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「デザイン思考」という幻想を越えて #118


デザイン思考?そんなものはない!

「デザイン思考」を学ぶためにはるばるニューヨークまで留学しに来ましたが、最初の授業で教わったのは「そんなものはない」ということでした。デザイン思考で画像検索すると、様々なデザイン思考の図解が出てきますが、そのどれもがデザイン思考を表していないと言うのです。つまり、デザイン思考は図式化できないというのです。

なぜなら、デザインプロセスは暗中模索だからです。自分たちがどこを目指しているのかもわからない。どこにいるのかもわからない。プロジェクトごとに進め方も毎回異なります。デザイン思考は、決まったアルゴリズムに従えば問題解決が誰でもできるといった代物ではないのです。そんなことをこの約半年間で学びました。

とはいえ、頼りになる羅針盤のような存在は欲しい。活躍されているデザイナーの方々は、それぞれの軸や強みを持っています。「○○デザイン」「デザイン○○」など、デザインと他の何かを掛け合わせることで、独自のデザイン論を構築しています。デザインはこの○○にどんな思想や概念を当てはめるかの勝負という側面も垣間見えます。こうしてデザイナーが設定した○○を北極星としながらデザインを進めています。そこで、私も何か自分なりのデザイン論・デザイン哲学を考えるべきなのかもしれないと思い、自分の思考の軸を考えることにしました。


半熟の思考

ここ1週間ほど、自分の思考の軸について書いてきました。

「構造主義と実存主義」「無限性と有限性の折り合いをつける」「意味とは、つながりである」という3つを私の思考の軸として仮設定し、これらに基づいて生まれた思考を「半熟の思考」と名付けることにしてみました。半熟という単語に込めた意味は以下の2つです。

1. 自分の思考がまだ明確にはなっていない。まだ熟しきっていない。
2. 絶妙な意図が込められているという意味。半熟卵を作ろうと思ったら、温度や時間が丁度良くないとドロドロすぎたり、固まりすぎたりしてしまう。デザインにおいて、ちょうどいい(Just Enoughな)介入を目指したい。

「半熟卵のようなデザインを目指す」という伝わるような伝わらないようなキャッチコピーを思いついたので、とりあえず書いておきます。


なぜ、この3つの軸なのか?

人間は4つ以上になると「たくさんある」と認識してしまい、一つ一つの内容を個別に覚えにくくなります(漢数字もローマ数字も4以降はなぜか線で表さなくなりますよね)。7つの習慣でさえ私は全て覚えられません。なので、数をできる限り減らすことによって、数学における座標軸のようにいつでも参照できるようにしたかったのです。

1つ目と2つ目の軸はカントのアンチノミー(二律背反)として哲学で生まれたの命題を参考にしました。アンチノミーとは、相互に矛盾する二つの命題(定立と反定立)が同等の妥当性をもって主張されること(デジタル大辞泉より)を指します。1つ目と2つ目の(数学的)アンチノミーは無限と有限について、3つ目と4つ目の(力学的)アンチノミーは決定論か自由意志かについてです。

1. 時間と空間に関する宇宙の限界
2. 全ては分割不可能な原子から構成されているという理論
3. 普遍的な因果性に関する自由の問題
4. 必然的な存在者の実在

このアンチノミーに帰着するような議論をすると、どちらも正しいとなってしまう確率が高いと予想されます。ここで重要なのは、この両者が両立するということです。何か意見やアイデアを聞いた時、どちらに分類されるのかをまずは考えるようにするべきだという考えから、2つの思考の軸を設定しました。

もし自分がどちらかの選択を迫られた時は、「私」という存在に近い方を採用するという基準を設けました。無限と有限なら有限、構造と実存なら実存です。この2つの軸は哲学界でどちらかが正しいと論証されて結論が出るまでは、ずっと残り続ける二項対立と考えられます。

