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想像力を働かす手間を省かない

ひとには想像力がある。想像力は人間特有の能力だと思っている。

想像力があるから、わたしたちは誰かに寄り添えるし、誰かと親しくなれるし、理解しようとできる。


ひとは、どうしたってひとりだ。誰かと本当の意味でわかりあえることなんてない。「このひとのことはなんでもわかる」なんていう思いは傲慢だ。そう思ってしまった時点で、そのひととの関係性はストップしてしまうのだと思う。

「わかりあえない」が前提にあるから、わかろうと歩み寄ろうとするのだ。相手のことを考えて、少しでも理解をしようとするのだ。


別に博愛主義者でもないのなら、すべてのひとに対して理解をしようとする必要はないと思う。わたしは割と多くのひとに想いを馳せすぎてしんどくなってしまうタイプだけれど、そこのバランス感覚は自分の中で保っておくべきものだと思う。自分を守るためにも。

でも、相手に対して想像力を働かせない状態で、そのひとのことを否定するのはどうなんだろうなあ、と思う。

想像力を働かせることを労力だと感じて、その手間を惜しむのなら、その相手は自分にとって、いわば「どうでもいい」人間だ。だとしたら、たとえ否定したくなったとしても、それは胸の内に秘めておけばいいのではないかなあ。

言論の自由はあるわけだから、否定するひとがいること自体は仕方がないことだし、結局はそのひとの自由だ。けれども、わたし個人は、相手の背景に想いを馳せることなくぶった切るような言葉を見ると、考えが浅いんじゃないのかなあ、と感じてしまう。

そのひとにとって、その相手は「どうでもいい」から、想いを馳せる必要性もないのだろうということはわかる。理解をしたいわけでもないのだろうな、ということもわかる。だから、思うのは自由だ。だけど、あえてその思いを言葉にするのであれば、想像力を働かせてみたり、もっと思考を深めてみたりしてからにすればいいのになあ、なんて思うのだ。


……まあ、わたし自身も短絡的になりそうなことはままあるのだけれど。

だけど、それを繰り返してしまうと、ひととしての底の浅さを露呈してしまう気がするのだ。

そう思われてしまうことには、何のメリットもない。だったら、思考を深めた上で発言をするか、そこまでのことではないなら何も言わないかに尽きるのではないかなあ。


ひとには預かりしれぬ事情がある。子どもの頃に親や大人の事情がわからなかったのと同じように、自分が経験していない立場のひとのことは、よほど想像してみないとまったくわからないものだ。

そもそも、同じ経験をして、同じ立場にいる間柄であったとしても、感じ方はひとそれぞれなのだ。自分の経験や考え方だけを述べるのならまだしも、相手を自分の立場に立ったままで否定するのは、やっぱり何だか違う気がする。


「こういうことがあったからなのかもしれない」だとか、「こういう状況なのかもしれない」だとか、答え合わせができるわけではないけれど、考えることは無駄ではない。

その「〜かもしれない」が頭にあれば、「それでも、やっぱり共感はできない」だとか、「わかるけれど、間違っていると思うなあ」だとか、同じ否定でも意味が全然異なってくると思う。そして、そこまで考えてからの否定意見は、それを見ている側にも思考を促す、貴重な意見になり得るのだと思う。


気があう人間同士でもわかりあえることなんてないのだから、価値観が異なるひとに言及するなら、なおさら想像力を使おうよ。そう思うのだ。



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