明け渡し譲るように仕向けられることは老人差別だと思い込んでいるようだ。誰かに何か言われて不愉快に思うのは個人の自由だから別にいい。だがそのように思うのは、お互い様なのではないだろうか。川淵三郎や森喜朗のようなお年寄りがちょっと口を開くだけで不愉快に思う人も少なからずいるであろうから。自分の言うことは正しい、自分だけは絶対に正しいと思い込んでしまう症状というのは、まさに「老害」といわずしてなんであろう。老人差別だなんだと口うるさくいうものに限って、今の若いものは全く使えないなんて言いつづけて早ウン十年という筋金入りの若者差別主義者であったりする。こちらについても、ある意味ではお互い様なのではないだろうか。何から何まで自己中心的な思考を貫いてしまうというのは、周囲から「老害」と見なされる老人たちに共通する特徴なのかもしれない。世の中、不愉快なことばかりではないか。それなのに、ちょっと老人扱いされたぐらいで不愉快極まりないなどと喚きだす。いかに毎日のように周囲から気を使われていて不愉快な思いをさせぬように特別扱いをされているのかということが、この一件からもよくわかる。身の回りにあるひとかたない周囲の人々の苦労についてちょっとでも考えてみたことがあるのだろうか。「若いヤツなんかに負けないくらい」「日本の国のために、世界のために頑張ってきている」ので、それくらいの特別待遇は当たり前だと思っておられるのか。どれほどの人々の努力を踏み台にして自分たちの不愉快フリーな毎日が成り立っている(いた、か?)のかということについて、是非ともこの機会にじっくりと考えてみてもらいたい。

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、そろそろ社会に出てから二十年から三十年の月日が経とうとしている団塊ジュニア世代が、これまでに自分たちが作り上げてきた社会がどレくらいのレヴェルにまで到達できているのかを見渡して、ひとつの集大成とするようなイヴェントとなるはずであったのではないか(普通に考えれば)。よって、この世代の人々が、一番率先して張り切って先頭に立つような催しでなくてはならなかったのではないか。だが、実際には全くそうなってはいない。むしろ、逆に一番白けきってしまっているのが、この世代の人々なのかもしれない。相変わらずそこにあるものといえば、これまでまったく関わり合うことができなかった社会であり、五輪である。近寄ることも触れることもできなかったので、自分に関係のある催しとは思えない。それは、自分たちより上の世代がまだまだ頑張って実現させようとしているイヴェントであり、いつの間にか自分たちよりももっと若い世代の滝川クリステルや太田雄貴(フェンシング)が盛り上げ役に起用されていて、あらためてやはりわれわれの世代を遠ざけておきたいのだなということが明明白白となった。がめつい老人たちがもっと大きな集大成を欲しがっていても、それを品位にかけると諌めることのできなかった慢性型の一億総痴呆社会がここにある。恥ずかしいよ、オールド・ボーイズ・クラブ。

森喜朗の後釜には森自身が政治の世界の娘と称して憚らない橋本聖子が据えられた。結局のところ森喜朗の意向を汲んだ形で決着がついたようにしか見えないこの一連の流れにも、さらに白けさせられてしまった。意地でも息をかけ続けるつもりのようである。ちょっと、ついてゆけない。橋本聖子が生まれたのは、ちょうど64年の東京五輪の開会式の数日前。団塊ジュニア世代よりも少し上である。「YOU」の100回記念が放送されていた当時は二十歳。スタジオで観覧している若者たちと同じぐらいの年齢だろう。おそらく、もうすでに将来を期待されるアマチュア・スポーツ選手ではあったと思うが、誰も将来は自民党の国会議員になって二十一世紀の日本を引っ張っていって欲しいなんて思ってはいなかっただろう。ギトギトしたおじさんたちの集まりにしか見えない自民党が主導する日本の政治が、あのころは一番未来がないものに見えていた時期であった。しかし、あのころと現在では何が変わっただろうか。実際のところは、ほとんど何も変わっていないのではないか。ただ、社会の高齢化が進んだ分だけ、さらなる政治のオールド・ボーイズ・クラブぶりは強化されたのかもしれないが。

