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運命論or自由意志論

人類はその長い歴史を通して、どうにかして未来を見ようとしました。
未来を手にした人は勝利に近づくからです。

未来予測の元型は、「リンゴの実が木から落ちる」です。実が木から落ちた瞬間を見た人は、数秒後に実が地面に落下するという未来を予測出来ます。

ここからある法則が導きだされます。「天上界で起こったことはやがて地上界で起こる」です。

占い、宗教、哲学、心理学、科学、、など様々な工夫を用いて人類は未来予測を行おうとしました。未来を見たいという衝動は人が生まれながらに抱いている本能なのかもしれません。

場合によると、それが本質的に無理なものだという諦めの姿勢を取ることにより、心の安定を図る考え方が、同じように占い、宗教、哲学、心理学、科学、、などで発生します。

革新が保守を打ち倒すと、それは保守に姿を変えて新たな革新と戦うことになる、、という保守と革新の永遠の戦いは人類の性です。人類が続く以上このようなパラドックスは起こります。

占いにおいて常に話題になるのが、人の運勢は宿命としてあらかじめ決まっているのか、それとも自由意志で変えることが出来るのか?というテーマです。

ここに占い師側が抱える潜在的な葛藤(タブー)が発生します。つまり運命論であるならば、占いなど必要ないのではないか?という至極全うな意見です。

それに対抗するために、運命を理解することであらかじめ起こる災難を逃れることが出来る自由意志の力を占い師は掲げることになります。

しかし、、自由意志で物事が変えられるのなら、それこそ占いは必要ないのではないか?というこれまた至極全うな意見が生まれます。

これは保守と革新の物語と同じです。私も占いを学べば学ぶほど、運命論なのか自由意志なのかわからなくなってきました。

しかし、そのどちらかで迷う状態こそが実は自然な状態なのだろうという諦めの姿勢を取ることにより、心の安定を図っている今日この頃です。

ただ、ひとつのロマンとして、占いを学ぶことで運命を知り、自由意志の力を用いることで、「大難を小難に、小難を無難に変えることが出来る」という仮説を持って占いに取り組むことにしました。

仮説という考え方は、大学院で修士論文を書いた経験が基になっています。あくまでも仮説ですので、本当かどうかはこの時点ではどうでも良いのです。仮説は言い換えると研究者のロマンです。

その仮説を信じることで今度は心の安定を図っているのかもしれません。ちなみに宗教は信じるという方向性、哲学や科学は疑うという方向性で発展してきました。

では占いはどうなのでしょうか?それは現時点の僕はわかりません。占い師のスタンスによって変わるところかもしれません。

そうそう、先程の「大難を~」以外の例えとして思いついたのが、天気予報の例えです。空の動きを読んで明日が雨という予測が出たとします。すると雨という運命を変えることは私たちには出来ません。しかし、私たちは自由意志で傘をさすことが出来るはずです。

この天気予報の例えは、運命論と自由意志、共にリスペクトを払っているつもりですのでいちようの満足はしています。

ただこれからも、占いを学び続ける以上は運命論か自由意志論なのかの葛藤は続くんだろうなぁと思います。いや、続かなくてはならないのだろうなと考える私の考えは、やはり単なる自分自身の心の安定を図るための諦めなのかもしれませんね笑


さて、明日が今日よりも素晴らしくなることを信じて、共にたった一瞬のこの人生を楽しみましょう♪

ではまたどこかで♪

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