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インタビューをしたあなたは私の事をどう感じたかって聞いた人

むかしむかし、ある村に、鏡(かがみ)という名の若い女性がいました。鏡は村で一番の物知りで、多くの人々が彼女に話を聞いてもらいに来ていました。
ある日、都から来た旅の語り部が村を訪れ、鏡にインタビューをすることになりました。語り部は鏡の知恵と経験について熱心に質問し、鏡も丁寧に答えていきました。
インタビューが終わると、鏡は語り部に尋ねました。「あなたは私のことをどう感じましたか?」
語り部は少し驚いた様子で言いました。「なぜそのようなことを聞くのですか?」
鏡は微笑んで答えました。「私は多くの人の話を聞いてきました。でも、自分がどう見られているのかを知る機会はあまりないのです」
語り部はしばらく考え込み、そして答えました。「鏡さん、あなたは本当に不思議な方です。多くを知っているのに、まだ学ぼうとする姿勢がある。人の話をよく聞くのに、自分のことも知りたがる。まるで、知恵の泉のようですね」
鏡はその言葉を聞いて、心が温かくなりました。「ありがとうございます。あなたの言葉で、私自身のことがよりよく分かった気がします」
それから、鏡は自分自身についてもっと深く考えるようになりました。そして、村人たちにも「あなたは私のことをどう思いますか?」と時々尋ねるようになりました。
こうして、鏡はさらに賢くなり、村人たちとの絆も深まっていったそうです。そして「自分を知るには、他人の目を借りるのも良い方法だ」ということわざが、この村に伝わったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年8月25日9時27分に書く無名人インタビュー874回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは 洲崎邦郎 さんです!

年齢:60代後半
性別:男子
職業:農業


現在:何か趣味ありますかっつったら何の趣味も今なくて、四六時中農業のことばっかり考えてて、って感じですね。

qbc:
今何をしている人でしょうか?

洲崎邦郎:
私は農家で、石川県の農家をネットワークして、消費者に繋げる活動をしてます。それで野々市に、石川県の農家さんの野菜だけを販売する八百屋をやってます。

qbc:
繋げるっていうのは具体的にどういう?

洲崎邦郎:
具体的にはですね、例えばマルシェを開催して、農家さんが直接売りに来る場を設けたり、八百屋に野菜を仕入れて、この農家さんがこんな野菜を作ってるんで、いかがですかっていう感じのことと。あとは農家さんを訪ねたり、農家さんの作ってる野菜で、うちで料理教室をしたり。今なら、オンラインで農家さんのお話会みたいなことをやっております。

qbc:
野々市って言うのは何ですか?

洲崎邦郎:
野々市って言うのは石川県の市の名前です。

qbc:
そのお仕事はいつ頃からされてるんですか?

洲崎邦郎:
私が農業に入ったのは2010年の秋。それまではホテルマンで営業してました。
それでちょっともう辞めて、農業をしたいなと思って。石川県の能登半島に能登島っていう小さな島があるんですけど、橋がかかってるんで離島ではありません。そこにご縁をいただいて、そこで野菜の栽培、お米の栽培、それからしたかったオリーブの栽培をしてます。そこがスタート地点です。

qbc:
なるほど。今は畑仕事自体はしてないんですか?

洲崎邦郎:
今ですね、能登島にオリーブの畑だけ持ってます。田んぼは去年の稲刈りで、一度私の体調不良とかがあって終了しました。それで今は、野々市のこの八百屋のすぐ近くに畑を借りてるんで、若い農家と一緒に農作業してます。

qbc:
なるほど。今、農作業とそれ以外の作業の割合はどんな感じですか?

洲崎邦郎:
農作業は10%ぐらいですね、全体の。

qbc:
ちなみにそれ以外のことってなんかやられてます?

洲崎邦郎:
それ以外はですね、この八百屋を開いて6年になるんですけど、今から2年ぐらい前に、ウクライナが、ロシアに攻め込まれたじゃないですか。それで戦争になって小麦が動かなくなって、日本人がワーワー騒いだ時期があったのを覚えてらっしゃいますか?
それで、その頃に小麦が高騰していろんなものが値上げして、私は米農家なので、日本人ってお米食べる民族なのに小麦が動かなくなったらワーワー言ってこれはどういうことかなーとかって思いながら、いろいろと考えたんですけど。その年の田植えし始めた頃に、なんかおかしいな、面白くないなと思って、食料自給率が低いからこんなことになるんじゃないかっていうふうに思うようになって。
米を作ってるし、石川県の農家さんをネットワークして野菜を取り扱ってるんで、もっともっと石川県内で野菜をたくさん作って消費する仕組みを作ればいいかなと思いまして、能登半島に、地球が喜ぶ農業の一大生産拠点を作ろうというプロジェクトを作りました。

