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わたしだけの100点を目指し、貫け

緑の中にいる。

木々の中を吹き抜けていく風が気持ちいい。空気は澄んでいて、ほんの少しだけ冷たい。カサカサカサ、と葉が風に擦れる音が聞こえる。見上げると、ときどき葉の間から差す光が目に入り、目を細めた。

周囲にはそれなりに多くの人がいるけれど、人の放つエネルギーよりも、木々が放つエネルギーの方が多くて、どこか落ち着く。息子たちは相変わらずややこしいけれど、ふだんよりもゆとりをもって見守れるのは、生まれたイライラが充満せず、霧散していくからだろう。


強いエネルギーをもった言葉の数々に、少しだけ疲れていた。人混みに出るとぐったりしてしまうように、放たれるエネルギー量があまりに多いところにい続けると、その言葉の内容の良し悪しに関わらず、心は疲弊してしまうものらしい。

「こうじゃないですか」「こう思いませんか」など、矢印が他者に向いている言葉に多く触れていると、わたしは疲れてしまう。相手と直接やりとりをしている分には平気なのだけれど。

「こう思う」と断言している言葉には、触れていてもあまり疲れを感じない。ただ、誰かを暗に否定しようとか、賛同してもらおうという雰囲気が感じられるものは別だ。これは、結局矢印が外に向いているから、わたしは疲れてしまう。

わたし自身、はたからどう見えているのかが気にならないわけではない。むしろ、不安になりやすいタチだ。だけど、外側からの見方により意見を変えられるような器用さも持ち合わせてはいないため、気にするだけ無駄だといえる。

昔、「平和主義のようでいて頑固」だと友達に言われたときに「そんなことない」と返したけれど、たぶんわたしは頑固なんだろう。


わたしは、ある意味で周りへの興味関心がないのかもしれない、と思うことがある。興味があるのは、関わった「誰か」がどういう道を歩んできて、今どこに立っていて、これからどうしていくのかということだけ。

その人含め、誰かから正解をもらおうだなんて考えてはいない。人の考え方に興味はあるけれど、それによりわたしの考え方までが変わるということは、ほとんどない。周りの目を気にするようでいて、実際はゴーイングマイロードタイプなのだと思う。


自由でいたい。そのやりかたや考え方が、明らかに誰かに害を与えることがわかっている場合は別として、いちいち誰かの目を気にする必要はないのだから。

また、わたし個人は誰かに何かを言う必要もないなと考えている。外野から見たわたしの思う100点はただの理想論で、その人自身にとっては赤点かもしれないのだから。アドバイスを求められたときは別だ。そのときは、あくまでもわたしの主観だと念押した上で、わたしが思う最善を伝えるようにしている。

誰かに何かを言うことに時間を割くくらいなら、自分が本当に見たいもの、やりたいことを深掘りしていたい。そうして、わたしが共感できるかどうかはさておき、自分を貫いている人を、好ましいなあと思う。



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