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【卒業制作】デザイン倫理を、禅で問う。 #300

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designでの卒業制作が無事に終了しました。というわけで、私の卒業制作「Paradoxical Prototyping -How Zen Inspires Design Ethics-」をご紹介します。この記事を通してTransdisciplinary Designについても知ってもらえたら幸いです。


問題意識:デザインの功罪と倫理 

デザイン(デザイン思考)を使えば画期的なアイデアが生まれてイノベーションが起き、社会問題が解決できるという考え方があります。デザイン思考は1960年代から研究され始め、2000年代にIDEOなどのおかげで有名になりました。日本では2018年に経済産業省による『デザイン経営宣言』が公表されたことから、国からもデザイン思考の効果が認められていると言えるでしょう。

一方で、デザインのもたらす悪影響を指摘する言説もあります。たとえば、2021年のFacebookではフランシス・ホーゲンが「Facebookのアルゴリズムは怒りを増幅するコンテンツを選ぶよう操作されている」などの内部告発をしました。いかにユーザーがFacebookを使用する時間を増やすのかという目的のためだけにデザインが使われていることが明るみになったのです。

こうしたデザインの功罪を知っていくうちに、「どうして倫理的ではないデザインが生まれるのか?」「どうすればデザインはもっと倫理的になれるのか?」と考えるようになりました。そんな疑問に対して思考を深めていこうというのが私の卒業制作の主な試みです。

とはいえ、初めからデザイン倫理をテーマにしようと決まっていたわけではなく、そこには紆余曲折がありました。Step0では私が「禅を参考にデザイン倫理を考える」というテーマにたどり着くまでをご紹介します。


Step0: テーマ設定

Transdisciplinary Designの卒業制作のテーマは基本的になんでもアリ。先生からテーマを与えられることもないので、自分でテーマを設定するところから始まります。そこで、「私は何に興味があるのか?」から考えることにしました。たとえば、環世界などの哲学的なテーマ、メンタルヘルス(うつ病や燃え尽き症候群)、資本主義(注意経済)、仏教(禅)に興味がありました。

しかし、「これら全てに興味があります」というだけではプロジェクトは進まないので、これらを一つのテーマにまとめるためにキャッチコピーをつくることにしました。こうして生まれたのが「How to stay sane in an insane world(狂った世界で正気で生きる方法)」でした。「デザインによって問題解決をすると言うけれど、いつまで経っても世界から問題はなくならない。ならば、いっそのこと問題とともに生きる方法(ライフスタイル)を考えるべきではないか」という思いが込められています。

このキャッチコピーへのひとつの答えとして、『何もしない』や『デジタル・ミニマリスト』などの本を参考にして、ミニマリズムな生き方を支援するプロダクトやサービスのデザインを目指していました。今思えば「どこまで行っても世界は変えられない。生きづらい世界で個人でできることに着目する」というペシミスティックでニヒリズムな考え方だった気もしますが。ただし、この方向性では行き詰まりました。

一つ目の理由は、対象者が「資本主義・注意経済の影響下にある人」と広すぎたことにあります。ざっと見積もっても数十億人が対象となるため、誰にインタビューをすればいいのかなど調査対象者が決められず、リサーチを進めることができませんでした。

二つ目の理由は、解決策の介入対象がライフスタイルという漠然としたものだったことです。禅を参考にしながら「スマートフォンなどから離れるデジタルリトリート」を考えるなどと試みていましたが、既存のアイデアを超えそうにありませんでした。

こうして「注意経済の中でのミニマリズム的ライフスタイル」という方向性は頓挫しました。しかし、禅をテーマにすること自体には手ごたえを感じていました。なぜなら、デザインを産業革命以降の約150年間に起こったヨーロッパ&アメリカのムーブメントと捉えたならば、仏教や禅は東洋由来で2600年近い歴史があるというコントラストがあるからです。近代西洋発のデザインに古来から東洋で受け継がれてきた仏教を取り入れるという切り口に可能性を感じたのです。


Step1: Participation(参加)