はた迷惑な「老害」を外して組織が若返る人事を断行とはいいつつも、八十代の森喜朗から五十代後半の橋本聖子ぐらいまで下る程度の若返りが、きっとギリギリ許せる範囲のものなのであろう。それより下に年代が下がってしまうと、なかなかしっかり息がかかってはいないし、それゆえ思う通りには使えない。団塊ジュニア世代は、自分がおもしろいと思うことを好き勝手にやるだけで、目上の世代に阿るようなことをこれっぽっちもしようとはしないのである。しかし、もっと若ければ古臭い権力や権威を振りかざすだけでもおもしろいように靡くので手懐けやすいのだろうが。

分厚く頭数の多い世代に日本の社会を好きなようにかき回されてしまうことを、どれだけ怖かっているのだろうか、オールド・ボーイズ・クラブは。旧態を維持することが停滞を招き続けることであることに気がつかないのか。それとも、そのことに気がついているけれど変えられないのか。守り通してきた席を譲ることに、そんなにも本能的なアレルギー反応にも似た嫌悪感を抱いているのか。

この分厚い世代をもっと活かし輝かせるように社会システムが正常に機能していたならば、少子化問題もここまで深刻になってはいなかったのではないか。分厚い世代から多くの女性の社会進出がなされることで社会人の働き方をアップデートしてゆく動きにも前世紀のうちから拍車がかかり試行錯誤を繰り返しながらも誰もが子育てと仕事を両立させ豊かに生活できる社会の実現が現実のものとなっていたかもしれない。そうなっていれば、きっと団塊ジュニアジュニア世代がもっともっと新生児の出生数に上乗せされていたはずである。だが、現実には、その真逆の社会がある。センターのステージには握ったものを手放そうとしなかった世代が依然として居座っているし、周縁には本当は座れるはずだった席に到達すらすることもできずにあぶれてしまったものを多く出している世代があがいている。こののち「老害」や「粗大ゴミ」が経年劣化で自壊していったとしても、足元にはスカスカで狭い陸地しかもはやない。団塊ジュニア世代は、そこからもうとっくの昔に降りてしまっている。もしくは、何らかの力がはたらき降ろされてしまっている。肝心な時につかまれる枝ももう立ち枯れてない。じわりじわりと少しずつ伸びてきていた、今では立派な太い枝になっていたであろうあの当時の若い枝のほとんどを、無神経かつ無思慮にごっそりと枝打ちしてしまったからである。

あの84年から現在までのあれこれを振り返ってみるとき、どこかで道の選択を間違えてしまったのではないかと思えて仕方がなくなってくる。われわれは、もう少しましな社会を生きていることができたのではないか。それが実現していない現在について考えるとき、われわれの世代は大きな失敗をしてしまった汚辱に塗れた人々であることを痛感させられる。われわれより上の世代も、団塊ジュニア世代も、もっと下の世代も、がめつくしがみつく人々を容認して思い通りにさせてしまったことで、今の惨状がある、ともいえる。みんながみんなその流れに乗ってきてしまったのだから、すべてがそのせいとはいわなくとも、しかしそれでも、あの「老害」や「粗大ゴミ」とその息のかかった世代を思うがままにさせていたことが、今あることを今あるようにしてしまった原因の一端であることは間違いないところではあるのだろう。

