割り切れなくてもいいじゃない
「若菜は精神的に弱いから、図太くなれるように意識しなさい」
中1の秋から冬にかけて、部活の人間関係トラブルが原因で不調になった。わたし自身が当事者であったわけではない。先輩、同輩が揉めている中に放り込まれていたような立場だった。
「わたしには関係ないもーん」とすれば良かったのかもしれないけれど、当時のわたしにはできなくて、まともに受け止めてはどうすればいいのかを考え、その結果腹痛やら吐き気やらを引き起こした。
早退や欠席が続いたとき、父に言われたのが、冒頭のセリフだ。
父も精神的に病んだことがある。その父から見て、娘のわたしは自分にかなり似ていると感じたようだ。そのため、「わかる」と思ってアドバイスをしてくれたのだろう。
この頃から、弱さはわたしの中で「悪」になった。克服せねばならないものとして、わたしに刻まれた。
強くなろうとした。気にしないように言い聞かせた。けれども、その結果は、ただの精神的脆さをこじらせた人間が出来上がっただけだった。
「強くなろうとなんてしなくてよかったんだ。むしろ、弱さを認めて、その上で折り合いをつけることを考える方が、わたしにはよかったんだ」
この考えに至ったのが、21歳頃。大学を休学後、中退した頃だったように思う。
それからもいろいろあったけれど、少なくともこう思うようになってからは、少しだけ生きやすくなれた気がしている。
とある人間関係で、ここ数ヶ月の間悩んでいた。表立って何かがあったわけではないのだけれど、だからこそなかなか気持ちが切り替えられず、ジメジメめそめそし続けている。(現在形)
「割り切らなきゃ」「切り替えなきゃ」そんなことばかりを思い、自己暗示するように繰り返し続けていた。
何がきっかけというわけでもないのだけれど、ふと思った。「ああ、割り切れないのも、ありだ」と。
つらくなるのは、結局わたしの割り切り方が下手だからだ。割り切ったつもりにだけなって、本当は全然割り切れていないままだからだ。
どうせがんばっても割り切れないなら、はじめから割り切ろうだなんて考えなくていいのかも。「割り切ろう」と意識することは、かえって無駄なエネルギーを使うことなのかも。そう思ったら、体に入っていた(らしい)力が抜けた。
ただ、割り切れなくても、自分ではどうしようもないことは存在する。そうしたときは、「割り切れない」と思いながら飲み込もう。割り切れない自分ごと、「仕方ないな」と思えるようになろう。
「弱さはダメだ」と思うことより、「弱さを抱えたわたしにできることはなんだ」の方が前に進めたように、「割り切れない自分はダメだ」より「割り切れなくてもいいよ。でも、じゃあどうする?」の方が向いているらしい。
割り切れない。やっぱり悲しさはある。どうにかしたいと、この期に及んでも考えてしまう自分がいる。それは、どうしようもない事実だ。わたしの生の感情だ。
でも、仕方がない。割り切れなくても、現実は現実なのだから。
「割り切れないよね、それくらい大事だったんだよね」と自分を甘やかしながら、「でも、それでもわたしはわたしで進まなきゃね」と背中を押す。
やっと、一区切りつけられるかな。
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