では、禅をテーマにするとして、どのように学べばいいのでしょうか。これまでも仏教や禅にまつわる本を読んではいました。しかし、禅には不立文字という言葉があるように、禅の教えは言葉ではなく自ら体験することでしか身につかないという考え方があるため、実際に体験する必要がありました。

そんな中、偶然にもTransdisciplinary Designに禅の修行をされている先生がいらっしゃいました。彼に相談してみると「New York Zen Centerという学校の近所で修行をしていて、誰でも参加できる」とのことだったので、早速行ってみることに。そこで、坐禅、経行、法話などを体験することができました。これが2022年の11月の頃で、そこから毎週日曜日に通うようになりました。初回の様子は以下の記事で書いているので参照してみてください。

ちなみに、このステップは人類学におけるフィールドワーク・参与観察を参考にしています。「リサーチをさせてください」というよりは、そのコミュニティの一員としてただ参加することに専念するように意識していました。今から振り返れば、この姿勢のおかげで次のステップでインタビューをする際にNew York Zen Centerの人たちが協力してくれたのかもしれません。


Step2: Consultation(相談)

Step1で禅の修行を体験し、少しずつ禅の教えを理解しつつありました。ただ、禅での学びをどのように日常に(私の卒業制作の場合はデザインに)活かせばいいのかが分からずにいました。そこで、New York Zen Centerで修行している人にインタビューをすることにしました。そこでは、主に以下のような学びがありました。

・Zen is not a religion (禅は宗教ではない)
禅は宗教というよりも哲学や思想と捉えられます。そのため、キリスト教徒やユダヤ教徒でも禅の修行に参加しています。つまり、どんな人でも禅から学ぶことができると言えそうです。

・Every moment is Zen practice (すべての瞬間が禅の修行である)
坐禅をしている時だけが修行ではありません。すべての行いでマインドフルにいること、慈悲を持った言動を心掛けることが禅の修行そのものです。よって、デザインプロセスにも禅の教えを取り入れられるはずです。

・Zen is too profound to teach (禅は教えるには奥深すぎる)
禅を教えることができるのは、長年修行した禅僧だけだそうです。そのため、私のような初学者が禅を語るのは控えた方が良さそう。ただし、禅僧以外の人が禅を人に伝える場合は、戒律を伝えることが有効だそうです。

こうして禅の教えを他の分野に活かせる根拠とコツを手に入れることができました。


Step3: Translation(翻訳)

Step2での学びをもとに、禅の教えをデザインに活かす方法を考えていました。最初に考えていた方法は「Zen-Inspired Ethical Guidelines for Designers」で、禅の教えをデザイナー向けに翻訳して倫理ガイドラインとして伝えるというアイデアでした。

Step2において、「禅の教えは奥深いから、長年修行した禅僧でないと教えられない。だから、修行が浅い人が禅について教える時は戒律を参考にしている」という話があったので、私も戒律からデザイナーにも役立ちそうなものを選ぶことにし、不飲酒戒ふおんじゅかいに着目しました。New York Zen Centerの戒律では「Not Giving or Taking Drugs」という文言としてありました。

この戒律をデザイナー向けに翻訳し、「Not Designing Addictive Products」というルールを設定することを考えていました。実際に「ドーパミン依存症」を利用したビジネスは『僕らはそれに抵抗できない』等で問題視されており、こうした文脈に沿った提案になると想定していました。

では、中毒性のある製品とは何を意味するのでしょうか? そこで、私は禅僧に「ドラッグとは何を指しているのでしょうか? SNSやスマートフォンなどはドラッグに含まれるのでしょうか?」と質問をしました。すると、以下のようなお言葉を頂きました。

Everything can be medicine and drugs.
(全ては毒にも薬にもなる)

この言葉を聞いた時、私は目が覚める思いでした。「SNSは時間の無駄遣いや心身の不調に繋がることもあれば、新しい人との出会いや親しい人との連絡にも使える。禅で推奨される坐禅でさえも執着すればドラッグと同じになる」という話でした。