それで、それがもう2年前か、2023年の年明けて、仲間をいろいろと募って、6月ぐらいにクラウドファンディングをして。『Farmer's Village NOTO』っていう名前でスタートしましたので、クラウドファンディングで村民を集めようということになりまして。クラウドファンディングで300万円集まって、村民が100名ぐらい集まりました。その村民と一緒に、去年の10月、能登半島の一番端に珠洲市というところがあるんですけれども、そこで農地を借りて、拠点となる納谷も借りてスタートして、野菜を少しずつ作り始めて。
でも年が明けて1月1日に、能登半島大地震が起きて、私のプロジェクトは頓挫しました。で、今何してるかって言ったら、頓挫したんですけども、能登半島にオーガニックの野菜の一大生産拠点を作りたいという思いは変わらないので、どうやったらできるかなっていうのを東京の仲間なんかといろいろと考えながら。つい先ごろ、こんなふうに動き始めたらいいんじゃないかっていう何か一つの道筋ができたもんですから、それをやろうと思って、そちら様に、声をかけたんです。自分のことを知ってもらおうと思って。

qbc:
はいはい。

洲崎邦郎:
それで今は、能登の珠洲市に移住してもらった若い男の子を野々市に戻して、彼が野菜作りをしながら、オーガニックの野菜作りはずっと続けながら、能登半島で繰り広げるための準備を今してます。
準備の一つは、村民というのが100名いらっしゃるんで、その村民との更なる交流プラス新たな村民を今9月10月ぐらいから集めたいなと思ってます。
その村民の人たちと何をするかって言ったら、『Farmer's Village NOTO』っていうのをどうやって作って、もっとどうやって広げていったらいいかっていうこととか、野々市に畑がありますので、そこで農業体験や収穫の農作業をしてもらえばいいなと思ってるのと。

あとは、農業にまつわるいろんなことをオンラインで勉強会みたいなことができればいいなと思ってますし。
そしてうちの八百屋にはシェフがいます、女性ですけど。彼女が野菜料理を上手に作るので、そういう料理教室みたいなものもオンラインで開催できればいいなって思って、今その準備をしているのと。

あと同じ石川県内で、作った野菜の出口作りをしようと思って、オーガニック給食を。石川県ってまだオーガニック給食ってどこもやってないしその兆しもなかなか見えないんですけれども、私の仲間と一緒に能美市という市があるんですけれども、そこで学校給食をオーガニックに。それで能美市が有機栽培の市になればいいなっていうので、今それのプロジェクトを立ち上げる今準備をしてます。
今そんな状況で、八百屋を中心に活動してます。

あと今年の春に、能登半島の農業が、なんて言うか駄目になったら嫌なので、私が能登島でオリーブの栽培をしてますので、オリーブで少しでも復興できるようにということでまたクラウドファンディングをして。オリーブのオーナーが100名ほど集まったので、オリーブのオーナーの皆さんと能登島でオリーブを植えたり、オリーブを能登半島に増やすようなプロジェクトも始めました。そんな感じです。

qbc:
その新しいプロジェクトと並行して、農作業と、野菜の商社的な動きをしてるっていうことですかね。

洲崎邦郎:
そうですね。でも若い農家がいるので、彼に生産はほぼほぼ任せてるんで、私はさっき言った10%、1割ぐらいを農作業に充ててるんですけど。それ以外の9割は八百屋でお客様に接客したり、野菜の配達っていうのを結構やってるんで、子育て世代のママさんたちに野菜の配達をしたり、今喋ったようなプロジェクトを動かすための動きをしてます。

qbc:
なるほど、じゃあ八百屋が中心になってて、農作業もついてて、プラスアルファで一回頓挫したプロジェクトをまた継続しようというような感じですか?

洲崎邦郎:
そんな感じです。

qbc:
ありがとうございます。じゃあそれ以外のことって何かやられてます?趣味とか何か。日常の食事とか入浴以外。

洲崎邦郎:
農業に入りましてね、15年になるんですけど。農業一辺倒なので、農業以外のことにあまり関心を持ってないんですよ。

qbc:
はいはいはい。

洲崎邦郎:
でも農業入る前はドラゴンクエスト、ドラクエが大好きで、ドラクエのゲームばっかりしてましたけど。農業入ってからはそれどころじゃなくなったので、何もしてないし。
もう65になりましたので、だんだんだんだん集中力も、だんだん少なくなってるし。農業以外の事で何かをしようっていうのはないので、うち帰って飯食って風呂入って寝るぐらいの毎日です。

qbc:
ありがとうございます。今、どんな気持ちで日々過ごされてるんですか?どういうふうな気持ちで取り組まれてます?

洲崎邦郎:
あー、まぁ地震があったので、そこに住んでる人たちの暮らしを取り戻すのが一番だっていうふうに思ってるんですね。2日前に、さっき言った珠洲市の自分たちの農地がある近くの仮設住宅にお世話になってるんで、そこの人たちに炊き出しに行ったときも、なんかもうつくづく思ったんですけど、やっぱりこの人たちの日常生活が戻らない限り、私が能登半島でオーガニックの野菜の一大生産拠点を作るって言ったって、なかなか地域の人たちにはなじまないだろうなって、思ってるんですね。
でも、そのことをなるべく早く手をつけてそういう動きにしないと、相手は農作物なんで、工業製品ならば期限を切って作れますけど、農作物っていうのは植える時期もみんな決まってるし取れる時期もみんな決まってるんで、なるべく早く取りかかりながら、若者が何か気持ちが動くようなことになればいいなと思って。毎日その事に気を集中してるっていうか、どうしたらいいかなっていうのを考えてるのが、自分ですね。

qbc:
なんかもうシンプルに、喜怒哀楽で言うとどんな気持ちで日々過ごされてるんですか?

