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第12回:藤井青銅さん(前編)[連載/ボクっ娘のなれの果て、還暦を迎える。]

右の女性はフリーアナウンサーの五戸美樹さん。魚住じゃないよん。それからこの記事に♡をポチして「スキ」くださいな。登録しなくてもポチできるよ。よろしく♡

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数年前のことだが、声優の平野文さんとWeb原稿関連のやり取りをさせていただいていた時のこと。平野文さんといえば、「うる星やつら」のラムちゃんや「平成教育委員会」の問題出題の声でお馴染みの有名人さんである。こちらとしても失礼のないようにドキドキだ。すると彼女から突然、お叱りというかやんわり優しく注意を受けた。

「気になっていたんですが、あなたはずっと『藤井青銅さん』と呼んでいるけれど、失礼だから『藤井青銅先生』と呼びなさいね」

へ?

平野文さんと知り合ったのは藤井青銅さんの出版記念イベントなので、私のことは青銅さんの弟子筋かラジオリスナーの一人と思ったのかもしれない。いやあ、若く見られてテレちゃうなぁ〜♪(笑)

最初に知り合った時の呼び方が後々の呼び方のデフォルトになるので、そうそう簡単には変更できないものだ。まぁ、確かに青銅さんよりは6歳ほど年下なので目上の方は先生と呼んだ方が良いのかも。

藤井青銅さんといえば、こんなお仕事いっぱいしてきた御方→https://bit.ly/2XJr9vB
そして、こんなに本を出していてhttp://www.asahi-net.or.jp/~mv5s-fji/top.htm
でも、普段はオヤジギャグばっか飛ばしてる愛すべきおじさん。青銅さんに一番合うメディアってTwitterだと思う→https://twitter.com/saysaydodo

藤井青銅さんと知り合ったのは1994年頃のこと。当時、私は扶桑社の女性マンガ誌「かれん」編集部でマンガ編集者をしていた。12人のマンガ家さんを担当。フジテレビの女子アナ3人娘(八木亜希子、河野景子・有賀さつき)が「か・れ・ん♡」とアンニュイにつぶやくCMでお馴染みのマンガ誌であった。丸2年で休刊してしまったけど、今思えば良いマンガ雑誌だったと思う。

ニッポン放送、フジテレビ、扶桑社といえばフジサンケイグループ。フジテレビから扶桑社にやってきた部長からあるミッションを請けた。
「フジテレビ事業部がやっている[ライブUFO]というイベントを盛り上げるために、そのイベントテーマソングを歌っているCHAGE&ASKAを主人公にしたマンガを描かせなさい。原作ストーリーは放送作家で小説家の人に書いてもらうように話はつけてある」

そして、打ち合わせに扶桑社に訪れたのが藤井青銅さんだった。

私は1970年代後半の深夜放送ブームにまんまとハマって中学生の頃からハガキ職人をしていたほどのラジオ好きだったのに、1980年に上京してからうっかり洋楽(MTV)にハマったり、FEN→J-WAVE開局に移行したりして、藤井青銅さんが活躍してきた1980年代のAMラジオを丸々聴き逃してきたうっかり屋さんだ。
だから、後に藤井青銅さんが携わってきた数々の伝説を聞かされた頃には遅かりし由良之助状態であったのだよ。

しかし、藤井青銅さんは気のいい放送作家で、どんな話でも面白がってくれるし、業界人ぽくないし、全然偉そうじゃなかったからすごく話しやすかったのをおぼえている。だから、「先生」を付けない呼び方で定着してしまったような気がするのだ。

マンガの原作ストーリーは青銅さんらしくSFでおもしろかった。マンガを描いてくれたのは大阪のマンガ家さんで南谷みなまさんという女性。
「主人公の女の子が勤める図書館にCHAGE&ASKAがお忍びで現れて、『地球が宇宙に向けて送っているメッセージ』を一緒に探しに行こう」的な物語だったと思う。