以降、特定の性質を指して倫理的かどうかを議論するのではなく、「全ては毒にも薬にもなる」という視点をデザインプロセスに取り入れる方向性で考えるようになりました。


Step4: Implementation(実装)

ここまでの学びを踏まえて私が考案したのが、「Paradoxical Prototyping(逆説的プロトタイピング)」というワークショップでした。

ブランドロゴ
(白黒や文字反転でパラドックス感を表現してみた。フォント:Futura)
ワークショップの流れ

具体的にどのように行うのかをStep0からStep5に分けて説明していきます。

Paradoxical Prototypingが利用される状況は、デザインプロセスにおけるプロトタイピングの時を想定しています。つまり、リサーチが終了し、これから解決策を考えていこうとしているタイミングです。

まずは、デザインするモノを決めます。ワークショップでは参加者が自由に決められますが、実際の現場ではリサーチ結果をもとに決めたり、自社のプロダクトやサービスから決めたりすることになるでしょう。

次に、Step 1で決めたモノが「良い」と評価されるであろう特徴を列挙します。箇条書きでもブレインストーミングでも、自分がよく使うアイデア発想法を使って構いません。実際の現場では、リサーチで集めたインサイトをもとにユーザーがどんな特徴を「良い」と評価するかを考えることになるでしょう。

ここで、二分間の瞑想をします。瞑想と言っても特にやり方の指定はなく、各々のやり方・ペースで深呼吸をしてもらいます。全体としては電気を消したり静かな環境を整えたりして落ち着いた雰囲気を用意します。

ここからが、Paradoxical Prototypingのメインパートです。Step3では、Step2で挙げた特徴をすべてひっくり返します。

通常のプロトタイピングでは「良い」特徴を取り入れながらプロトタイプをつくっていくはずですが、Paradoxical PrototypingではStep3でひっくり返した特徴をもとにプロトタイプをつくります。絵を描いたり粘土で作ったり、figmaでモックアップを作ったりストーリーボードを作ったりしてもよいでしょう。

ここで、再び二分間の瞑想を行います。Step3とStep4ではいつもとは違う考え方をしてきましたが、それもここまで。ちなみに、Step3とStep4のスライドの背景が黒いのは、「いつもと違う思考をしてください」というメッセージが込められています。

最後に、Step1からStep4までをみんなで振り返ります。何を作ろうとしたのか? どんな特徴を「良い」と考えていたのか? Paradoxical Prototypingといつものデザインプロセスはどう違ったのか? こうしたテーマでディスカッションをして、いつものデザインにも活かせる学びを持ち帰ってもらいます。

以上がParadoxical Prototypingの流れです。これを約一時間程度のワークショップに落とし込んで、Transdisciplinary Designの学生を集めて開催しました。参加者からは「いつもと違う視点から見ることができた」「何が『良い』かは人によって異なるものだと感じた」などの感想があり、私が期待したような体験を届けられたと思っています。

Step1のアイデア出し
瞑想 with キャンドル
Step4のプロトタイピング
Step5のディスカッション(イラストで表現)
Step5のディスカッション(粘土で表現)

そして、最終的な作品としては「Paradoxical Prototyping Starter Kit」に仕上げました。紙芝居のようにオモテ面に先ほどの画像が印刷されていて、ウラ面にはファシリテーター向けに各ステップの詳細な説明が書かれています。これで誰でもParadoxical Prototypingのワークショップを開催することができますね!


Paradoxical Prototypingと禅の思想

Paradoxical Prototypingをデザインするにあたって私が気をつけたのは、「特定の価値観を参加者に押しつけないようにすること」でした。というのも、禅に基づいた倫理ガイドラインを定めるという以前のアイデアでは、私個人の「こうあるべき」という価値観を押しつける恐れがあったからです。

そのため、Paradoxical Prototypingでは参加者に「あなたが良いと思う性質の逆に目を向けてみて」と促すだけにしました。逆の視点に目を向けた結果、「逆もアリかも」と思うのか「いや、元々のアイデアが良い」と思うかは自由です。参加者の今の価値観も否定しないし、特定の価値観を肯定する意図もない。ただ、自分の価値観以外の価値観も存在するということ自体に目を向けるきっかけを与えることを目指しました。

