見出し画像

読まずに死ねるか(令和五年秋の陣)

まつりに参加した。もうかなり久しぶりのことになるのではないか、秋のまつりに参加するのは。前に行ったのはコロナの前だったと思うから、おそらく四年か五年ぶりぐらいだろうか。今回のまつりの開催期間は、二〇二三年一一月一三日から二一日までの九日間。春のまつりにくらべると、ちょっとだけ期間は短かったような気もする。事前の予定では期間中に二回ほどまつりに参加しようと考えていたのだが、いろいろあって実際に足を運べたのは僅かに一回きりだった。まつりがスタートして二日目の一一月一四日、穏やかであたたかな陽気の秋晴れの日に参加してきた。
と、書いたものの、その秋のまつりに参加してから、もうかなり時間が経っている。二ヶ月以上が経過して、年も越してしまった。そして、ようやく今ごろになって、これをしたためている。一一月一四日にまつりに参加してきたことを、さらっと書けばいいだけのことではあったのだが、なかなかそれをする心の踏ん切りがつかなかったのである。まつりに行ってそこでなにかがあったから、なかなか書き出せなかったのではない。まつりそのものがなにかの要因であったわけではなく、そもそものところのまつりに行く前やそれに行けるか行けないかというところに多少の問題があったのである。そして、そうした問題のすべての責任は自分の側にあるものであった。
前回の「読まずに死ねるか」にも少しだけ書いたが、今のわたしは非常に深刻な金欠状態にある。平たくいえば、お金がちっともないのである。だから、呑気にまつりになど行っている場合ではない。普通に考えれば。仕事らしい仕事もなく、ただぶらぶらしているだけなので収入らしい収入がない。だから、二三年の秋にまつりがあったとしても、そのころにはかなり窮乏をきわめていて、たぶんまつりには行けなくなるだろうということは自分でもわかっていたのである。ゆえに、そのことを前回の「読まずに死ねるか」にちらっと書いていた。そして、どうかみなさん、サポートをお願いします、ということも書いていたと思う。もしも、それまでにまつりに参加できるくらいのサポートがあったなら、それをもってまつりに行き、その結果を「読まずに死ねるか」でしっかりレポートします、という約束をして。しかし、やはりそんなことのためにサポートをする人なんているはずがないのです。普通に考えれば、わかりそうなことですが。よって、集まった金額は、〇円でした。こんなご時世ですからね、それもまた仕方がないところかと思います。いや、こんなご時世でなくても、そんなことのためにサポートする人なんていないでしょう。そんなことは、自分でもよくわかっているつもりなのですけれど‥‥
調べてみたところ、前回の「読まずに死ねるか」が読まれた回数は(現時点で)二〇回でした。ということは、最初からあまりにも無茶な無理難題でしかなかったのかもしれません。それでも、これまでに何度もまつりに行って「読まずに死ねるか」を書いてきていることもあり、今回もなにか書きたい気持ちはすごくあったのです。せっかく、まつりが開催されるという情報も事前に入手できて、開催される日時もわかっていて、まつりに参加してなにかを書く(たぶん世間の人はちっとも興味を抱くことがないような)レポートも途切れさせたくないという気持ちもあるとなると、まつりの期日が近づいてくるにつれて居ても立っても居られないような気分になってきてしまう。しかし、まつりに行ったとしても、そこで使えるお金はちっともない。それでは、なにも書けない。なにも書けないのでは意味がない。なんとかしたいが、なんともならない。いかんともしがたいディレンマばかりが膨れあがってゆくのであった。そういうときの人間というのは、おのずとどこまでもどこまでも下卑ていってしまうものである。わたしもただまつりに行きたいという一念のためだけに、とことんどうしようもない人間になっていってしまった。
まったく収入がなくおけらであるはずのわたしが、どうして今もまだ野垂れ死なずに生き延びることができているのか。それは事あるごとに父親からお金を貰っているからである。平たくいえば、年金暮らしの高齢の父親から食費をせびっているので野垂れ死なずに済んでいるということになる。されど、ひと口に食費といえども、それはそう簡単に貰えるものではない。いつだって実におもしろくなさそうに、渋々という感じで(無言で)手渡される。それはそうだろう、せっかくの自分の年金を、いくら家族といえどもよくわからぬやつにわけてやらなくてはならないのだから。気持ちはわからないでもないから、それだけに余計にこちらとしてもつらい。だから、本当に最低限度分ぐらいの回数しか貰いにはゆくことができない。だがそれでも、その食費として貰う大変に貴重なお金の中から、まつりにもって行くための軍資金を捻出することを、わたしは計画した。最低限度の食費をさらに切り詰めて、なんとかまつりの期間中に三〇〇〇円程度であれば自由に使えそうなお金を財布の中にかき集めることができた。
それでもやっぱり気は重いし、それについてなにかを考えればすぐに疚しいことをしているような気分になってくる。まつりに行ってなにかを書くということが、ここまでのことをしてまでしなくてはならないものなのかを自問自答せずにはいられなかった。たぶん、常識的には、そこまでしてしなくてもいいころであるのは間違いない。自分のしたいことならば自分で働いて稼いだお金でするべきだというのが、どう考えても世間では当たり前のことであるのだから。ただ、そういったことも十分すぎるほどにわかっているから、気が重いし、なにか疚しいような気分にもなってくるのだ。それに、今回のこの「読まずに死ねるか」を書いたとしても、きっと読まれる回数は今までと同じように二〇回程度なのだろうし、その程度のことをどんよりと深く気が沈むような状態になりながら書く必要があるとも実際のところあまり思えない。だがしかし、それでも自分としてはやはりなにかを書きたいのである。それゆえに、今ここでこれを四苦八苦しながら何度も読み返しながら書いている。わたしが今回どんな思いをしてまつりに行ったかなんていうことは、ほかの誰かにとっては本当にどうでもいいことでしかないはずである。きっと、だからどうしたの一言で片付くようなことだとは思うけれども、自分としてはこういったことをちゃんとしっかり書いておかないことには今回のまつりについての正直なリポートにはならないような気がしたので、誠に僭越ながらここにこういったことをくどくどと書いている。つまり、これは年金生活をする父親から貰ったお金でいい歳をして稼ぎのない息子がこっそりと古本まつりに行くという話なのである。平たくいえば。まさに今話題の八〇五〇問題そのものの現実の有り様をえぐり出したようなひとつの地獄絵図であり、現代日本社会の深層にあるちょっと見えにくい最も暗い暗部のひとつであり、その問題の最前線でもある。
実感として地獄絵図という形容は、それほど誇張ではないように感じる。わたしの底知れぬ浅ましさを思えば、これはもう間違いなくひとつの地獄なのである。誰がどう見ても責められるべきはわたしであろう。しかし、そこまで堕ちてもまだわたしは書いている。たぶん世間に公表しても二〇回程度しか閲覧されないであろう屑のようなものを。この地獄には底がない。どこまで堕ちても地獄である。わたしはもう本当に救いようがない。このままいけば本当にどこかで野垂れ死ぬのだろう、きっと。でも、その前にまだもう少しだけなにかを書いておきたい。もしかしたら、今度こそ本当に最後の「読まずに死ねるか」になるかもしれぬ今回の「読まずに死ねるか」もまた、そうしたなにか書いておきたいもののうちのひとつである、のである。

