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マンガとわたし:大雑把なカテゴライズと悪意

昔、同級生に台湾の子がいた。両親ともに台湾人だったのか、ハーフだったのかはわからない。ただ、アジア人だから見た目が大きく特徴的だったわけではないし、言葉も不自然さのない日本語を話していた。もしかしたら、日本生まれ日本育ちだったのかもしれない。

彼はなかなかのヤンチャぶりで、クラスメイトと喧嘩をすることも多かった。女子から「バカじゃないの」と思われる男子生徒のひとり。見た目や話し方に特徴がなかったこともあり、彼は彼で、国籍や人種に対して何かを思ったことはなかった。

そうじゃない人もいるのかもしれない。

そのことを知ったのは、彼と男子生徒の喧嘩のときだ。いつも通りの喧嘩だったのだけれど、そのとき、相手の男子生徒は、彼に向かって、「何やねんお前、台湾に帰れ!」という言葉を浴びせかけたのだ。

これは担任の耳に入れられ、学級会の場を設けることになった。なぜだか、その場で話されたであろう内容はあまり憶えていない。言われたときの彼の表情と、言ったあとの男子生徒の表情は憶えているのだけれど。


このときは、目の前に「個人」がいるにもかかわらずこうした発言が飛び出したわけだけれど、「個人」を知らなければ、悪感情はさらに加速してしまう。

差別とまではいかないにしろ、マイナス感情が爆発した発言がなされるとき、きっとその人には、該当する括りの中に個人的な知り合いがいないか少ないかするのではないかと思っている。

マンガ「鋼の錬金術師」が好きだ。その中には、主人公たちアメストリス人と、彼らに迫害され敵対しているイシュヴァール人という異なるふたつの民族が出てくる。

主人公の幼馴染は、内乱時にイシュヴァール人に両親を殺められている。そのことを知るイシュヴァール人と主人公が相対したとき、「わたしたちを恨まないのか」と問われた主人公は、こう答えた。

「個人レベルでならつきあえると思っているよ」

これは本当にその通りなのだと思っている。何も民族という大きな括りだけの話ではない。たとえば大人と子ども。若者と高齢者。男と女。健常者と障がい者。フリーランスと会社員。

とかく相手をカテゴライズして「だから嫌」「だからダメなんだよ」などとしてしまうことが多くみられるけれど、結局行き着くところは個人なのだ。

自分と同じカテゴリーにいる人間に良い人と悪い人がいるのと同じように、異なるカテゴリーにいる人も同様、本当に多種多様な人がいる。

そうして、それが体感できるのは、当事者と付き合ってみることなのだろう。

あるカテゴリーに属するひとりと出会えば、大きな括りで乱暴に表現することはできなくなるのではないかと思う。……少なくとも、無意識的な暴言は出てきにくくなるのではないだろうか。


「相手の気持ちになって考えよう」は、簡単なようでいて難しい。“相手”がよくわからない状態だと、個人よりもカテゴライズした状態で物事を断じてしまいたくなりやすいものなのかもしれない。

「このカテゴリーの人たちにはこういう傾向がある」といった程度の認識がちょうどいい。少なくとも、誰かを否定するとき、その人が属するカテゴリーを持ってくる必要はどこにもないのだと思っている。


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