もしも、団塊ジュニア世代が中心になって大会を動かして盛り上げてゆくオリパラであったらなら、今のものとは全く違うものになっていただろう。もっと柔軟でしなやかで色鮮やかな新しい時代の日本を反映するようなイヴェントになっていたのではなかろうか。日本は、東京は、あまりにもあの64年のときから変わらなすぎたのかもしれない。判子をついて紙で全てを共有する。ひとつの輝かしい時代を、忘れることができなかったのであろう。その間に世界は大きく激しく動いていたというのに。そのあまりにも旧態依然としたままであり続けたツケを今になって払わされている、のではなかろうか。過去の大会開催地として伝統的なオリパラの姿を今に伝えてゆくというのは、ちょっと日本らしくて決して悪いものではないのかもしれないが。伝統のもと/とともに革新があるというだけでは、もはや時代には追いついてゆけやしない。かつまた、強大で巨大な権力を金にものをいわせて奮ってどうなるという時代でもない。そんなことだけでしたり顔をしていられるようなものは化石といわれてしまっても仕方がない。どこまでも骨の髄までレトロであることを恥ずかしげもなく露呈させて、まだ伝統に執着する民族が誇る日本らしさを世界に向けてアピールしようとしている。「老害」よ、お前さんたちこそ84年の「気分はもう21世紀人」をじっくりと見返してみてみるべきである。そして、「老害」といわれて不愉快だと感じる心を恥ずべきものであると理解しなくてはならない。やはり年相応にリタイアして隠居しなくちゃ。二十一世紀の隠居老人の最新型文化形態を生み出してゆくことこそが、あなたたちの本当にやるべきことであったのではないだろうか。「若いヤツなんかに負けない」ように老体に鞭打って頑張り続けるなんていうのは、全く「いき」じゃないよね。

EXPO

厳密にいえば、わたし自身は団塊ジュニア世代の人間ではない。両親ともに敗戦後のベビーブーム期に誕生した団塊の世代ではない(ともに戦後以前の生まれである)からだ。そのため、ちっとも団塊ジュニアといえる部分はもっていない。二人のうちどちらかがというようなこともない。かすりもしていない。それでも、ぎりぎり七十年代の生まれなので、周囲には小さい頃から団塊ジュニア世代は多くいて、ほぼその中で育ってきたといってもよいだろう。そのために六十年代生まれの世代とは、ちょっと違っているような感覚もあって、どうにも複雑なところがある。ちょうど70年には大阪で万国博覧会が開かれていて、それ以前と以後では時代が切り替わっているような感覚もある。しかし、周囲には小さい頃から六十年代生まれの世代は多くいて、ほぼその中で育ってきたといってもよい(70年の早生まれであるので、同級生のほとんどは六十年代生まれの世代である)。そういう意味では、七十年代生まれだけど団塊ジュニア世代ではない世代というのは、さらに狭いところにはまり込んでいる狭間の世代だともいえるだろうか。なにも自分たちの世代についての拠り所とするものをもたないオリジナル・ロスト・ジェネレーションでもある。とってつけたような絵空ごとと空想の中にほんのわずかな間だけ現実感をもつものとして誕生した泡沫のエキスポ世代という呼び名もしっくりくるだろうか。

(追記)1945年8月22日に誕生したタモリの独特さも、狭間の世代であることと関係があるかもしれない。敗戦の日から一週間後に生まれたということは戦後生まれではあるが、翌年あたりから大量発生する団塊の世代には属していない。ましてや、戦中派でもない。どこの世代にもしっくりと属している感覚のもてないままに泡沫のようにふらふらふわふわと成長していったのではなかろうか。そんな生まれついての時代のマジョリティに属せぬ疎外感のようなものが、あの独特なパーソナリティや芸風を生み出していったのではないだろうか。

