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中途半端な球体を目指さない

はじめは、みんなデコボコだった。

デコを「いいね」っていってもらえた。
ボコを「ダメだね」っていわれることなんかなかった。

デコはどんどんのびていき、ボコはそのままそこにある。

デコとボコが逆の人と知り合って、そうしてぼくはニコリと笑った。


「磨くこと」について考えていた。

わたしたちは、生まれながらに持っているデコボコがある。それは得手不得手であるし、好き嫌いでもある。得手不得手と好き嫌いは、必ずしも一致しない。

赤子の頃の長男は、目の前から転げて離れていくおもちゃを、決して自ら取りにいこうとはしなかった。「あー……」と座ったまま目で追う彼の姿を、わたしは今でも昨日のことのように思い出せる。

一方、次男はいち早くハイハイをマスターした。ほしいおもちゃを見つけると、たとえおもちゃとの間に障害物があったとしても、なぎ倒しながら獲得しにいく赤子だった。

どちらも本人にとっての長所で、時に短所だ。

わたしたちは学校に放り込まれて、デコとボコの差を埋める努力を必要とされる。長い年月をかけ、まあるくまあるくなるように、いろんなカリキュラムをこなしていく。

デコとボコとの差が大きい子であればあるほど、まあるくなるために必要なのは、ボコを埋める努力になるだろう。そうして、ボコ克服への努力に力を割くため、デコの成長スピードは自然と抑えられてしまう。

まあるくなれた先に出来上がるのは、「可もなく不可もない」「無難な」人間だ。

「何ができるの?」と問われたとき、まあるい人は「これが」と答えられるだろうか。完全なる球体になればなるほど、「これができる」からは遠ざかってしまうような、そんな気がする。


わたしも「まあるく」に沿って成長してきた人間だ。あいにく歪な球体にしかなれなかったから、「これが好き」や「これが嫌い」は残っている。けれども、昔のわたしの方がおもしろいデコボコを持っていただろうなあと思う。

生きていく上で必要な力が極端にボコなのは、本人にとっても不便だろう。でも、生きていくのに必須なものではないのなら、ボコをフォローするために力のほとんどを割くよりも、デコを磨き伸ばすために注力する方がよいこともあるのではないかと思う。


オールマイティは素敵だ。でも、みんながみんな素晴らしいオールマイティになれるわけではない。「可もなく不可もない半端なオールマイティ」になるくらいなら、突き抜けるデコを作る方がいいのかもしれない。


これは、大人になったわたしの今の仕事でも同じだろう。苦手を克服することももちろん必要だけれど、そこにばかり力を入れすぎると、ただの無難さしか残らない。できないことにばかり目を向けずに、今できていることを徹底的に伸ばすことも考えていきたいと思う。

それは決して「できない」ことからの逃げではない。「できる」を磨くことだって、真剣に向き合っていなければできないことだと思うから。


苦手の克服もがんばってほしいところではあるけれど、得意を伸ばそうとしているのを抑えてまで無理強いさせたくはないなあ。伸びたい方に伸びればいい。自由に伸びに伸びた長男のアサガオのように。

息子たちを見ながら、無難さを第一に選びがちだった自分を思い返し、そんなことを思っている。


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