洲崎邦郎:
日々喜ですね、喜。喜んでます。

qbc:
なんか具体的にこういうことがあって喜んでるとかありますか?

洲崎邦郎:
あ~、昨日そのプロジェクトを推進するために、東京の仲間といろいろとやって、一つ道筋ができたって話をしましたよね。
それは、応援団を作ろうというのが一つあるんですね。単に「応援してるよ」っていう人とか、「いや僕も行って私も行って、ちょっと作業手伝いながら深く関わりたいよ」っていう人とか、いろんな応援の仕方があるんですけれども。それは東京方面のチームが、関東でそんなちょっと応援してくれる人たちをたくさん集めてくれれば嬉しいなって。それはやっぱり、野菜の販売の出口にもなりますんで。

それで私は何をするかって言ったら、地元で若い人たちや私の私達のプロジェクトにいいねって共鳴してくれる人を探そうっていうことで、改めて今動き始めてるんですけれども。それで、昨日その1人に会いました。これは嬉しかったねぇ。
ちょっと歳までは聞かなかったんですけど、30超えたぐらいの人で、男の人なんですけど。能登町っていう能登半島のちょっと真ん中辺りから上なんですけど。ご自身も被災してて大変なことになってるんですけれど、能登半島を農業で振興しようという話は大賛成なので、僕もできる限りお付き合いしたいって言ってくれて。わずか1時間ぐらいちょっとこんな感じで、あの自分の思いを喋りながら話をしたんですけれども。彼が一緒にやろうって言ってくれたんで、これは結構嬉しかったですね。

qbc:
なるほど。もうそれは応援団側というか、もう送り手側の方に?

洲崎邦郎:
あぁ、私と同じ側に立つ人っていうイメージです。だからなんていうの、仕組みを作ったり、私と一緒にさらに応援団を探すみたいな。

qbc:
なるほど。そもそもホテルマンから農業に携わったっていうのはなぜだったんすか?

洲崎邦郎:
そもそも農業に関わったっていうのは、15年前の社会状況と言ったら大げさですけども、食料自給率について政府がわーわー言ってた時期なんですよ。調べてもらえればわかりますけど、その頃は42%の食料自給率だったんですね。これではやっぱり低いので、食料自給率を高めなければいけないとか、中国で餃子の偽装の事件があったり、国内で備蓄しているお米が傷んでしまって大変なことんなったりっていうような、そんな時期なんですよ。2010年とか2009年って。
そんな時期に、私はホテルで営業の責任者してましたので、仕事っていうのは、先様に行って、宿泊をしてほしいとか、宴会をしてほしいとか、ホテルを利用して欲しいっていう営業しておったんですけれども。宿泊プランにしても宴会プランにしても、料理が必ずついて回るので、料理長と毎回春の歓送迎プランはどんなにしようかとか、今から秋になるので、秋の味覚プランとか。まぁ金沢は食が豊富ですから、結構いろいろとバリエーションがあるんですけれども、何にしようかとかっていつも話をしてて、メニューを考えて料理の写真を撮ってチラシを作って、私が走り回るっていう感じだったんですね。

でもある時、ちょっとその食料自給率の話とか、農家のこととか農業のことが少し頭に残って引っ掛かり始めてて。農家さんってどうしてるんかな、いつも何を考えてやってるんかなとかってちょっと思うようになったんですよ。
それで、思っててもわからないし、なんか今こんな世の中でものすごく便利だから、電話1本、メール1本で全てのものが届く時代じゃないですか。だからホテルなんかでも、メニューに合わせていろんな食材が届くんですけれども、地元の農家さんって、いつも同じものを言われてもきっとないよね、取れる時期が限られるからって。ちょっとそんなことを意識したりしたときに、農家さんやっぱり大変なんだよねって思ったんですよ。
それでそんなことが高じて、ちょっと農業の世界をインターネットなんかで垣間見ながら、当時私が仲良くしてた東京の友達なんかが、オリーブって女の人が喜ぶよとか、なんかそんな話がいろいろとあって。
そんな気持ちが高じて、日頃、観光業である私は、農業とか農家さんの方に顔を向けて、見えるかな見えないかなみたいな感じなんですけど、自分が農業に入って農業の側から観光業を見ると何か違うものが見えるんじゃないかって思うようになって。それで2010年の年明けにすぱっと辞めたんですよ。農業しようと思って。それがきっかけです。

qbc:
おいくつの頃?