一一月一四日のお昼すぎ、なんとかして削り出した、元は父親の年金であった数千円程度のほぼその時点でのわたしの全財産を財布に入れて、そこそと物置から自転車を出してまつりへと向かった。駅前の広場のまつり会場に到着すると、少しも時間を無駄にできないので、すぐさま端っこの棚から順々に古本を見てまわった。おそらくは財布の中身のことを考えるならば、この一回きりしかまつりに参加できないことは、もうすでに自分でもわかっていた。それならば、この一回きりのまつりへの参加の際に一冊も見落とすことなく本を見てゆかなくてはならない。それに、まつりで使える金額にも限度がある。財布の中には数枚のお札といくらかの小銭しかない。しかも、それらがすべてまつり会場で使えてしまえるわけでもなく。その中のいくらかはその週の食費のためにとっておかなくてはならないのだ。そうなると単純に買いたい本を選ぶのではなく、今の自分でも買える本を選んでゆくということになる。棚を見て目ぼしい本を選び、手にとって状態の確認を兼ねて中をぱらぱらと見て、大抵は巻末にある値段をチェックして、まずは値段第一で判断し、次に全体評価としてかなりお手ごろな本であれば、頭の中の購入予定リストの中にその本を加えてゆく。そうやって、じっくりと会場の隅から隅までを見てまわり、もう一度最初の地点にもどって、頭の中にキープしておいた本を実際に手にとって積み重ねてゆきながら二周目もさっきと同じ順に棚から棚へと移動してゆく。ここで手持ちの予算と照らし合わせた最終的な吟味が始まる。お手ごろのものをいくつも買うか少し値がはっても欲しいものを買うかがせめぎあう。手にとってまた戻したりキープしたりを繰り返しつつ会場をうろうろと見てまわって、そこそこの冊数の本を選び出すことができた。厚めの本も多く、それを積み重ねると結構な嵩になっていた。何冊も本を重ねたものを持ち運んで歩き回った後に、ちゃんと予算内におさまっているかを一旦その本の山を置いて最終チェックをしてみた。そのときに、そこの場所の近くの文庫本のならびの端っこに、ちょっと気になるものを見つけた。すかさず手にとってみた。小さな函から取り出して、値段をチェックした。少しほかの購入予定の本とくらべると割高な価格ような気もしたが、その一冊を加えてもたぶん合計三〇〇〇円以内にはなんとかおさまりそうなので、その小さな「百花園にて」をうずたかく積み重ねた本の山の上にちょこんとのせてそそくさとレジへと向かった。

