ペペ

読まずに死ねるか

春の恒例行事となったペペの古本まつり(四月五日から四月十六日まで開催)に、今年もせっせと参加した。足を運んでじっくり見て回ること計四回。散歩の途中にふらりと立ち寄ってしまうと毎日のように入り浸ることになりそうなので、前もって自分の中で三日に一回のペースで行くという決まりを作っておいた。雨に降られることもなくきっちり一定のペースでまつりに参加することができ、結果として四回もの古本との格闘を繰り広げることと相成った。なぜかいつも少々肌寒い強風の日にばかりあたってしまい、穏やかな春の陽気の中でのんびりと古書選びという風にはならなかった。ジャンパーやパーカーの前をぴっちりと上まで閉めて、砂埃でジャリジャリしている本に指先をカサカサにされながら、舞い飛ぶ花粉や埃に目をシバつかせ幾度も咳やくしゃみを連発しつつ、そこそこの量がある背表紙の連なりに次々と目を凝らしおもしろそうなものを漁り続けた。購入したものは以下の十八冊。本当はもっと言語学や現象学の掘り出し物をザクザクと見つけ出す予定を立てていたのだが、蓋を開けてみればいつものベンヤミンやベルクソン、今村に澁澤に網野に吉本といったあたりの圏域にズブズブとはまり込んでどうにも抜けられなくなるという結果に終わった。目指していた方面の本はあまりなかったのである。残念ながら。

ボードリヤール「消費社会の神話と構造」
ベンヤミン「ベルリンの幼年時代」
アドルノ「ヴァルター・ベンヤミン」
高橋順一「ヴァルター・ベンヤミン 近代の星座」
ベルクソン「哲学的直感 他四篇」
ベルクソン「哲学の方法」
バシュラール「瞬間と持続」
廣松渉「心身問題」
澁澤龍彦「高丘親王航海記」
澁澤龍彦「唐草物語」
網野善彦「東と西の語る日本の歴史」
網野善彦 阿部謹也「対談 中世の再発見 市・贈与・宴会」
塩見鮮一郎「弾左衛門とその時代 賤民文化のドラマツルギー」
吉本隆明「心的現象論序説」
松浪信三郎「哲学以前の哲学」
「現象学研究」特別号 モーリス・メルロ=ポンティ
「現代思想」1985年12月臨時増刊号 総特集=ウィトゲンシュタイン
「現代思想」2004年8月号 特集=いまなぜ国家か

せりか書房の「現象学研究」の特別号に関しては、アマゾンで検索しみても見つからなかったので相場は分からない。五百円で購入。レヴィ=ストロースの「いくたびかの出会い」や数本の小論文が収録されている。バシュラールの「瞬間と持続」は六百円。半世紀近く前に出た本なのでそこそこ茶色く日焼けはしているけれど状態そのものは悪くない。しかし、後になって何気なく本の裏表紙を眺めている際に元々の価格が五百五十円であったことに気がついた。どうやら知らないうちに五十円増しのプレミア価格で購入してしまっていたようである。定価より高い古本にはちょっと躊躇してしまうことが多いのだが、不覚にも現地では気がつかなかったのだ。値札が元々は七百円となっていたところに新たに白いシールが貼られて六百円と書き込まれているという百円値引きの形跡のお手頃感についつい気が緩んでしまったのかもしれない。澁澤の小説はいずれも箱入りの単行本。最も高価だったのは、アドルノの「ベンヤミン」(91年版)で千円。二十一世紀にまでなっても「やっぱりベンヤミンだな」なんて思われていることをもしも本人が知ったら、肩をすくめて「やれやれ」なんていう表情をするのかもしれないけれど、読めば読むほどに触発されるものがぽろぽろと転がり出てきてしまうのだからいたしかたがない。そして、いくら読んでみてもあの当時にベンヤミンが思考していたことの半分すらまだ理解できていないような気がしてならないのである。本当にいつまで経っても。ゆっくりとではあるが少しでもそこに近づきたいとは思っている。ただし、危機の時代が刻々と迫りつつあるようだ(またしても)。まだまだベンヤミンに教えをこわねばならぬことは山ほどあるというのに。ポスト近代ここに極まれり、か。こうなったら、とりあえず読めるだけのものを読みまくるだけである。誰が吉本を読もうが澁澤を読もうがそれで明日という日が明るい日になるわけでも明るくなくなるわけでもないことは自明。もはやそれぞれに読むべきものを読むしかないのだし、そうするかそうしないかは偶然の邂逅に委ねられているというだけのこと。しかし、テクストはいつだって先回りしてわれわれを待ち構えている。そこに余白はあるのか。後は野となれ山となれ。/と、ここまで書いてきて、以前にちくま学芸文庫から出ていたベンヤミンの「パリ論/ボードレール論集成」をまだ読んでいなかったことを思い出した。もう二年以上ずっと寝かせたままになっている。しまった。時代のスピードにまったくついてゆけていないようだ。何年遅れで生きていることになるのであろうか。正直に申せば、昨年のペペの古本まつりで購入した本にもまだ手をつけていないものが何冊かある。一冊の本を読もうとすると、その前後に予習復習ではないが数冊の関連する本を読まなくてはならないという(強迫)観念にとらわれてしまい、遅々として読みが前進しないという状況が生じてきてしまうのである。今現在も「ラカン対ラカン」の「ラカン入門」を読んでいる最中に「テレヴィジオン」をパラパラと読み返し始めているし、高橋順一の「ヴァルター・ベンヤミン」を読みつつも今村仁司の「ベンヤミンの〈問い〉」や「作ると考える」が気になってきたのですでに机の脇の本の山から掘り出してきてはある。次はこれらを読み返すことになるのだろう。読む本ばかりが続々と増えてゆく。同時に何冊を取り替え引っ替え読み進めてゆけばよいのだろう。終わりが見えない。徴候的読書。まったくのエンドレス。地獄だ。最高に楽しい地獄だ。

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