「正誤」の中にある「好き嫌い」
久しぶりに、高橋優の「素晴らしき日常」を聴いていた。
始めの社会風刺から最後の人間賛歌に畳み掛けていく歌詞とメロディーが、発売当時から好きだ。久しぶりに耳にしても、やっぱり「いい」と感じた。
性善説派と性悪説派とがいる。わたしは前者寄りの人間だ。
どんなに「うわ、ないな」と思っても、「いやいや、何か事情があったのでは」と「よんどころない事情」を探してしまう。
基本的に「いい人だろう」から入るし、だからこそ人の悪意を目にすると、それがたとえ他人に向けられているものであっても、びくびくと怖くなってしまう。
「そうだ。中には悪い人もいるんだ」
そう思ってみては、またすぐに「いい人だろう」の前提に戻る。
もちろん、そんな中でも相手への好き嫌いはある。けれども、わたしの目が捉えているのは、「善」であり「肯」だ。ときどき、「バカなのか?」と自分に思うこともある。
人間の「善」を信じるスタンスなのは、わたしの「善」を認めてほしいからなのかもしれない。
わたしは、わたしの「善」を信じられない。腹の底までが唯一見える存在のため、そこに確かにある「悪」まで把握しているから。自分なのだから当たり前なのだけれど。
どう言い繕ったって、どうその感情に至るまでの道筋を説明したって、「悪」だと断定されるであろうことは、世間にはたくさんある。中には、「仕方ないよね」「わかるよ」と言ってくれる人もいるかもしれないけれど、それは似たような境遇であったり経験であったりをしている人がほとんどで、その共感は、断定派からは「同じ穴の狢」にしか見えないだろう。
そんな「悪」を自覚している。清廉潔白ではないと知っている。けれども、「でもね、仕方ないんだよ」と説明をしたくなる自分のことも、また知っている。わたしの性善説は、そんな自分をただ認めてほしいだけなんじゃないか。そんなことを思った。
高橋優の「素晴らしき日常」は、どうしようもない「悪」を歌いながら、それでも「まだ何とかなるはず」「変えていけるはず」と明るさに視点を移し、高らかに歌い上げる。
自分で自分に向けてしまうと、「言い訳かよ」としか思われない言葉も、他者に向けると、こんなにも力強い光を放つ言葉になるんだな。
きっと正しくなんかない。けれども、正しくないものが悪とは言い切れない。言い切れない、と他人の「正しくない」に対して思ってしまうのは、わたしが自分の「正しくない」を、悪だと認めたくないだけなのだろう。
ただそもそも、「正しくない」と思っているのも一方からの見立てで、全方向から見て「正しくない」わけでもない。
きっとそれは「正しくない」に包んだ、その人の「嫌い」だ。「正しい」に身を纏えば、人はひどく冷酷になれるから。
間違ってばかりだ。それでも、間違いを自覚しながらももがき続けることは、卑下すべきものではないと信じたい。
きっと、人はそれぞれの善に向かいたいと思って動いているとやっぱり信じていたいし、そこに感じる「正しさ」は、ただのわたしの「好き嫌い」でしかないと肝に銘じておきたい。
そんな取り留めもつかないことをつらつらと考えている頭の中では、「素晴らしき日常」が流れ続けている。
なお、彼の「こどものうた」も個人的に好きな歌です。
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