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パーソンズ美術大学留学記シーズン3 Week4 #240

秋も深まってきたものの引き続き学校は冷房で寒く、厚手のストールをポンチョのように着ています(なぜかクラスメートからかわいいと言われる)。Week4に入ると先週までのオリエンテーションムードが終わり、少しずつ課題が出るようになって忙しくなっています。まだまだ先の長い秋学期を無事に乗り切るために、無理せずマイペースを心がけています。

Professional Communication

今週の課題は「卒業してから5年間の(仕事に関する)自分の未来をポスター1枚で表現する」でした。課題の詳細については以下の記事にまとめているので、この記事では自分が授業中のディスカッションで思ったことを中心に書きます。

まずは「自分の未来を考える」ということ自体について。不安を感じやすい人に対して「将来のことを考えずに今に集中すべし」というアドバイスがあります。なぜなら、いくら考えても未来のことは何もわからないからです。個人的にも「未来よりも今を考えろ」というアドバイスを参考にして生きているのですが、「Future Cone」における”Preferable”を考えることは役立つと思いました。なぜなら、"Preferable"な未来を思い描く過程で自分にとって何が重要なのかが明確になったり、望ましい未来の到来も期待できるようになって「なんとなく不安」という症状を解消できたりするからです。

また、Authenticity(意訳すると「自分らしさ」)という単語をよく聞くなど「型にはまる必要がない」というメッセージを毎回感じます。企業の募集要項に書かれた条件に当てはまるようにするのではなく、自分の心の声に耳を澄ませることを勧められます。「そうしないと、資本主義などのイデオロギーの奴隷になってしまう」というアドバイスもありました。

ちなみに、私は「Transdisciplinary Designを日本に持ち帰りたい」という夢をポスターに書いていたのですが、「そのまま伝えるわけじゃないよね?」と先生に聞かれました。それに対して「解決策を持ち帰るというよりは問いを持ち帰るという感じですかね。アメリカ的な文脈における答えと日本的な文脈における答えは異なるはずだから」と答えると、「その通りだと思う」と笑顔でした。

アメリカでは脱植民地や人種差別の問題を扱いがちですが、その話題をそのまま日本に持ち込んでもあまり機能しないでしょう。実際のところは問いも答えもアメリカと日本では異なっていて、参考になるのはデザインの考え方、マインドセットだけなのかもしれません。


Superstudio

今週はNarrativesやEthnographyがテーマでした。授業では『オズの魔法使い』を例にしながら解説が進んでいったのですが、これが私には全くピンと来ず。アメリカではイースターの時期に放送されるのが定番なのだそうで、クラスの大半が知っている様子でした。日本だと夏休みには金曜ロードショーで『となりのトトロ』を放送してるみたいな感じでしょうか。全世界で一番知られている物語って何でしょうね?

さて、今週の課題は「Deep Observation」でした。私のグループは「Food」にまつわる観察をするように指定されたので、キャンパス近くにあるユニオンスクエアパークのグリーンマーケットを観察することにしました。特に、人間にとっては食べ物でなくても他の生き物にとっては食べ物のこともあるという視点で観察しました。

見る人(生き物)によって見え方が違うという考え方は、ユクスキュルの環世界で有名です。鳩は地面に落ちたパンくずを食べるし、蜂は花の蜜を食べ、ハエにとってはゴミや犬の糞が食べ物です。食べ物を考える時に人間以外の生き物にも視野を広げると、食べ物が様々な生物の間で循環する様子も考慮できるようになるのではという話にまとめて提出しました。

ただ、街を観察をして気づいたというよりも環世界という知識を当てはめていった感があり、ありのままに観察することの難しさにあらためて気づきました。こうした懸念は「Anthropology + Design」でも考えることになりました。


Anthropology + Design

今週のテーマは「エスノグラフィーとは何か?」でした。一番の問題意識は、エスノグラフィーを書く人の立場や視点はどうあるべきかというもの。もともとは相手を人としてというよりも研究対象として見る傾向があったところから、同じ人間同士の交流の記録へと移っているようです。エスノグラフィーを書く自己と書かれる他者との関係性をどう築くべきなのかというのは、常に意識するべきなのでしょう。Oath(誓い)のような倫理的配慮を明文化するべきという話もありました。