今回のまつりで買った古本は、全部で八冊。締めて二七五〇円。一冊平均三五〇円ほど。つとめてお手ごろ価格の良本を選びだした。そして、それをほぼ実行できたと思っている。結局のところ、また青蛙房ばかりにはなってしまったが。その全八冊は、以下のとおり。

安藤鶴夫「百花園にて」(三月書房)
安藤鶴夫「わたしの寄席」(河出文庫)
矢野誠一「落語散歩道」(協同企画)
飯島友治編「桂三木助集」(青蛙房)
東大落語会「落語事典」(青蛙房)
東京大学落語研究会OB会編「柳家小さん集」(上・下巻)(青蛙房)
三遊亭円丈「御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち」(主婦の友社)

安藤鶴夫の晩年に編まれた随筆集を二冊。「百花園にて」は、昭和四二年に三月書房より出版された函入りの小型本。あんつるの言うとおり、すごくかわいい本である。しかし、これは初版本ではなく、あんつるが亡くなってから五ヶ月ほどが経ったころ(奇しくもちょうどわたしがこの世に生をうけたころ)に出た再版本。やはり、あんつるにも死後再評価のような動きがあって、この「百花園にて」も再版がされたのであろうか。小型の愛蔵本だけに初版本の数もそれほど多くはなかったのかもしれない。「わたしの寄席」は、昭和四一年に雪華社よりでいた本の文庫版(平成二〇年出版の初版本)。立川談志のドキュメンタリー「71歳の反逆児」において練馬の家の書斎の落語や演芸関係の本が並んだ本棚がちらっと映し出されていたが、そこに「わたしの寄席」もあったように記憶している。昭和三八年に柳家小ゑんが真打に昇進し立川談志を襲名した際の襲名披露興行の挨拶文を安藤鶴夫が書いている。そして、その一文は「談志よ」という表題で「わたしの寄席」に収められているのである。談志が「わたしの寄席」をずっと身近なところにおいていたのは、おそらくこの一文が載っているせいではないか。文庫版の表紙は、人形町末廣の畳敷の客席に高座に正対して胡座をかいて座っているあんつるがひょいとこちらに顔だけ向けて振り向いている写真。「ああ、なんだあんたも来たの。遅いよ。ほら、さっさとそこいらに座んなって、もうすぐ文楽が出てくるところなんだからさあ」とでも言いたげななんともいえない表情がいい。しかし、かつてNHK特集「びんぼう一代〜五代目古今亭志ん生〜」の中でスタジオ内にセットで人形町末廣が再現されていたが、写真で見る本物の人形町末廣の重厚感はやはり桁違いである。こうした文化的に極めて貴重な場所が、昭和の末期から平成・令和にかけて次々と失われていってしまったことは非常に残念なことである。今はもう往時にあんつるが書いたものを読み込んで、その場所やそこにいた人びとに思いを馳せることぐらいしかわれわれにはできない。