大阪の日本万国博覧会が閉幕した直後に誕生した棋士の羽生善治九段は、70年生まれで現在五十歳、今年中に五十一歳になるエキスポ世代のひとりである。21年2月に放送された「羽生善治 天才棋士 50歳の苦闘」は、そんな羽生善治の棋士人生の現在を追ったドキュメンタリー番組であった。忍び寄る老いや知力・体力の衰えと真正面から向き合いつつも研ぎ澄まされてゆくおじさん棋士。誰も到達したことのない高みにあるからこその手探り感と別格感に背筋が痺れる思いがした。苦闘する羽生善治は思わず目を背けたくなるような弱々しさや萎んでいる面を見せつつも、どこか平然とその状況の操り難さを楽しんで、ふわりふわり浮いたり沈んだりしているような面もあったりして、まさに計り知れない人間力の大きさを垣間見せてくれる。あの七冠独占の時代はもはや過去のものであり、現在は無冠である。前人未到の百期目のタイトル獲得を目前にして、長らく足踏みも続いている。その間にミレニアル世代の実力のある若手棋士たちも多く台頭してきた。そして、中学生でプロ・デビューを果たした新時代の天才棋士、藤井聡太二冠などのZ世代といわれる若手たちがそれに続いている。彼らは人工知能を搭載したコンピュータの将棋ソフトを駆使して、クリックするだけで猛烈な速度で将棋を学び・研究し、奥義の奥義というレヴェルにまで日常的に触れている世代である。羽生善治が見たこともないような盤面を藤井聡太たちはディスプレイ上でいくつも経験している。人工知能というテクノロジーの登場で将棋の世界はひとつひっくり返ったといってももよい。それでも、羽生善治はいう。「藤井聡太の将棋から学び、それに追いついてゆきたい」と。まさに苦闘する五十歳である。だが、ここまで外連味なく清々しいほどにみっともなく苦闘できる五十歳というのも貴重である。なかなかあそこまでなりふり構わずに自分よりも二十歳も三十歳も若い世代に食らいついてゆけるものではない。本当に見上げたものである。だが、藤井聡太ぐらいの若い世代であるからこそ感じられるシンパシーというのもあるのではないか。彼らは自分で楽しいと思える方向にそしておもしろいと思える方向に自ら舵を切ってそこに飛び込んでひとつのはずみを得て創造的な進化を遂げたひとつの世代である。そのZ世代といわれる新しいタイプの人類こそが、われわれが84年に「YOU」を見ていた頃に夢に思い描いていた二十一世紀人のひとつの曙光の具現化であるように思われて仕方がない。

このエキスポ世代や団塊ジュニア世代というのは、ただ数だけ多くて、遊んでばかりいて、なんの役にも立たない取るに足らない世代だと思われていることが多いだろう。だがしかし、われわれは遊んでばかりいたが、いろいろと意味もないことをしたり無駄なことばかりしている中で、たぶん多くのことを学んでいたのである。だが、そんな無駄な知識を頭から馬鹿にして、そういうものからちっとも学びとろうとしない合理主義・功利主義的な世代が、われわれの上にはいっぱいいたというだけのことなのである。こちらとしてもあちらを全く話にならない世代だと思っていた。それがどうしようもないほどの悲劇だったのだ。今にいたるまでずっと続いている、とてもとても息の長い悲劇であった。

だがしかし、われわれの世代には、相手が誰であろうとそこになにかしらを認めれるならばそこから学び、そこになんとか追いついてゆきたいと思うことのできる精神性がある。そこについては羽生善治だけが特別というわけではない。生まれてこの方、好きなことをして遊んでばかりいて、意味もないことや無駄なことばかりしていた世代だからこそ、いろいろなことを知って自分のものにしてゆきたい心性はとても強くあるのだ(ただし、あまり遊ばすに無駄なことや意味のないことにうつつを抜かさずに真面目にがんばっている人々も、実はこの世代には多くいる。遊んでばかりは、ほんの一部かもしれない。好きな将棋ばかりしている人というのも、ほんの一部かもしれない。だけれども、今やこの世代ほど分厚い世代はないので、ほんの一部といえどもほかの世代に移し替えてみれば、かなりの世代内存在感をもつタイプや種族になることであろう)。

