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海外挑戦した理由 Part1

現在フランスでプロアイスホッケー選手として活動しています伊藤崇之です。

長野県長野市出身 1996年生まれの25歳。
ポジションはGK、ゴールキーパーです。
アイスホッケーを初めたのは3歳、6歳の頃にはGKになっていました。
中学まで長野のクラブチームで、その後水戸啓明高校から法政大学に進みアイスホッケーをしてきました。
そして大学卒業後、ホッケー大国、世界ランキング2位(在フィン時は1位)のフィンランドで2シーズン活動、翌年の今シーズンはフランスに移籍し活動を続けています。

2021-22シーズン フランス

今回noteをはじめた理由は、
なぜ伊藤崇之は海外でホッケーしているのか、自分の海外挑戦の経緯を知ってもらいたい。
そしてその経験が誰かの役に立ってほしいという想いからはじめました。

現在、何人かの日本人プロアイスホッケー選手が海外で活躍しています。北米で活躍中の平野裕志朗選手、三浦優希選手。ヨーロッパ(フィンランド)でプレーする杵淵周真選手など…
同じ海外でプレーするアイスホッケー選手ですが、それぞれ環境や経緯が違います。
もちろん自分もその一人。そして自分はGKであるという違い。2021-22年シーズン、海外でGKとしてプロ活動しているのは自分のみ。
そういったことから、僕なりの海外挑戦を知ってほしいという思いが募り、noteで発信しようと思いました。
もし他に僕の活動などに気になることがあり、ご要望などがあった場合には、他のことについても書いてていこうかなとも思っています。


今回は、

なぜ海外に行こうと思ったのか

早速はじめます。


海外挑戦しようと思った理由は大きく言うと2つほど。
・単純に海外でホッケー選手として活動してみたかった
・海外でやるしかなかった

この2つ。


まず一つ目の理由、「海外で選手活動やってみたい」

この思いのほとんどは自分が子供の時にした経験から出来ています。
なので幼少期から、時系列で振り返っていきたいと思います。

幼少期

僕は両親の影響で生まれた頃からアイスホッケーに触れてきました。両親共にアイスホッケーが好きで趣味として楽しんでいました。そのため赤ちゃんの頃からスケートリンクに連れていかれたりホッケーのユニフォームを着せられたりしていました。
2歳になる前、地元で長野オリンピックが開催。アイスホッケーの競技会場は長野市で、実家から15分程度という近さ。当然母親に抱き抱えられ試合を観に行きました。
3歳になる頃にはスティックを持ってスケートを履いて氷の上に立っていました。だんだん自分自身もホッケーが好きになっていきました。
その後ホッケーが好きになった僕は父親が録画したホッケーのビデオを自ら見るようになっていました。その時見ていたビデオは長野オリンピックやNHL(世界最高峰の北米アイスホッケーリーグ)の試合。(一番よく見ていたのは長野五輪のカナダ対アメリカ、NHLはコロラド・アバランチの試合)
パトリック・ロワという世界的レジェンドのカナダ人GKが好きで、その選手が出てる試合ばかり見ていたんです。
そのため自分の中では「アイスホッケー=カナダ・アメリカ」というふうになっていました。
もちろん日本リーグのコクドや西武の試合もよく見ていました。それでも自分が憧れたのは大きいリンクで大観衆が集まる海外の(外国人の)アイスホッケー、そしてその中で一番に歓声を受けるGKでした。
NHLのスター選手が参加した長野五輪やNHLのスタンレーカップの熱狂ぶり、一人で大勢の観客を沸かすGKに惹かれていたのかなと。