「落語散歩道」は、芸能評論家の矢野誠一が江戸落語の舞台を散歩して巡る街ぶらエッセー集。昭和四二年に協同企画より出版された初版本。もうすでに江戸が遠い昔のものになりつつあった昭和後期の東京の街の落語散歩のミニ紀行を、昭和の東京がはるか遠い昔のものになりつつある令和に読む。変わり続ける時代と変遷してゆく街。しかし、どんなに時代や街が変わろうとも変わらずに残り続けているのが古典落語である。第一級の文化遺産である江戸落語を通じて、江戸の街の風に触れ、昭和の東京の風俗に再び出会う。伝統の芸能とこうしたガイドブックがあれば、いつでもどこでも散歩ができる。

青蛙房の「桂三木助集」と「柳家小さん集」は、矢野誠一が上述の「落語散歩道」を書く際に参照した落語速記本のリストの中に含まれている。「桂三木助集」は三代目三木助の没後、昭和三八年に青蛙房より出版された。今回購入したのは、初版本よりも判が少し大きくなった青蛙房からの昭和四二年の新版。編集したのは落語評論家の飯島友治。可能な限り多くの資料と音源を集め、丁寧に三木助の高座を書き起こし、そこに詳細な噺や用語の解説を付し、未亡人の仲子夫人や安藤鶴夫によるエッセーも併せて収録した、まさしく桂三木助の落語を集成するような一冊といえる。これはもう、この本そのものが第一級の文化遺産なのである。飯島友治のような人物が、あの当時にとてもよい仕事をしてくれていたからこそ、現代にもまだ(変わることなき)落語の文化が息衝きつづけているといっても決して過言ではない。

言わずと知れた東大落語会の「落語事典」である。落語の世界で事典といえば、なにはさておきこれなのだ、ともう長いことまことしやかにささやかれてつづけているずしりと重い一冊。これまでに増補版や新版などいくつかの版で出てはいるものの、今はもうほとんどが古書でしか入手できず而もたいていかなり高価ということでも知られている。そんな古典的な事典の昭和四四年に出た初版本を今回入手することができた。然も三〇〇円で。本の状態はとても良い。少々やけしみはあるものの書き込み傍線のたぐいはほぼ見あたらない。但し、函なし。それでも昭和の第一級の文化遺産が、たったの三〇〇円というのはどう考えても安すぎるような気はする。

「落語事典」を作成した東大落語会とは、東京大学の落語研究会のOBを中心としたグループであり、時として東京大学落語研究会OB会とも表記をされる。そして、その東京大学落語研究会OB会が編集したのが、「柳家小さん集」である。これは上下巻のセットで販売されていた。青蛙房より上巻は昭和四一年、下巻は翌四二年に出版されたともに初版本。ただ、家に帰ってきてから気づいたのだが、値札のところに印有という但し書きがあった。まつりの会場では、これにちっとも気が付かなかった。確認をしてみると、上下巻ともに函の正面と本を立てたときの頁の上部のところに、この本の以前の所有者の印がくっきりと押してある。ただ、それ以外は特に汚れというような汚れもほとんどなく、非常に本の状態はよい。そこで、もうひとつ問題となってくるのが、函と本に押されていた印なのである。今から五〇年以上も前に押印されたものなのだろうが、今でもはっきりと読み取ることのできる印の文字は、日活株式会社テレビ部とある。テレビ時代劇制作用の資料として使った日活の備品であったのだろうか。そういえば、日活は昭和四五年から放送され人気シリーズとなった「大江戸捜査網」を手がけている。しかしながら、それと「柳家小さん集」がどのように関係していたのかはわからない。それに、それほど資料として使用したような形跡がちっともないくらいに、本の状態はかなりまっさらなのである。ということは、これはずっとテレビ部の書棚に置かれていただけの本であったのであろうか。いずれにせよ、そんな「柳家小さん集」がどこをどう変遷してきたのか、二一世紀になってわたしの手元にあるというのは、なんとも不思議な感じがする。わたしが生まれるよりも前からこの「柳家小さん集」は、今ここにある「柳家小さん集」の可能態として日活株式会社テレビ部に存在していたということか。そして、今ここにあるこの「柳家小さん集」は、今もまだなんらかの可能態なのである。書物とは常に来るべきものであるから。なんかもう、そんなことを考えているともはや不思議を通り越して意味がわからなくなってくる。