そして、かなり遠くかけ離れているように見えるミレニアム世代やZ世代との相性も実はとてもよいのではないだろうか(羽生善治と藤井聡太のように)。彼ら若い世代は、昭和歌謡やアイドル歌謡にシティ・ポップ(AOR、フュージョン、ニュー・ミュージック)などの八十年代・九十年代の文化がとても好きである。それらはちょうどエキスポ世代や団塊ジュニア世代が成長の過程で見聴きしていたものでもある。近ごろのKポップに胸をときめかせている少年少女たちも、元をただせば、あのころにサヌリムやソンゴルメ、シナウィ、ペクトゥサン、プファルなどの大韓ロックに触れて「なんだこれ、すげえな」と感嘆していた八十年代のわれわれにどこか通ずるところがある。彼らが廃れかけていたレコードやカセットの魅力を再発見した最初の世代であるならば、われわれはレコードやカセットでナウい音楽を楽しんだ最後の世代なのである。非常事態宣言が出されていても、街がロックダウンされていても、構わずに若者が遊びに繰り出し続けてしまう気持ちはとてもよくわかる。われわれの世代は風俗営業法で禁止されているのを知りながらもハウス・ミュージックで朝まで踊れる場所・ダンスフロアを求めて夜な夜な街の暗がりを歩き回っていたわけだから。ただ純粋にその時にしたいことや最高に楽しいと思えることが、たまたまアンロウフルだったりイリーガルなことであったというだけのことなのである。そうした文化こそが、われわれの骨身に染み込んでいるものでもある。そして、その文化は絶えることなく脈々と若い世代の間に流れ続け、さらに大きく豊かなものになってきているということだけなのだ。若い世代の人々の数は緩やかに減少してきているにもかかわらずである。それに、なんといってもわれわれはあの頃から気分だけは二十一世紀人だったのだ。このことはとても大きい。

ADO

ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスにしきりにおすすめされていたので「「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」~わかった気でいる年長者に言いたいこと~」という記事をざっと読んでみた。いろいろ思うところはあったが、あの「うっせぇわ」と言いたくなる感覚そのものはまあよくわからないでもないという印象を受けた。ただ、実際のところは「うっせぇわ」を聴くことで「致命的な「勘違い」」が犯されてしまうものだと思い込んでいるところこそが、「致命的な「勘違い」」であるのではないだろうか。「わかった気でいる年長者」が「致命的な「勘違い」」を犯していることもままあるであろうが、それなりにわかっていることももしかするとあるのではないか。「致命的な「勘違い」」を指摘する側の「致命的な「勘違い」」によって全ての「「うっせぇわ」を聞いた30代以上が」「わかった気でいる」と確信してしまうことこそが、もしかすると「致命的な「勘違い」」であるのかもしれない。それにそもそも「致命的な「勘違い」」だと思っていることであっても、もしかするとただの「「「勘違い」」ぐらいでしかないということもあるのではないか。で、勘違いの「「「勘違い」」というのも実はよくあることである。

われわれが十代だったころ、よく耳にしたフレーズに「ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーズ」というものがあった。三十代以上の人間のやることなすことを信用するな。大人たちはいつだって子供たちを自分たちにとって都合がいいように利用しようと狙っている。そのフレーズは、普通に身近にある感覚を表していたものであって、ある意味では世代の合言葉のようなものでもあった。ムーンライダーズが、そんなようなタイトルの曲を歌っていたらしいが、それは聴いていなかった。大手のレコード会社からリリースされているレコードも全て基本的には「ドント・トラスト」の対象にほかならなかったから。徳間ジャパンからレコードを出していたザ・スターリンはその範疇に属さぬ例外とされているバンドのひとつだった。かなり曖昧な線引きではあったが、大手のレコード会社から云々というよりもパンクな音楽性かどうかとかバンドの活動姿勢がどうかとかそういった部分において、いわゆる「ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーズ」に通ずるような感覚がそこに直感的に感じ取れるか否かといったところが非常に大きかったのではないかと思う(ちなみにチェッカーズも尾崎豊もわれわれの線引きの外側であったことはいうまでもないだろう)。