それからしばらくしてマンガ雑誌「かれん」は休刊。扶桑社にいたこともあって、私はそのままフリーライターになり、扶桑社の「SPA!」や女性情報誌「CAZ」から仕事をもらっていた。フリーになったご挨拶のハガキを藤井青銅さんにも送ったところ、すぐに連絡が来たのである。

「今度、ラジオたんぱ主催で『放送ライター講座』ってカルチャースクールのプロデュースするんだけど、現役のライターとして講師をやる気はない?」

昔っから青銅さんはプロデュースとかプロジェクトとか作家以外に変なことばっかやってる(笑)。でも、全然怪しくないのが不思議だ。怪しい感じがないので請けちゃのかもしれない。私も「おもしろそう!」とすぐに請けてしまった。そこでは私が「先生」と呼ばれることになった。他にも放送作家さんが講師をつとめていて、私はそのうちの1人。その講師のお仕事はその後、6年間も続くことになる。

その頃、私は若手芸人ばかり取材するお笑いライターを始めた。「専門」が欲しかったのもある。当時はお笑いを生業にするなど無謀もいいところだった。お笑い芸人自体が売れていないし、エンタメの世界では俳優や歌手と横並びになれないぐらい地位が低かったし馬鹿にされる存在だった。お笑いの業界は「草木も生えない荒野」同然。土地を耕し、種を蒔いて、コツコツ育てていって、少しでも芽が出たら怪しい業界人があっという間に畑を荒らして芽を刈り取っていく。

「お笑い関連の仕事はしない方がいいよ。絶対に食えないから」と藤井青銅さんに止められたことがあった。私はその後、業界人に騙されたり、ギャラ未払いや版元倒産など散々な目に遭い、借金地獄に陥る。現在はもう借金はないが、一度つまずいてから気持ちが戻らなくなってしまった。つらい時にいつも思い出すのは青銅さんの言葉で。

「言うこと聞いておけばよかったな」

若手芸人の取材をする仕事していて良かったなと思えることが一つあった。一昨年の年末に、コンビとして「アンタッチャブル」が復活したこと。嬉しかった。昔、何度も取材させてもらって会っているが彼らには良い印象しかない。そして、恩がある。いつか直接お礼が言いたい。

閑話休題。

それからも藤井青銅さんにはいろいろ助けていただいた。お仕事誘ってもらったのにうまく応えられないこともあった。
青銅さんは男性人気が高い。結構、業界人達は独占欲を隠しながらも男同士で青銅さんの取り合いなのである。ご本人は自覚がないかもしれないが。私としてはその様子をチラ見しながら「ふふふっ」と思っている。

ところで、昨年11月頃に青銅さんが嬉しいツイートをしてくれた。これである。

「盟友」という言葉にぐっときた。ありがたいっす!
また一緒にトークライブやりたいっす。

さて、「盟友」という言葉が出たところで、冒頭の平野文さんのお叱りに話は戻る。

私は若手芸人や弟子筋、リスナーではないので、藤井青銅さんのことは「先生」と呼ばなくていいと勝手に判断しております。今まで通り「青銅さん」で。

なぜなら以前から私、魚住陽向は勝手に、藤井青銅さんの妹分のつもりでいるのです。

そう、西城秀樹における「HIDEKIの妹」でデビューした河合奈保子なのです。

結論。藤井青銅さんは西城秀樹だったのです。

なんのこっちゃ。

―232日:還暦カウント

次回、「藤井青銅さん・後編」。友人のゲッターズ飯田さんも言ってたけど、私って「人と人を結びつける」役割みたい…って話です。お楽しみに。

あ!魚住にも書くお仕事ください。
あと、ココで自費出版した小説本買ってほすいぃぃぃ→https://uozumihinata.booth.pm/items/2479038
(自分で言うの何だけど、おもろいで)

BGM by 藤井 風『何なんw』


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