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一文が長くなる癖から抜け出すには染み付いた感覚ごと変えなければ、と感じた話。

こんな時間に裏アカの記事を書くのは珍しい。

今日は仕事が休みなので、メインアカウントのほうの記事をひさしぶりに投稿しようかなと思ったのだけど、前の投稿から2週間以上空いてしまっていることを考えると、1本近況報告の記事を挟んだほうがいいかななんて思い——

ここまで書いたところで、ふと

あ、また一文が長くなってる

と自分で思う。
これは記事を書いている最中に、実は毎度思っている。

一度長々書いた文章を添削し、後から一文を短く区切ることはできる。

今日は仕事が休みなので、メインアカウントのほうの記事をひさしぶりに投稿しようかなと思っていた。しかし前の投稿から2週間以上空いてしまっている。となると、1本近況報告の記事を挟んだほうがいいかななんて思い——

こんな具合に。

一文を読点ではなく句点で区切り、短くすることはできる。不必要な文章を削ることでも短くはできる。
一文が長いと読みづらいうえ、へたくそに見えるし、結局何を言っているのかわからない文章になる。読み手に敬遠されるのも承知。

それでも、吟味したうえで、そのまま出すことがある。

そのほうが雰囲気も伝えられる気がしてしまうからだ。

「してしまう」と表現したように、この感覚が一般的ではないことは承知している。

たぶん職業病なんだろうなとは思う。

私は仕事で毎日「書き起こし(文字起こし)」の作業をしている。しかも私が行っている書き起こしは「素起こし」寄りの「ケバ取り」仕上げだ。

できるだけ音声に忠実に仕上げるなかで「うんうん」「えー」などの深い意味がない発言を削除する。しかしながら「えっと」「あのー」などの話者の人柄や発言の迷いが見られる言葉に関してはある程度残す。
読みやすさを備えながら、その場の雰囲気や臨場感、話者の人柄をある程度残すことを優先する仕上げ方を求められている。

要は、不必要と感じる部分が、一般のそれより私は少ないのだと思う。

これを1本あたり「音声の分数+約400秒」で仕上げる作業を延々と続けている。
そりゃあ、日頃書く文章も、添削する前の状態だとほとんど話し言葉になる癖が付くわけだ。

仕事を言い訳にするつもりはないけれど、毎日の仕事が整文仕上げであるなら、たぶんここまで日頃の文章に癖は出てこないのではないかなと思っている。


それでも、書き起こしではなく「文学」を、趣味よりもっと深くやっていきたいと思っているのなら、その場その場で求められる書き方を実践できるようにならなければいけない。

それは、自身に染み付いた感覚ごと変えていくことを必要とするから、少し時間は掛かるだろうと思う。
でも、少しずつ少しずつ、改めていきたい。




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