ノイジーなパンク・ロックが演奏されてステージ前では人がぴょんぴょん飛び跳ねていたライヴハウス、延々と打ち鳴らされる四つ打ちのビートとストロボライトのきらめきとスモークマシーンのけむりがもうもうと充満する中で人々が黙々とステップを踏む地下のナイトクラブのダンスフロア、どこもかしこも今思えばそのほとんどは大人のいない遊び場であった。どこも十代後半から二十代前半ぐらいまでの若い世代ばかりでごった返していた。おそらく大人たちにはわからないであろう(あまり興味をもたれないであろう)音楽やダンスで熱気に満ち満ちていた、当時の「ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーズ」な世代が中心の「ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーズ」な世代のためだけにあるような遊び場。そういう場所が、過去にはあった。団塊ジュニア世代というのはとにかく頭数だけは多かったので、そうした世代の子供たちばかりが集まることで、結果的に狭いライヴハウスやダンスフロアに厄介な大人たちを近づけさせずに締め出すことができていたというだけのことであるのかもしれないが。もしかすると、これもまた「致命的な「勘違い」」であるかもしれないけれど、今の「うっせぇわ」な世代には、そうしたほとんど大人のいない遊び場がないということこそが最も不幸なことなのではないだろうか。自分たちが自分たちのために開拓した楽しくおもしろい新しい遊び場ができたとしても、すぐにそこに何かを嗅ぎつけた「わかった気でいる年長者」が入り込んできて楽しいやおもしろいを一瞬でつまらなくしてしまう。少子高齢化で社会は年長者ばかりで溢れかえっている。「うっせぇわ」と言い放ちたくなる気持ちもわからないではない。もしかすると、そんなの「致命的な「勘違い」」なのかもしれないけれど。

八十年代から九十年代初頭にかけて、古い型に流し込まれることを全力で拒否した世代がいた。とにかく受験勉強や就職活動から逃れ続けて、ただ自分の好きなことだけをして遊びまわっていた。あるものは遊ぶ合間に自分の好きなときに働いて自由に生きるフリーターの道を選んだ。あるものは特にこれといった決まった仕事はもたずにいつまでもフラフラとしているだけの道を選んだ。そうした八十年代の能天気なノマドたちは、いつしかみんな揃いも揃って干からびきったぺんぺん草も生えない荒地に流れ着いていた。しかし、この世代の若者たちというのは、実際にはもっともっと高く遠くへ飛躍することができていたのかもしれない。古い型に流し込まれて古い型の大人になることを全力で拒否した若者たちこそ、古くからの伝統的な価値観を百八十度ひっくり返し創造的な進化を遂げる世代であったのかもしれないからだ。その可能性に満ち満ちていた輝かしき世代を、古い閉じた社会が全力で抑え込んでしまった。それが彼らにとっては最も不幸なことであった。

しかしながら、それぞれの世代は、それぞれにどこか近しいものをもっているからこそ、それを全力で拒絶してしまうのではないか。ほかの世代には感じられない何かがそこにあるからこそ拒絶してしまったり思わず「うっせぇわ」と言い放ってしまったりするのではないだろうか。上に対しても、下に対しても。子供たちの世代は、自分の親の世代のようにはなりたくないと(少なからず一度は)思うだろうし、自分の子供の世代は、自分たちの世代のようには絶対になりたくないと思うだろう。それぞれの世代は、それぞれに親と子の関係性(血縁関係だけに限らぬ親子の関係性)となる年代の上と下の世代に対して、少しずつ疎遠になり、不寛容になり、いつしか拒絶をしてしまう。親や子というのは実際に繋がりがあり、とても近しいからこそ、そういう近づけたり遠ざけたりする見方や対応をしてしまうのか。そういうことは、世代間の関係性の(親和性や類縁性と共にある)複雑性や困難さというものに置き換えてもよいような気もする。ベルクソン風にいえば、そこにあるのは対生と二重狂乱といえるだろうか(「うっせぇわ」とは、つまり「対生」と「二重狂乱」である。所謂「わかった気でいる年長者」の「致命的な「勘違い」」風にいうと)。

記事の中に「だがやはり、年長世代は数が多いのだ。若者があなたたちを「一切合切凡庸な」と指差してしまうのは、数が多すぎて顔が見えないのだ。」という一節がある。数が多いから嫌だという指摘それ自体については、まあなんとなくだがとてもよくわかる。個人的にも、われわれの世代に属するほとんどの人々は実に鬱陶しく感じられるものたちだからだ。まともに話が通じるようには思えないタイプも、まあ多い。そして、顔が見えないから嫌だという指摘も、よくわかる。今の若い世代のように、全体を見渡して旗色を確認するようなことは、膨大すぎてなかなかできないから。だが、こちらからすると下の世代というもののほとんどは、はっきり顔が見えないのである。そういう意味では、これは、お互い様だ。