3つ目の「意味とは、つながりである」という軸は、普遍的というより完全に私個人の主観的なテーマです。この3つ目は今後変更される可能性はありますが、自分のデザイン哲学を表すために暫定的に設定しています。この3つ目が私らしさとして磨かれていくことでしょう。

では、なぜこの3つを軸に選んだのか?それは全て人間という存在が持つ不変的な事実を前提にしたかったからです。そうして選んだのが「人間は生から死に向かっている」という事実でした。この事実を前提として考えれば、そこから導かれる法則の妥当性も保証できるはずです。ということで、この事実を私の思考を組み立てるうえでの公理にすることにしました。

「私」はいずれ死を迎えるから有限の時間しか生きられない。「私」は誰にも理解されない孤独な存在で「私」だけの生きる意味を求める。「私」は一人では生きられないから、つながりを求める。そんな「私」から始まる思考を考えてみたくなりました。


私はビジョンデザイナー?

デザインの話をしている割には、ここまでデザインスキルの話がまったく出てきていないのですが、これには理由があります。経済産業省が2019年に発表した「高度デザイン人材育成ガイドライン」を見てみると、デザイン思考が今後求められるようになることは間違いなく、高度デザイン人材の育成が必要であると書かれています(詳細はこちらの資料をダウンロードしてご覧になれます)。

その中で、今後必要とされる高度デザイン人材像として、「サービスデザイナー」「デザインマネージャー」「ビジネスデザイナー」「デザインストラテジスト」「ビジョンデザイナー」の5つが紹介されています。

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私が学んでいる「Transdisciplinary Design」コースは、この5つのうちの「ビジョンデザイナー」を育成しているという紹介がなされていました。

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ビジョンデザイナーのスキルとしては、これからの未来の社会課題やデザインを考えることが求められるとされ、アート的な側面やデザイン哲学が重視されるようです。つまり、「ビジョンデザイナーはこのソフトウェアのスキルが必要」という明確な要求はないようです。これがデザインスキルについてあまり言及してこなかった理由です。

なるほど、私は「ビジョンデザイナー」なるデザイナーになれるのかと思ってGoogleで検索をしてみたところ、ビジョンデザイナーを名乗る人は少なくとも日本語では見つけられませんでした。もしかして、イマジナリージョブなのかと不安になりました。

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ビジョンデザイナーは、CDO(Chief Design Officer)による積極的支援もしくはCDOであることが望ましいとのこと。企業のデザインのトップと気が合わないと、仕事に就いたり活躍することは難しいということでしょう。私のようなペーペーのデザイナー志望の学生にとっては、何とも厳しい条件な気がしてしまいます。

一体、私は何になれるのでしょうか?少なくとも、グラフィックデザイナーやUIデザイナーといった、具体的な商品をデザインするようなデザイナーではなさそうです。もしかしたら同様のスキルが求められるサービスデザイナーやデザインストラテジストとしてキャリアをスタートし、いずれはビジョンデザイナーを名乗るという流れなのでしょうか?いやはや、ビジョンデザイナーへの道は遠そう。


私は、しがない生卵。


私が学んでいるデザインは、人々の頭の中の概念をデザインする、デザインという概念自体をデザインし直すといったことに重きを置いています。何かのソフトウェアの使い方といったすぐに役に立つスキルは一切学んでいません。「入学前に思っていたようなデザイン(スキル)を学べていない」という不満を口にするクラスメートも中にはいます。

でも、私はデザイン哲学を深掘りすることこそが、今後のデザイナー人生、さらには私自身の人生においても意味があると信じています。慶應義塾塾長だった小泉信三は「すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる」と言い、シカゴ大学の総長だったロバート・ハチンスは巷にあふれるノウハウを「急速に古ぼけていく事実」と表現しました。

今学んでいることは抽象的で他人と共有するのは難しいです。それでも、「すぐに役に立たないものは一生役に立つはずだ」と自分に言い聞かせて、焦る気持ちを抑えています。デザイナーの卵としての私は、まだ茹で始めたばかり。そんな生卵デザイナーは来週から春学期を迎えます。

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