また、エスノグラフィーとジャーナリズムとノンフィクションに違いはあるのかという話から、文章を書く人の視点を通してしか記録できないことにも思考が及びました。ここでも環世界の概念が役立ちそうです。つまり、一人ひとりがそれぞれの世界を生きていて、その環世界の中からの見え方でしか記録できないということです。

ちなみに、私小説においてもありのままを描くことはできないという同様の指摘があることを思い出しました。私小説では筆者の経験をそのまま小説にしようとするものの、体験する時と文章にする時に「編集」がなされるからですね。そもそもこの世界を言語で表そうとする時点で限界がある気もしますが。


Thesis1

今回のテーマは"Material Synesthesia(物質的な共感覚)"でした。ただ、今回は主にMaterialityに着目し、既存のものを通常とは異なる素材でつくったアート作品を中心に考えました。Do Ho Suhによる建物を布や紙で再現する作品などが紹介されました。

Do Ho Suh, Seoul Home/Seoul Home/Kanazawa Home/Beijing Home/Pohang Home/Gwangju Home, 2012-present, Silk and stainless steel tubes.

アートやデザインにおいて素材などの一部を変化させると、それを見たり使ったりする人が違和感を覚えて、「そういえば、普通はこうだよな」と日常を振り返るきっかけになるという効果があります。"see something differently(違った見方)"を促すことで "take it for granted(当たり前と見なしていること)"に気づいてもらうというアイデアを手に入れました。

私が思い浮かべていたのは、食品における例です。ビーガン向けの大豆ミート、バターの代わりのマーガリン、ノンアルコールビール、かにかま。通常とは違う素材を使いながらも元となる食品と同じ味や見た目を目指すことがあります。多くが元の食材の問題点(健康問題、環境負荷)を克服するべく工夫した結果生まれた産物です。

「別に同じ味や見た目にしなくてもいいのでは?」という疑問についても話しました。それに対する答えの一つとして、「人間は社会的な生き物だからあまりにも他人と違うものを消費しているのは居心地が悪いというのでは?」というのがありました。みんながビールを飲んでいる中でもノンアルコールビールで雰囲気だけでも共有したいといったような欲求があるのかもしれません。


トマ・ピケティ氏による経済学セミナー

パーソンズ美術大学主催で『21世紀の資本』で有名な経済学者のトマ・ピケティ氏によるセミナーがオンラインであったので、参加してみました。テーマは彼の新著『A Brief History of Equality』からで、経済格差の歴史をデータで紐解くというものでした。

1910年代から1980年代に経済格差が縮まり、それ以降は再び格差が少しずつ拡大しているというデータがあるようです。この時期はソ連などの社会主義国が存在していた時期と重なっており、平等を掲げる経済システムの存在が資本主義側の国にも影響を与えていたのかもしれないとのことでした。資本主義があまりにも不平等すぎると、社会主義への憧れが強まってしまうことを懸念していたのかもしれません。

では、1990年代以降に悪化している経済格差に対してできることは何でしょうか? 累進課税や相続税の強化、教育の無償化などが考えられることを述べた上で、経済システムや政策を劇的に変えるというよりは一人ひとりができることを少しずつしていくことしかないだろうとのことでした。彼の立場で言えば、経済格差について研究し、得られた知見を本にまとめたり講演したりすることに専念する。それがいずれ経済格差の解消に貢献することになるということでしょう。participation(参加)という言葉を何度も言っていたのも印象的でした。

やはり資本主義がからむ問題は一筋縄ではいかないようです。今の時代にフランス革命や社会主義国の誕生といった劇的な変化が起きて、資本主義自体が大きく変わる可能性は低いでしょう。そんな中で、何ができるのかを考えていくのが現代に生きる人の宿命です。


まとめ

異なる環世界同士を繋げる架け橋としてのエスノグラフィーということを考え続ける一週間でした。一人ひとりがそれぞれの視点で生きていることを前提に、自分の世界の見え方や心の声を表明し続けるしかないのかもと思うなど。この記事も留学生活にまつわる私小説・エスノグラフィー・ノンフィクションみたいなものです。

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