東大落語会や東京大学落語研究会OB会については、ちょこっと前に春風亭一之輔師匠が連載コラムの「ああ、それ私よく知ってます。」で非常に興味深いことを書いていた。ここには、「桂三木助集」を編んだ飯島友治の名が東大落語研究会の顧問として登場している。そして、このコラムの主役であるのが、二つ目時代の一之輔師匠が大変に世話になったという、東大落語会のY・Sさん。このイニシャルだけをぱっとみると、短絡的に矢野誠一かと思ってしまいがちだが、残念ながら矢野誠一は東大落語会のメンバーではない。では誰なのか。東大落語会の主要なメンバーに山本進というすごい人がいる。この人がY・Sさんなのだろうか。いや、東大落語会で編集を行っていた敏腕メンバーの中には吉田章一という人もいる。では、この人がY・Sさんなのか。どちらのY・Sさんがここで語られているY・Sさんなのかは実はよくわからない。それに、それが誰なのかを特定する必要はあまりないから一之輔師匠もイニシャルでしか書いていないのであろう。ここでは、そういったY・Sさんのような若き日の一之輔師匠に稽古をつけてしまえるだけの知識と見識(知見)と技術をもつ落語の猛者がごろごろといる、なんかちょっとやばい(非常に長い歴史をもつ)組織が東大落語会であるということがわかればそれでよいのではなかろうか。

これまでにちゃんと読んだことのなかった三遊亭円丈の「御乱心」。新版で文庫本化もされたせいか、長らく絶版となっていた単行本はよりリーズナブルな価格へと落ち着きつつあるのかもしれない。今回、購入したのは昭和六一年に出版された初版本。
運命の昭和五四年、三月に行われた六代目三遊亭圓生の歌舞伎座での独演会。ここが圓生の長い芸歴の最後の最高の到達点だと思っていたが、もうそのころにはその足下はぐずぐずに崩れ出してしまっていたことがよくわかる。実に圓生が哀れだ。そして、ここが江戸末期から明治大正昭和とつづいた、落語中興の祖三遊亭圓朝によって築きあげられた三遊派を中心とする落語の時代の終わりの始まりでもあった。そこから始まった三遊派の大凋落の動きは今もなおつづいており、圓生の「御乱心」のインパクトの大きさと罪深さを感じずにはいられない。最近では師匠から弟子へのパワハラ裁判といったようなこともあった。圓歌一門も系譜を辿れば当然のように大圓朝へと通じている。圓朝も圓生もこんなはずではなかったのだと今ごろ嘆いているだろうか。それとも、あまりにも繁栄し栄華を誇った三遊派がこうなることは運命だったのか。あのときの六代目圓生による落語協会に対するクーデタ紛いの騒動、いわゆる「御乱心」があろうがあるまいが。昭和の末期に大名人たちが次々に世を去り落語の世界に御一新の風が吹くことは、いわゆる時代の流れというものだったのか。現在、意気軒昂な三遊亭の噺家といったら、白鳥や天どんなど円丈の一門ばかりというのも実に皮肉な話である。それにいわゆる円丈チルドレンやそのまたチルドレンといった世代の噺家たちも大いに活躍している。今から思うと、円丈の存命中に七代目圓生を襲名させておくべきだったような気もする。伝統ある三遊派の灯を途切れることなく灯し続けようとするのであれば。
今回、「御乱心」の表紙をまじまじと見ていて気がついたことがある。表紙の端に浮世絵か花札の札絵のような桜の花が咲いている。もうすでに何枚も花びらは散り始めているが、桜の花そのものはまだ大きく桜花の形をなして花開いている。ただし、もうすでに花の盛りは過ぎているのだろう、花の奥には緑の桜葉がいくつも顔を出し始めている。そして、その咲いている桜の花と葉には、まさに浮世絵のように鮮やかに赤やピンクや緑の色で色付けをされているのだが、その着色が微妙にずれているのである。おそらくこれは意図的にデザインされたものであるのだろう。浮世絵も大ヒットした人気の絵であればあるほどに、何度も何度も繰り返し刷られてゆくうちに、版木の見当がだんだんとずれてゆくようになり、最初の描かれた輪郭線の中にちゃんと彩色がおさまらなくなっていってしまう。その線と色が微妙にずれてしまっている桜の花と葉が「御乱心」の表紙にはデザインされているのである。この桜の絵は、六代目三遊亭圓生や五代目三遊亭圓楽、そして当時まだ真打に昇進したばかりであった三遊亭円丈が、それぞれに夢見ていた理想と直面させられた現実とのズレを表しているかのようで、とても切ない。しかし、いかにも昭和の落語本らしい実に秀逸な表紙デザインである。装丁は東幸見。