「うっせぇわ」「うっせぇわ」とうるさくいっていても、そのうちにその世代の中からだって件の鈴木おさむのようななし寄りのなしでしかない古いもののの側に要領よく入り込んで、うまいことやってゆくものもいずれ現れるだろう。「うっせぇわ」「うっせぇわ」ととやかくいっていても、幸せな家庭を築いて普通にお父さんやお母さんをするものだっていずれ出てくるはずだ。家庭と家族を守ためにお父さんやお母さんたちは、ほどよく保守化していって、周りに文句ばかりいってるようなこともできなくなってしまう。守るべきものがあるということは、大きく急激な変化を望まないことでもある。両手ぶらーんで何ももたない子供であればこそ「うっせぇわ」「うっせぇわ」と喚き散らすことができる。そして、その先にあるのが「孤独の餓鬼道」であることは、われわれはもうすでによくしっている。すべてはめぐっている。

どうやら、われわれは上の世代からだけでなく下の世代からも拒絶されているようである。よくわからないが、何がそんなにも脅威なのか。ただただ「数が多すぎて顔が見えない」からなのであろうか。それだけのことで劣等人種のように扱われて迫害を受け続けなくてはならないのだろうか。われわれがのさばると多くの人たちが迷惑する。あわれな世界である。上からも下からも全方位的な拒絶を受け続けていることこそが、この世代を特別でひどくおもしろいものににしている。しかし、周りには拒絶しかないので、そのおもしろさはどこにも広まってはゆかない。

われわれが十代だったころに「うっせぇわ」「うっせぇわ」とストレートに歌う曲はなかったが、そのかわりにギズムやザ・スターリン、ガーゼ、グール、リップ・クリーム、エクスキュート、ガスタンク、ウィラード、ゾルゲ、我殺、デス・サイドなどなどの非常にデインジャラスなバンドがうじゃうじゃいて、殺気だってササクレだった(ハードコア・)パンクな音楽を、実際にライヴハウスで浴びるように聴き文字通り体感することができた。

洗濯のりで髪を逆立て、鋲のついたリスト・バンドを装着し、ビッグ・ジョンのピチピチにスリムなブラック・ジーンズを穿いて、足元は安全靴、レザーのカラスマスク(黒のウレタンマスクよりも断然おしゃれ!)もしてみたりと、全くの異形のいでたちで少年少女たちがライヴ会場にわらわらと集まっていた。いつだって革ジャンの匂いでむんむんしているライヴハウスで、ここにいる人たちいつもはどこで何をしてるんだろう、普段はどこにいるのか全然見あたらないけどこういうときだけはいっぱい集まってくる、不思議だなあ、なんて思っていたりした。

原宿の古着屋シカゴで買った燕尾服をハサミでざくざく切ってそこに安全ピンをいっぱいくっつけた、見るからにボロを着て、道端で拾った細い鎖の切れ端を首の周りに巻きつけ、ライヴを見た後には洗濯のりで立てた髪もへなへなに倒れてしまっているわたしも、もしかすると誰かにそんなふうに思われながら見られていたのかもしれない。当時の一部の少年少女たちは、完全に大人たちの綺麗事ばかりの社会を拒絶して遮断するような若い生のスタイルとアティチュードを身にまとって街をうろついていた。