Paradoxical Prototypingを体験することで「自分はこれを『正しい』と思い込んでいたけれど、他の視点もあり得るなぁ」と気づいたならば、自分の価値観への執着が和らぐはずです。

このように、私自身も「自分の価値観を押しつけないように」と意識しながらParadoxical Prototypingをデザインしたことや、Paradoxical Prototypingを体験した人も「自分の価値観は絶対的に正しいわけではない」と思うようになることが、禅における自我(エゴ)を捨てて無我の境地に至ろうとする姿勢と近しいと思っています。


編集後記

Transdisciplinary Designにおいて大事にされているのは、「最終的にどんな作品を生み出したのか」よりも「プロジェクトを通して何を学んだか」です。というわけで、最後に私の学びをまとめておきます。

倫理的であるとは?

今回の学びを一言でいうならば、「倫理的な態度とは、『自分のデザインが倫理的である』と盲信しないことである」となるでしょう。どちらか一方が正しく、もう一方が悪いと二元論的に考えてしまうことを戒めるものであり、二元論的思考は私自身が陥っていた思考でもあります。

「How to stay sane in an insane world」というテーマを設定していた頃は、「自分=正しい、世界=正しくない」と考えていました。その後、デザイナー向けの倫理ガイドラインを作ろうとして「Not designing addictive products」を掲げていた時も、「中毒性のある製品は倫理的ではない」と決めつけていました。

この二元論的思考を戒める視点は、ジャックデリダが唱えた脱構築と近いのではないかと思っています。彼は二項対立における優劣を疑い、価値判断を保留することを唱えました。禅の教えからたどり着いた結論が現代西洋哲学とも通ずるというのは面白いと思いました。

さて、ここでデザイン倫理を個人だけでなく、チームとしても考えていかなければならない時代にきているという話を少し。「Design Ethicist(デザイン倫理学者・デザイン倫理担当者)」という役職をご存知でしょうか? これは2013年にトリスタン・ハリスがGoogleで担っていた役職です。彼は「ごく一部のテック企業のデザインが数十億人に影響を与えている」ことを指摘し、デザイン倫理の重要性をTEDで講演していることでも有名です。

しかし、彼がDesign Ethicistになってから10年が経った今(2023年)も、この役職はほとんど見かけないはずです。きっと「私たちの会社のデザインはすでに倫理的だから、デザイン倫理担当者は必要ない」と考えられているのではないでしょうか? もしそうならば、私が卒業制作を通して学んだ「倫理的な態度とは『私のデザインは倫理的である』と思いこまないこと」と真逆の状態であるように思えます。

こうした状況の中、『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏は2019年の彼との対談の中で、テック業界の人が倫理や哲学を学ぶ必要性を述べています。

ひとつの手として、例えば大学でコンピューターサイエンスを学ぶなら、プログラミングの倫理性について学ぶコースを必須科目にすることが考えられます。真面目な話、倫理や道徳について学ばずにコンピューターサイエンスの学位が取れてしまうのは、無責任も甚だしい。人の生活をかたちづくるアルゴリズムをデザインする技能を身につけるのに、自分のしていることについて倫理的、哲学的に思考する素養をもたないなんて。いまのままでは、ただ技術的なこと、もしくは経済的な観点しか考えてないんです。だから、倫理や哲学といった要素は最初から組み込んでおくべきです。

WIRED『人間はハックされる動物である』より 太字は私による強調

ハラリ氏の言うようにデザイナーが哲学や倫理を学ぶ教育システムが整ったり、会社にDesign Ethicistがいることが当たり前の時代になってほしいものです。「どうすればDesign Ethicistを育成する学校や雇う企業を増やせるのか?」は今後の課題になることでしょう。


専門性と当事者性

「Transdisciplinary Design」という領域横断をその名に掲げるデザインを学んでいたため、「どうすれば異なる分野をかけ合わせられるのか」を考え続けてきました。そして、この問いを考える上でのキーワードとして辿り着いたのが専門性当事者性です。