今回の「読まずに死ねるか」では、秋のまつりで購入した八冊の本をすべて紹介した。まだ、すべてを読んではいないので本の中身に深く触れることはできていないが、どんな本がまつりで売られていたのかはお伝えできたのではないかと思う。これを書いている今は、ちょうどわたしの誕生日であり、一九七〇年生まれなので満五四歳になった。今回のまつりで購入した古書たちと、そう大して変わらぬ年齢である。これらの本は五十有余年という長い年月をさまざまな場所を渡り歩いたりさまざまな人と出会ったりして、それなりの箔と貫禄をつけている。それにくらべると、わたしには本当にはずかしいほどなにもない。自分では自分にできる限りのことを一生懸命にがんばってきたつもりではいるのだが、本当にはずかしいほどになんにもない。誠にはずかしいことに、お金もさっぱりない。最近巷でブームだという短歌でいっちょメイク・マネーしようと思ったのだが、これが一銭にもならない。なにをやっても駄目で、もうすっぱりなにもかもやめてしまったほうがかえっていいのではないかとさえ思う。
いい歳をした与太郎が年金暮らしの老いた父親からもらった金で古本を買いにゆくだなんていうことの顛末をながながと読まされるだなんて、こんなのはもうみなさまにとってもちょっとした災難でしかないだろう。だけど、それでもやっぱりわたしは本というものがとても好きなのだなと、「読まずに死ねるか」を書いていてあらためて思うのである。このような地獄絵図のような状況にあっても、まだ古本を買いにゆこうというのだから。思えば、二二年の春には、母が亡くなったというのにその数日後には春のまつりに参加し、その翌々週の叔母の葬儀告別式の帰りにもまつりに寄って古本を買っていた。こんなのはもうなにかの病気なのだろう。だけれども、それゆえにだろうか、お金がないというだけの理由で、それを思うように手に入れられなくなったり、まつりそのものへの参加も断念せざるをえなくなってしまうということは、とてもつらくてたえられないのである。なぜなのか自分でももうよくわからないが。それでも、とにかく、毎日あほみたいに短歌を詠んだり、こうしてぐだぐだと文章を書きつづけている。もっともっと読みたい本を探し出して、もっともっと読む、ということのために。だがしかし、そんなことをしたところで、とてもかなしいことに一銭にもならないのである。詠んでも、書いても、なんの足しにもならないから困りはててしまっている。そのため、すでに地獄絵図の様相を呈している地獄の日常が日々その地獄度をさらに深めてゆくだけとなる。
もしかすると、これが最後の「読まずに死ねるか」になるのかもしれない。このまま今の状況がつづいてゆくのだとしたら、こちらとしてもそろそろ潮時というものをかんがえなくてはならなくなるだろう。だが、春のまつりはもうすぐそこなのである。もし開催されるのであれば、たったの二ヶ月先ぐらいのことである。そして、またまつりに参加して、なにか書きたいなという思いだけは、もうすでにある。たった二ヶ月ではあるが、そのころにどういうことになっているか、まったく見通しは立たない。そのころまでに、たったの二ヶ月しか時間はないが、少しは古本を買うくらいの余裕ができているといいのだが。おそらく、この今のままではそれは土台無理な話であり、なにかすごく奇跡的なことが起こらない限りは難しそうではある。だから、もしかするとこれが最後の「読まずに死ねるか」になるのかもしれない。しかし、わたしとしては次回もまたあることを心より祈っている。どうかまたなにか書けますように。こうなるともう神仏の御力におすがりするほかに道はない。南無観世音大菩薩。


この記事が参加している募集

お金について考える

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートはひとまず生きるため(資料用の本代及び古本代を含む)に使わせていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。