しかしながら、どんなに拒絶して遮断していたとしても話し合いの余地はある。諦めてはいけない。もしかすると「うっせぇわ」世代が最も分かり合えそうな種族が、顔が見えないと思っている世代の中にもかなりの数いるであろうことは知っておいて損はないだろう。いまだに、ジー!アイ!エス!エム!バーミーアーミー!などと普通に口走る年長者が実はかなりいるということは、何かちょっとした希望のようなもののように感じられはしないであろうか。いつまでも、あれこれとやかくうるさくいっていてもいいのだと、もうすでに随分と長きに渡り社会から嫌われて拒絶され疎外されている世代の人々が、その実践例を身を以て示してくれているのだと。その代わりに待ち構えているのは今の社会の一般的な基準からいうと悲惨な生活の未来かもしれないけれど、それは覚悟しておいてほしい。でも、どんなに疎外されても拒絶されても「うっせぇわ」「うっせぇわ」と喚き続けていてもらいたい、のである。そこに飛躍の契機はきっとある。そろそろ人間そのものが大変革を成し遂げないことには、もはやどうにもならないところまできてしまっているから。だからこそ、「うっせぇわ」の精神で、地道に超人を準備するのである。

われわれの世代がいつまでも逃げ続けて遊んでばかりいたせいで、下の世代の人々に真っ当な社会というものを用意しておくことができなかったことは、大変に申し訳なく思う。今ここにある社会は、あのころと同様にまだ芯まで腐ったままだ。だから、逃げ続けるのも文句を言い続けるのも悪くない。夜となく昼となく増え続ける伝染病の脅威から逃走し、やつらに芯まで腐ったそれを食わせてしまえ。そして、腹を抱えて死んでゆく様を見るのだ。いつまでもいつまでも「うっせぇわ」の精神を持ち続けることが肝要である。年長者たちが大失敗したように阿ったり白けていてはダメだ。必ずや全体的社会的負債は今の若い人たちの上に容赦なく降りかかってくる。気をつけなくてはいけない。

ANNO

最後に、「プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」について少し触れたい。この番組の中で、宮崎駿が映画「風の谷のナウシカ」の制作時に初めて庵野秀明に会ったときの印象を語っている。それは「宇宙人が来たと思いました」というものだった。83年の秋頃のことだと思われる。翌84年3月11日、完成したアニメ映画が公開された。その約三ヶ月後にあの「YOU」の100回記念特番「気分はもう21世紀人」が放送されている。この放送の当時、庵野秀明は二十四才である。番組に出演していた日比野克彦(二十五才)や新井素子(二十三才)と同年代にあたる。しかし、日比野克彦も新井素子もすでにかなりテイク・オフはしているように見えるが、まだまだ宇宙人という領域にまでは到達していない。そういう意味では、あの時代にもうすでに新人類層を突き抜けて宇宙人レヴェルにまで到達してしまえていた庵野秀明という人物は、やはり相当にただものではないといわざるをえない。世界の巨匠、宮崎駿がそういっているのだから間違いない。きっと、間違いなく庵野秀明は宇宙人だったのだ。あの当時、ほかにシンに宇宙人レヴェルにまで到達してしまっていた人といえば、やはりジャガタラの江戸アケミがまずは思い浮かぶ。どこか庵野秀明と江戸アケミには似通っているところがありはしないだろうか。ともにものが見えすぎている。「うっせぇわ」に対して何らかの返答が可能であるならば、それは江戸アケミの発した「なんぼのもんじゃい」ぐらいのものではなかろうか。スタジオ・ジブリの鈴木敏夫は、庵野秀明について、六十才になっても大人になりきれていない人間で、それゆえにこの社会の中では計り知れぬほどの生きづらさや苦悩と直面してこなければはならなかっただろうというようなことを述べている。つまり、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(21年)とは、「風の谷のナウシカ」当時の宇宙人が人間を描ききることができるようになるまでの三十七年に及ぶひとかたならぬ歩みのひとつの終着地点(それはひとつの歴史の終焉でもある)ということになるのではないか。三十七年とは、長いようで短い。短いようで長い。気分的には、わたしはまだ十四歳のころのままのようにも感じられる。逃げ続けて遊んでばかりいてふらふらしていたせいで、まったく大人にはなりきれてはいない。孤独の餓鬼道に迷い込んでしまって、出るに出られない。悲しいかな、二十一世紀人にも宇宙人にも全然なれてはいない。だが、まだまだはげまなくてはならない。

(2021年春、2022年春・改)

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