3歳の頃の自分 ちゃんとアバランチのユニフォーム

小学生時代

小学生になってもその憧れは変わらず「中学校はカナダの学校に行く!」と親の意なんか聞きもせず発していました。
また8歳の頃には福藤豊選手がNHLにドラフトされるということがありました。これは、海外への憧れはあったものの日本人には難しいということを8歳の時点で知っていた自分にとっては大きな出来事でした。2年後には日本人として初めてNHLでプレー(しかもGKとして)された姿をみて、「ビッグハットで観てた日本代表の選手がNHLでプレーしたんだ」「日本人でもNHLでプレー出来るんだ、キーパーならいけるのかも」と希望を持ちました。(同時に「自分が最初の選手になりたかったのに…」という思いもありました。笑)
この希望のおかげで海外に行くための英会話の勉強も頑張れました。(親はそのためとは思っていなかったはず)

中学生時代

でも結局、日本、長野市の中学校に進学した中学生時代。
中学3年生の時にクラブチームで短期間ロシアに行くという経験をしました。ここで初めて日本国外でアイスホッケーをします。ロシアは世界でトップ5に入るアイスホッケー強豪国。そこで試合をした。この時の経験は大きかった。
特別強いチームでもなく、人数も10人ちょっとしかいない僕らは、地元のU14・U13(14歳以下、13歳以下のチーム)のチームと試合をしました。当時15歳の自分からしたら年下相手です。
でも結果は僕らのボロ負けでした。年下でも自分より体格が大きく、ホッケーのレベルも桁違い。年下にゴールを入れられまくった僕はめちゃくちゃ悔しかった。でも同時にそこで世界レベルを初めて感じることができました。こういうレベルでプレーしたいとワクワクしました。

ロシア遠征時の写真
ロシア遠征時の写真
チームの監督は元日本代表ヘッドコーチの清野 勝さん


そしてそのロシア遠征時、もう一つ大きな瞬間がありました。
相手に攻められまくっていた試合、僕は失点しながらも、「海外でホッケーしている」という興奮から最後まで必死にシュートを止めていました。そんな中ある決定的な相手のチャンスを僕が止めたとき、相手のロシアチームの保護者が観客席から大声で「Great save!」と僕に言いました。僕はそれがとても嬉しかった。日本ではなかなかない瞬間だった、というか初めてだった。日本で相手チームの保護者がシュートを止めた相手のGKに対して賛辞を贈ることはほぼないと思う、だいたい「惜しい〜」とか「決めろよ〜」とか自分の子供たちへの言葉。(まぁ捉え方によってはこれはGKにとっては賛辞なのかもしれないけど)
でも僕が小さい頃見てきた海外のホッケーのビデオにはGKがスーパープレーをしたら敵味方関係なく拍手を送るファンの姿が映っていた。僕はそんな称賛を浴びるGKをカッコいいと思っていたし、そうなりたいと思っていた。それが自分のプレーで実際に起こった。
この一瞬の出来事は自分の海外への憧れをさらに強めました。「海外でプレーすれば自分の憧れたGKになれる」と。

大学生時代

海外への憧れが大きく募った自分ですが、海外へ行く方法を知らず時に流され、結局は大学卒業まで日本で過ごしました。しかし大学時にも海外でホッケーをすることがありました。大学1年時と2年時に、海外でアイスホッケーのコーチとして活動されている若林弘紀さんに連れられて、チェコでのGKのスキル強化合宿(ゴーリーキャンプと呼ぶ)に参加した。そこには世界の有望なGKたちが参加、NHLでプレーするGKもいた。そして何よりそのキャンプは、自分が小さい頃憧れたNHL、コロラド・アバランチのGKコーチによる指導だった。(フランソワ・アレール氏)
そのキャンプを経験して、そこでまた海外への憧れが復活、というか現実的に考えられるようになりました。

ゴーリーキャンプでの様子
チェコでのゴーリーキャンプ



そんなこんなで、僕は「海外でホッケー選手として活動したい」と思うようになり、法政大学卒業後、やっと実際に海外へ行く決断をしたのであります。
ですが海外挑戦した理由はこれだけではないんです…

「海外挑戦した2つ理由」の1つ目がこんなに長くなってしまったので、今回はここまでにして次回2つ目の理由を載せたいと思います。


最後まで読んでくださった方々、ありがとうございます。

次回も読んでいただけたら嬉しいです。




-UP TO ME-    伊藤崇之

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