洲崎邦郎:
えっと、50。まだ50でした。私は3月生まれなんで、2010年の1月は50でした。すぐに51なりましたけど。そっから15年です、今65なんで。
それで、いろいろと能登島で農業しようっていう時に手を差し伸べてくれた人がいて。そこで田んぼも畑も手に入って、スタッフも手に入って、なんかいい感じでスタートして、農業をすることができたんですね。それで親方もいろいろと教えてくれて。
で、そこで一つエピソードがあって。最初は受け入れてくれないんですね。田舎やから、お前何しに来たみたいな話で。毎日毎日行って汗をかいてると、お前今日も来とんるかぐらいのノリなんですけど。だんだんそれが1年2年経って、うちの農地貸してくれてる親方ではないもう1人の親方みたいな人がいるんですけど、その人が体が不自由になったので、その人の田んぼを守ろうということで、米作りも始めたんですけど。その人が増田って言うんですけど、いつの日からか、「洲崎が来てくれて良かったよ。お米も農協じゃなくて自前でも売れるようになったし。お前は本当にありがたい。この田んぼの後継者になってくれて本当にありがとう。」って言ってくれるようになったんですよね。

私は最初はすごくなんか、耳障りもいいし、喜んでもらえた、やっと受け入れてもらったの嬉しいなと思って聞いてたんですけど。いつも顔見ると、年寄りなんで同じことを言って、「お前が来てくれてよかった、お前が来てくれて良かった」って。でも、なんかちょっと待てよって思ったんですね。
その田舎はどこでもそうなんですけど、農業は儲からないので、自分の息子は全部外に出すんですよ、農業させずに。で、その増田さんも、わたし大変世話になりまして、もう死んで6年も7年も経ってますけど。彼の息子ってやっぱり外に農業させずに出してるんですよ。それで私の親方の息子も、農業させずに外に出してるんですよ。島の人たちみんなそうなんです。だから私の先輩農家って、今は70。当時は、私50だったから60超えた人ばっかり。
若い人いなかったんです。今もいませんけど。
で、だんだんそんな話してたら、なんか腹立ってきて。「おまえ、っていうか増田さん、あんた自分の息子を農業につかせんと、私が外から来てなんか後継者やって言って喜んでくれるのは嬉しいけど、本当は違うやろ」って。地元の土地は地元の人たちが守るというのが本来は筋じゃないかみたいな話になって、喧嘩になったときがあったんですよ。
なんか後から考えて、せっかく受け入れてもらったのに、そこを喧嘩してもせんないし、自分の居場所でもあるから、そんな何か子供じみたこと言わずに、その増田さんの息子の息子、だから孫が未来に向けて農業ができる環境を作ればいいんじゃないかっていうのが、私のその今能登半島に地球が喜ぶ農業の一大生産拠点を作ろうっていう、なんか原点みたいな部分なんですよね。

qbc:
はい。

洲崎邦郎:
ちょっとわかっていただけてるかどうかわからないんですけど。そんなことを思いながら、能登島でずっと農業を勉強させてもらって一緒にやって。で、オリーブの栽培をしながらイタリアの野菜を作って。
ホテル出身なので、シェフっていうのは結構割と近い存在だったので、街場にいるシェフの人たちに紹介してもらいながら、イタリアの変わった野菜を売って。
イタリアの変わった野菜を売ってた理由は二つです。一つはオリーブをやっていたので、西洋野菜をやってたら、見てくれがいいかなっていうのが一つと。もう一つは、同じレタスでも、ロメインレタスっていうイタリアのレタスを作った方が、作り方一緒でも高く売れるので、要は出口としてうまくやっていけるんじゃないかなとも思ってそうしました。ただ、主婦に受け入れてもらうにはすごく時間がかかりましたけど。そんな感じでずっとやってきました。

qbc:
洲崎さんはもともと石川出身だったんですか?

洲崎邦郎:
私は金沢で生まれてから金沢で育って。大学で出て京都にいましたけど、その後もずっと金沢にいます。だから能登島に出向くようになって、初めて何か外に出たって感じではありました。

qbc:
あー、なるほど。51歳で転職、というか移住もして住むところも変えるっていう、この思い切りっていうのは、ちょっと今の説明だと、なんか納得感があまりなかったんですけど、何か他にはなんかないんですか?なぜ踏み切ったのかとか。

洲崎邦郎:
納得感がない?

qbc:
食料自給率どうなの?みたいな、自分の好奇心だとは思うんですけど。

洲崎邦郎:
あー、これはもう本当に、あなたが言うように自分の好奇心以外の何物でもないんですよね。私はなんかやってみたいなって思いついたら、結構なりふり構わずやる人間なので。
そのホテルの時代のときも、農業の事に関心を持って、言ったら話は綺麗なんですけど、観光業から農業を見るんじゃなくて農業から観光業を見たら何か違うものが見えるんじゃないかっていうのは、話としては綺麗かもしらんけど、好奇心がすごく強かったので、農業やってみたいっていう思いが強かったですね。だから、農業やろうと思ってホテル辞めて、どうしようかと思ったら、石川県が農業を教えてくれる塾をやってるんで。耕稼塾って言います、耕して稼ぐで、耕稼塾。
そこで野菜作りのイロハを半年ほど教えてもらって。週に1回なんですけれども、飯も食わないかんから傍らの勉強だったんですけど。で、それを経て能登島で本格的に農業に入ったんですけど、好奇心以外の何者でもないですね。そのときの自分の気持ちは、今と…いや、今はいろんなことを考えてやってるんで、好奇心っていうよりも、何かむしろ使命感みたいなのが強くて。子供たちの食を守るんだみたいな話で今突き進んでるんで。先ほどあなたが言ったように、何か趣味ありますかっつったら何の趣味も今なくて、四六時中農業のことばっかり考えてて、って感じですね。

qbc:
なるほど。

洲崎邦郎:
だから、なんかそういう強い衝動に駆られて動き始めたっていうのが真実だと思います。

qbc:
性格は周りの人から何て言われます?

