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「大学は無駄論」に思うこと

大学は不要だ、無駄だった、だとか。学歴なんて意味がない、だとか。

わたしが垣間見ている世界に限ってなのかそうでないのかはわからないけれど、その手の発言を繰り返し見かけてきた。そして、ここ数日、またその話題が一部で盛り上がっているようだ。

結果として無駄になる人はいると思う。だから全否定をするわけではないけれど、「意味ないよ」と顔の見えない相手全体に発することに対しては、「うーん」と引っかかりを覚える。そして、何に「うーん」と思っているのか考えて思い至ったのは、「大学のせいにしすぎなのでは」だった。

いや、まあ、マンモス大学だとすると、そこの大学独特のカラーなんかがあって、学生がそれに不満を感じたところでどうにかなるものではないのかもしれない。だけど、「あのクソ大学」と言ったところで、その大学を選んだのは自分自身では?と。

進路を決めるとき、どこまで調べたのだろう。何をもって、その「クソ大学」を選んだのだろう。

会社と一緒で、入ってから気づく「無駄感」やギャップはあるのだと思う。だけど、その無駄感を解消させるべくトライしなかったのは(しきれなかった)のはやっぱり学生だし、大学という場を活かせなかったのも学生だ。

「活かせなかったわたし」を差し置いて、大学だけ否定するのは、どうなんだろうなあと思う。「この大学を選んだのは失敗だった」「この学部・学科はわたしには意味がなかった」のならわかるけれど。


わたしは、大学が直接関係ない理由で中退している。大学が合わないだとか無駄だとかそういう理由ではなかったから、今でも大学自体が無駄だとは思わない。学びたくて選んだ大学だった。だから、最後まで学びたかった思いは今でもある。ただ、そのときは中退が出来る範囲でのベストな決断だったと思っているし、後悔しているのかと問われれば、NOだ。


結局、どのようなものであっても、無駄になるかどうかは、無駄にするかどうかだ。常識が通じない教授だとか、変わった友人だとか、そういう人と関わりながら学べるのは、活かしようによっては財産になる。また、一見無駄に見える時間にこそ、二度と得られないものが詰まっていることだってあるのだ。

それを得られるか、それに気付けるかは、やっぱり本人次第だ。見つけられなかっただけで、「大学クソだわ〜」と言っているのだとしたら、ちょっと滑稽だよなと思う。


わたしの母親は、進学前に「これからの四年は、1番贅沢な時間だよ」と言った。母も親に言われたらしい。

結局、わたしは四年通いきれなかったのだけれど、その意味はわかる。どう使ってもいい四年の時間は、無駄かもしれないけれど(いや、だからこそ)贅沢だ。無駄にしてもいい時間がそんなにある期間なんて、なかなかないと思う。

「大学って無駄」と言っている人たちは、その人たちが無駄にしてしまっただけだ。無駄の中に価値あるものを見つけられなかっただけだ。それはそれで、ある意味でいい経験だったとも言える。

ただ、だからといって、「大学は無駄」にはならない。「学歴は不要」にもならない。余白にだって、意味はあるのだ。

あと、なんていうか、価値あるものにもできる物事に対して、無駄と断じてしまうのは、「わたし、見る目なかったんです」「活かせなかったんです」と公言しているみたいだなあとも思う。


わたしにはふたり息子がいるけれど、行ってもいいし、行かなくてもいいと思っている。自分が目指したい先に行くために必要そうなら行けばいいし、そうでないなら行かなくていい。それは、そのときに本人が自分の意思で決めればいい。

人生の選択に絶対的な正解なんてない。活かすも殺すも、自分次第だ。

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