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夏草のひとりごと #18 人が互いに素であることが分かるとき


はじめに。
数学的なウンチクを話したい訳では無いことは言っておく。

1とその数自身でしか割りきれない数のことを素数という。

1、2、3、4、と数を並べていくと4辺りから素数ではないものが現れて来る(4は1と4以外に2で割り切れる)。

この数字を並べるていくことを人生の経験値を積むことになぞらえてみる。

出発の数字は1(生命の始まり)として、生まれたときの自分の経験値は仮に遺伝子などや環境などで整理されて決定されるとする。
3で生まれる奴もいれば、8、9で生まれるなどなど。

そこからは例えば8、9、10と積み上げていく。

各人このステータスをもってしてあらゆる人と出会い、交流を深めていく。
経験値が積まれていく。
僕が22経験値のとき出会った相手が40だったとしたら、18の差があるだろう。

じゃあ18の差があるから言動も価値観も合わないな、なんて判断は乱暴で、大抵の人は目線を合わせるはずだ。

ただし合わせ方は引き算じゃない。割り算だ

お互いの共通話題・認識(=約数)とし、今回は2だとして交流を深めていく(=割り算をしていく)。

同じ数で割り切れなくなった数字の関係を、数の世界では「互いに素である」と表される。

もう2では割り切れなくなった。
定義に戻ると、この話の中で2はお互いの共通話題・認識ということにしていた。
つまり僕が言いたいのは、割り算を、交流を続けた果ては互いにもう何も続けることのできない終わりが待っているということだ。

数字上の関係はこれで終わりだ。
でも、人間はどうなんだろうか。
存在しないはずの約数を探して、もう一歩と続けていくのだろうか。

仮に分解していけるとして、やっぱりそこには必ず果てがある。

ここまで聞いて「あれ?でも同じ数字同士で割り始めたら(交流深めたら)最後の数字が揃って1に到達するんじゃ?」と考えた人もいるだろう。

僕もそう思ったし、それはかなり希望だと思った。
けれど、ここで自分の出発点の数字にこだわる人は詰む。

「僕/私は7なんだ!だから例えば20の経験値で出会って2ずつ割って互いに素にならなくても7の自分を本質とすると分かってもらえてないのも同じだ!」

こんな風なマインドだと、その後の経験値の話ではもうくくることはできない。結論、人と人は分かり合えないことになってしまう。

ただ唯一、そんな人も出発点が同数かつ交流時の約数も同数であれば完全一致ができるだろう。

大抵は互いに素であることが分かってしまう関係を交流を深めて作ってしまうだろう。
だから友達でも恋人でも別れてしまう。
何故か家族だけは互いに素であってもなかなか離れがたいが。
(まあ、法的にだのなんだので区別することは出来る)

終わりなんだな、って自分はよく思ってしまう。
でも本当は引きたくない。

・同出発点、同経験値で同約数で割る。そんな奇跡、起こるの?
・仮に奇跡が起こらなかったとき、人はどうやって自分を知ってもらうの?

詭弁にも近い、塞ぎこんだ発想だとは思ってるんだけれどどうにも無視できない。

答えは自分で見つけたい。いつ見つけられるのか、見当もないが。

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