洲崎邦郎:
周りの人はほぉって感じだったんですけど、女房はえらく反対しました。

qbc:
あ、ごめんなさい、性格です。この今のプロジェクトや八百屋さんの話とは関係なく、ご自身の性格は周りからなんて言われます?

洲崎邦郎:
私の性格…私は0を1にすることが好きの人間みたいで、何もないところから何かを生み出そうっていうことに躍起になるんですよ。なりふり構わず。なので、意外と諦めずにねちっこく攻めていくタイプかなと思います。

qbc:
自分自身では性格についてどういうふうに思います?

洲崎邦郎:
私は、気が短くて怒りっぽい人なんですけど、農業と向き合うと、野菜に文句垂れても仕方ないし、天気は自分の力で変えれるわけでもないから。もうあるがままなので。それをやっぱり体感したので、気は短いけど、抗っても仕方がないっていうことを知ったかなと思います。

qbc:
その気が短さとそのねじこさっていうのは、ぱっと見は相反するんですけど…。

洲崎邦郎:
だから、よく人には「あー!もうそんなん、じゃあもうやめようよ!」って言うんですけど、あと次の瞬間に、でももうちょっと何か違う方法があるんじゃないかとか、あいつにもういっぺん頼んだらいけるんじゃないかとかってなんか思うんですよね。なので、さらに進んでみて、「あ~、お前やめるって言うとったんじゃないんか」とかって言われながら、「いや~、違う方が見つかったから何とか進めるんじゃないの」みたいな。そういう意味で、気は短いんですけど、割とねちっこく攻めていくっていう感じなんかなと思う。

qbc:
それは昔っからですか?農業をやられてからですか?

洲崎邦郎:
うーんと、農業やる前の自分って、だんだん忘れかかってるんですよ、正直な話。なんでかって言ったら、今はそのことで頭いっぱいなんで。ただ、私は30代の頃に異業種交流会に誘われてやり始めて、5年も6年も異業種交流会のリーダーを務めてて、ずーっとみんなといろんなことしてたんですよ。
具体的には、『金沢を変えよう、知的生活者が集う第3空間』みたいな感じで、ずっとやってたんですよ。5年も6年も。その頃の気質が、農業に入ってもずっとあるみたいで。要は、自分が思うこと、例えば、この人の話をみんなに聞かせたいと思ったら、何らかの方法でその人のところに会いに行って、「こんなこと今やってるんで、ぜひみんなに話を聞いてかせてほしいから、講話してくださいよ」って口説きに行くんですよ。それで実際にみんなの前で話してもらってみんなとご飯食べてっていう。
そういう異業種交流会を、結構真面目なやつを5年間6年間やってたんで、そこの気質がずっとあるかなと思いますね。そんなに交渉力はないけど、いわゆるそのガッツはあったみたいで。

qbc:
身近な人から言われる性格の一面ってあります?家族、パートナー、親友、距離の近い人から言われる一面。

洲崎邦郎:
「毎回毎回、いろんなこと考えてよくやるね」って言われますけど。

qbc:
ありがとうございます。好きな食べ物を教えてください。

洲崎邦郎:
好きな食べ物は、やっぱり肉ですね。

qbc:
あ、お肉?(笑)

洲崎邦郎:
うん。野菜作り一生懸命にやってるし、野菜の美味しさも十分承知してるんですけど。やっぱり肉食べたい、肉好きやなって。何食べたいんですか?って言われたら、焼肉って平気で言ってますんで。

qbc:
お肉に合う野菜とか、何かそういうのって考えたりします?

洲崎邦郎:
ああ、しますね。基本的にはやっぱりオリーブは、オリーブオイルは生野菜、サラダに合うし。それから私はよくその時期の野菜、例えばカブだとかキャベツだとか、何でもいいんですけど、店にある野菜を選んでトントンして、フライパンにオリーブオイルをひいて、炒めて塩を振って、傍らでパスタをゆがいてパスタと合わせて食べるのが好きでね。それはもう、何も味付けは…、味付けはオリーブと塩ぐらいですから。でも野菜の甘みが引き立ってて。これはやっぱりお野菜ってのはこうやって食べると…上にパスタを入れなくていいんですけど。パスタは入れるのはお腹膨らませるための話やけど。これだけでもう野菜って十分美味しいんじゃないかとか、オリーブオイルの役目って生野菜にも使えるけど、やっぱこういう炒めるときもいいなって。そんなふうに思ってます。

qbc:
ありがとうございます。

過去:そうやって転校して田舎に行って何か自分を見失ったっていうところがあるので、すごく自分を表現するのが下手だったんですよ。今はびっくりするほどの話かもしらんけど。

qbc:
じゃあちょっと過去ですね。子供の頃、もう幼稚園の頃とかってどんな子供だったか覚えてらっしゃいますか?