専門性とは、すでに存在する学問領域を尊重するということ。自分が詳しくない分野の知識をむやみに使わないなど、自分は専門家ではないことを意識する必要性を意味します。私の場合、「メンタルヘルスを扱うならば精神科医などの監修が必要になる」と判断し、メンタルヘルスをメインに据えるのを控えました。

では、すでに専門家がいる状況でどのように領域横断を行うのか? そこで重要になるのが当事者性です。自分は専門家と呼べるほど詳しくないかもしれないけれど、その分野の部外者ではない状態を確保するように心掛けるということです。私の場合、New York Zen Centerの坐禅に参加することで、禅を扱う当事者性を確保しようとしていました。

Transdiciplinary Designだからと、むやみやたらと異分野を「侵犯」していいというわけではないのです。こうした理由から「日本人デザイナー」という当事者性から禅とデザインを選び、禅についてはNew York Zen Centerの禅僧という専門家を頼ることで、当事者性と専門性に配慮しました。これもデザイン倫理と言えるかもしれません。


日本人がデザインを学ぶということ

Transdisciplinary Designではデザイン倫理や当事者性に関連する内容として、Decolonization(脱植民地化)の話題を扱います。アメリカという国の歴史にはヨーロッパ人による先住民や黒人への不当な介入があり、その影響が今も続いているという話は避けられないのです。日本でもDiversity, Inclusion, Equityという言葉が意識されるようになっているようですが、その背景にはアメリカにおけるDecolonizationがあると考えることができます。デザインを使ってこうした社会問題にも取り組む姿勢を学びました。

しかし、この考え方をそのまま日本に輸入すればいいという単純な話ではありません。「アメリカ・ヨーロッパの考え方が進んでいて日本は遅れている」と見なすことは、Decolonizationの本質を捉えていません。むしろ、文化や思想の植民地化を助長していると言えるでしょう。

というわけで、「デザインという近代西洋のムーブメントを、日本人としてどのように向き合っていけばいいのだろうか」という問いを考える必要がありました。それに対する私なりの答えが「東洋で古くから受け継がれてきた仏教、特に日本発祥の禅を参照する」だったのです。

もちろん、デザインは単に近代西洋の文化という枠組みに収まらず、問題発見や問題解決の手法としてある程度普遍的な方法論でしょう。それでも、Cultural Adaptation(文化的適応)という考え方があるように、日本文化や日本人にとって扱いやすいようにアレンジ、ローカライズする必要があるということを学びました。

ただし、ここでも注意したいのは「西洋 vs. 東洋」という二項対立で優劣を論じているわけではないということ。デザインよりも禅が優れていると言いたいわけではありません。あくまでも私が日本人という当事者性を意識しながら西洋発祥のデザインと向き合う時に禅や仏教が役立つと考えた、という話でした。


まとめ

以上、パーソンズ美術大学・Transdisicplinary Designでの私の卒業制作「Paradoxical Prototyping -How Zen Inspires Design Ethics-」をご紹介しました。デザインを使って何かをつくったというよりは、デザインプロセスをデザインしたという方が正確かもしれません。「つくり方をつくった」という感じでしょうか。

また、私が辿った禅をデザインに取り入れるプロセスを抽象化すれば、「ある分野を他の分野に活かすための方法論として①Participation(参加)、②Consultation(相談)、③Translation(翻訳)、④Implementation(実装)という4つのステップを提案した」と言うこともできるかもしれません。この方法論は「Transdisciplinary Designとは何か?」を説明するために使えそうです。

禅をデザインに取り入れる方法

今回の記事で私の卒業制作やTransdisciplinary Designについて一通りご紹介できたと思いますが、「速報」ということで概要のみを書いたつもりです。今後はこの記事への追記や別の記事での補足などでTransdisicplinary Designについても紹介していきたいと思います。

気づけば約10000文字の大作になっていました。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
少しでも参考になれば幸いです。

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