洲崎邦郎:
覚えてないです。

qbc:
どんな遊びが好きだったかとか覚えてます?

洲崎邦郎:
私は、弟が三つ離れてるんですけど。弟が生まれた頃、だから私が3歳の頃だと思うんですけど、両親が離婚して母親にずっと育てられて。小学校6年の、卒業してあと何日かで中学校入学だよっていうときに、母親が新しいお父さんのところに行くんで引っ越すって言い出したんですよ。
それで金沢市内に住んでたんですけど、少し離れた郊外、田舎、私に言わせたら当時の自分の子供心に、何にもない田舎に行くことになって、それがすごくショックで。その気持ちはずっと後々中学校高校って引きずってたんじゃないかなと思います。なんだからなんていうの、暗い性格っていうかな。わからんけど。
だからその小学校6年までは、地元の金沢の同じ同級生や何かと、ワイワイ普通の子供のように、キャッキャキャッキャと遊んでたんじゃないかなと思ってるんですけど。それが一つ転機で、田舎に行くことんなって、中学校3年間なんか嫌やなとか思いながらおって。
で、高校が金沢で決まったので。私は星稜高校っていうところ出てるんですけど。公立高校の入試に失敗して、私立の星稜高校に行って、金沢に通うの大変やから、私はばあちゃん大好きだったから、逃げるようにばあちゃんのもとに下宿と称して金沢に戻ってきて。そっからやっぱり、金沢の暮らしが幸せだったので、またなんかいろいろと、あ~…自分を取り戻すっつったら変やけど…。
それで大学は京都の大学行ってたんで。そんな感じかな。
あんまり人に聞かれないし、なんかこうやって、どうなんですか?ってあんまりそんな幼少の頃とか、青春の頃とかってあんまり聞かないんで、あんまりうまく言えない。

qbc:
いやいや、全然。むしろそこが醍醐味のインタビューなので。

洲崎邦郎:
私が今何してるかより?

qbc:
何をしているかっていうのもちろん先ほどお伺いしてたんですけども、じゃあなんでその人それをやってるの?っていうのは、メインじゃないのでよく後回しにされるというか。普通あんまり見ないんですけども、私はそっちの方が重要だと思うんですよね。

洲崎邦郎:
うん。

qbc:
なぜその人が作られたというか、そっちに向かったのかっていうことの方が。

洲崎邦郎:
なんとなく今の話で人間像っていうか、そういうのは何か見えてきたんですか?

qbc:
いや、まだ見えてないです。

洲崎邦郎:
(笑)

qbc:
なんで田舎が嫌で、金沢が良かったかっていうのは聞きたいですね。

洲崎邦郎:
あ~…一番は、友達が周りにいるっていうのが一番。まぁそれは子供の頃の話なんで、それは一番で。それから、知ってる場所、知ってる人、自分のお家みたいな感じやから、やっぱりそういうのからどこか違うところに離れて、それが特になんかバスもろくに通ってない、中学校は自転車で行かないかんって、雨の日はカッパ着てみたいな感じのイメージって、ちょっと子供心には、なんかこう疎外感というか閉塞感というか。
まぁ今大人の自分がそのときのことを思い出して言ってるんであれなんやけど、なんかそんなのに結構あったんで、友達ができんかったわけでもないし、いじめられたわけでもないし、いじめたわけでもないし、普通にまた友達ができて遊んだりなんだりしたんですけど、やっぱりそこはずっとネックだったような気がするな。なんで僕はそこに行かなきゃいけなかったんだろうみたいな。

qbc:
うんうん。

洲崎邦郎:
田舎が嫌やったっていうのは、後から付けた話ですよね。

qbc:
今その、場所としてただ田舎って言っただけですね?

洲崎邦郎:
そうですそうです。だから金沢よりも、もうちょっと不便な場所っていう言い方やね。
qbc:
うんうん。

洲崎邦郎:
今私が言ってた場所って、割とその街自体が金沢の衛星都市になって結構開けてるし、田舎ってイメージはあまりない。

qbc:
大学を卒業した後は、どのような進路に?

洲崎邦郎:
大学を卒業して、京都で何か就職しようって実は思ってて。私なんか大学3年生の頃に、よくある話ですけど、1冊の本との出会いがあって。なんか旅行代理店のツアーコンダクターがいいなって思ったんですよね。私は京都外国語大学っていうところにいたので、多少英語の心得はあって、それでツアーコンダクターになれればなんか楽しいかなって、当時の青年の須崎は思って。
近畿日本ツーリスト、JTB、日本旅行、東京観光とか、なんかいくつか受けたんですけど、なんかことごとく落ちたんですよ。落ちた理由は、後から考えて、これかなと思うのが一つあって。私結構引っ込み思案なところがあるので、それはやっぱり小学校6年卒業して中学校へ行くときに、そうやって転校して田舎に行って何か自分を見失ったっていうところがあるので、すごく自分を表現するのが下手だったんですよ。今はびっくりするほどの話かもしらんけど。なので面接してもうまく喋れんかったんですよ、それって致命的ですよね。

qbc:
はい。

洲崎邦郎:
友達とは喋るんですけど。なのでそこがやっぱり引っかかってことごとく落ちて、なんかしょうもない、しょうもない言うたら怒られるんやけど、なんか事務機を販売してる会社に引っかかって、そこに行くことに決めてたんですね。
そしたら、母親から電話があって、あんたそこ行かんと金沢帰ってきまっし、って。就職先もないわけでもないしとかって言ったので、なんかちょっと救われた感があったんですよ、そのときに。あー、そこにそんなに行きたくもないけど、なんか京都にいたいしっていう自分がいるんやけど、でも母親がなんか帰ってくればって言ってくれたのが、なんかこう天の声みたいに、よしじゃあってすぐに内定取り消してもらって、卒業してすぐに金沢に戻って。で、母親が言う、ここに行けば?っていうのが、地元のホテルだったんですよ。それでそっからずっとホテルマンしてた。

qbc:
じゃあ新卒からもうずっと?

洲崎邦郎:
うん、そうなんです。だから私はホテル、天職だって思ってた時代もずっとあったんですけど。まぁだんだんだんだん、いろいろと物が見えたりして。さっきの一番最初の話戻るんですけど、好奇心が旺盛なのは事実なので、その農業に関心を持ったが上に農業に転身しないといかんっていう思いで農業に入ったんで。ホテルマンは諦めましたけど。

qbc:
なるほどですね。

qbc:
なんか人生の転換点って、さーっとですけど振り返っていただいて、自分の人生の転換点ってどこにあると思うんですか?

洲崎邦郎:
まず一つは、その母親の電話で金沢に戻ることになったっていうのが一つ。
それから、新卒ですぐ入ったホテルから、駅前に日航ホテルができるんでっていう話が聞こえてきて、なんとしても一流ホテルっつったら変だけど、居並ぶホテルマンの先輩たちの中で自分を磨きたいと思ったんで、日航ホテルに就職したんですね。で、フロントの責任者、フロント支配人を務めさせてもらったっていう部分があって。そこに飛躍した自分の一つの転換があって。
あと、世話になった人に誘われて、日航を辞めておれんところに来いよって言われて、広告代理店に飛び込んだんですよ。理由は、広告代理店に行ったら、いろんな企業とか商店とか何でもいいんですけど、いろんな販売促進ができて、自分がなんか知見が広がるんじゃないかって勝手に思ったんですね。それで飛び込んだんですけど、大間違いで、すごい苦労して。体にじんましんできるぐらい大変で、3年半で、世話になった人に「すいません社長、辞めるわ」っつって、辞めてまたホテルに戻ったんですけど。その辺りにもちょっとした転換期があって。
で、一番大きな転換期はやっぱり51になる年に農業に入ったことかねぇ。今はもう現在もずっと農業に従事してて、もうこれで15年になるし。新卒でホテルに入って日航ホテルに勤めるまでは12年だったんで、そういう長さのキャリアは超えてるかな。これこそ、もう私は自分の生涯をかけてでも、あと5年なのか3年なのか10年なんか知らんけど、能登半島に一大生産拠点を作るって決めてるんで。
あとは、どこかでのたれ死ぬか、病気になって頭パーになるかわからんけど、何が何でもって思ってるんで。そんな感じです。

qbc:
ありがとうございます。

未来:なので、農業に入ってからの方が、自分にとって0→1っていうのがわかりやすく見えるかなと思って。

qbc:
最後の時間が、未来のことをお伺いしていて。その残り何年みたいな話ありましたけど、最後自分が死ぬよっていうところの未来までイメージして、今、どんな未来を思い描いてらっしゃいますか?

洲崎邦郎:
今思い描いている未来は、能登半島の畑で、野菜や何かがいろいろと採れて、私もその人たち農家に交じって、「おぉ、にんじんいい感じで取れたやん!」とかって言いながら、それを箱に詰めて、金沢に持って帰って、どこかの学校の学校給食に納品する。で、子供たちが食べる姿を見て、あ~良かったなっていうのが自分の最終形みたいなとこかねぇ。

qbc:
なんかその具体的なロードマップみたいのって、考えてらっしゃることありますかね?

洲崎邦郎:
具体的なロードマップについては、なかなかうまく考えつかないんで、さっき言った東京の仲間といろいろと話をして。その入口は、能登半島に野菜の栽培生産を始めて、そこに入植する人たち、手伝ってくれる人たちが集まって作るんだけど、出口って絶対いるから、出口が大事なので、その出口を子供たちの食を守るということで、学校給食に供給できればいいなって。まぁこれは大きな道筋ですけども。
でも、地震で能登半島が今こんな状態なので、オリーブを植えながら、オリーブってそんなに手がかからないんで、農作物と違うんで、農業の火を消さずには、出口を今探そうとしてるんですね。なのでさっき言った能美市でオーガニック給食が取っかかれそうなんで、そこで出口を作れば、入口に入りやすくなるなと思ってるんで。能登半島、農地はいくらでもあるんで、さっき昨日嬉しかったことがあったよって言った若者と一緒に、能登町の人なので、農業してくれる人が見つかれば、Farmer's Village NOTOを小さくまたスタートすればいいかなと思ってます。そんな感じのロードマップなんです。
だから、今こうやってインタビューしてもらってるあなたも、もしかしたら関心が湧いて、須崎さんあんた俺の友達でこんな人がいるから紹介してやるよって言えば、私は飛んでいくでしょう、きっと(笑)こんな人です。

qbc:
一応、行政と連携するみたいな?

洲崎邦郎:
行政と連携することについては、いろいろと考えてるんで。今の能美市のやつは、100%行政と連携します。簡単に言えば、市長がわかったって言えば進む話なんで、今はそれの根回ししてます。

qbc:
あ、じゃあもうそっちの方も動かれてるということなんですね?

洲崎邦郎:
もちろんもちろん。動いてるんで話をしてます。あんまり夢絵空は喋らないことにしてるんですよ。例えば私が億万長者になるみたいな話って無しやから(笑)
やっぱそうそう、ベンツに乗りたいよぐらいの話はあるかもしらんけど。そんななんか夢絵空ごとは話さないことにしてます。

qbc:
もしも未来の質問っていうのをしていて、もしもホテルでの営業責任者のままだったらどんな人生だったと思いますか?

洲崎邦郎:
まぁ後輩たちっていうか、部下たちっていうかに、「洲崎さんお疲れ様でした。」って花束もらって、なんか嬉しそうに、日頃正面玄関から出ることはないけど、そのときだけは自分が多分トップなんで、総支配人みたいな感じでみんなに見送られて。「みんなありがとう」ってなんか涙流して帰る。そんな感じかしら。

qbc:
0→1ってお話でいうと、そのホテルの中では0→1っていうのはできなかったですか?

洲崎邦郎:
日航ホテルに入ったときも、それから最初のホテルのときもそうですけど、なんていうかな、ホテルのファン作りって大事じゃないですか。ホテルじゃなくても何でもそうなんですけど。そのためにどんな仕掛けを作ったらいいかっていうのは、いつも考えてました。
例えば、最初のホテルのときはずっとフロントが長くて、後に企画の仕事をさせてもらったんですけど、郊外にあるホテルだったので、そこってお城の跡が隣にあったりする場所だったので、城下町何とか構想っていうのを書類作って。ちょっと小高いとこにあったんで、下に見えるの城下町みたいなもんなんで、市民の人たちがうちのホテルをサロンのように使ってもらえばいいなっていう、何かそんな構想を作ってワーワーやってました。
日航ホテルに行ったときは、カスタマーズファーストとかって言って、日航ホテルってそういうのやかましかったんで、その金沢の事をうまく伝えられるホテルマンじゃないといかんっていうので、その辺の事を後輩たちに一生懸命指導して。なんていうかな…まぁなんかそんなことをしてましたね。

qbc:
その0→1の、場所を変えたっていうのは?ホテルで満足できなかったっていうか、またさっきの好奇心の話ですけど、ホテルで0→1を続けるっていうことをせずに、農業っていうフィールドに移行したのは何でだったのか?

洲崎邦郎:
農業に移行したのは何でかっていうのは、先ほどから話してるように農業に関心を持ったら何か農業やってみたいなって好奇心が強くて、私は農業も知らなきゃ能登島っていう場所も知らなきゃ、農業の経営も知らずに飛び込んだんですけど。うまくいろいろと自分の周りに身について。私は人に恵まれた人らしくて、異業種交流会やってるときからもそうですけど、応援してくれる人もさることながら、自分と一緒にやってくれるような人もわりとうまく見つかっていくんですね。
なので、農業は自分にとって0→1なので、ある程度農業の中でいろんなことができるようになって、さらに八百屋みたいなものを自分にとっては0→1やし、能登のこの一大構想も0→1。なので、農業に入ってからの方が、自分にとって0→1っていうのがわかりやすく見えるかなと思って。

qbc:
なるほど。実際そういう意味で、ホテル時代と今って、何か大きく違うことだったりとか気持ちとして違うものっていうのありますかね?

洲崎邦郎:
圧倒的に違うのは、気持ちが自由になりました。

qbc:
自由?

洲崎邦郎:
ホテル時代はやっぱり、そうは言ってもサラリーマンなんで、数字に追われたり、何かいろいろとあったし、自分の意見が通らないこともたくさんあるじゃないですか。社長が右って言えばみたいな世界っていっぱいあるし。なので、やっぱりそういう大きなストレスで、私スーツのポケットには、頭痛薬と胃腸薬は必ず入ってたんですよ(笑)

qbc:
はい。マネージャーですからね。

洲崎邦郎:
農業のマウンドに飛び込んだら、さっき言った農業を知らない、能登島知らない、経営知らないっていう、なんか三重苦みたいなのにあえいでたんですけど、頭痛薬も胃腸薬もいらんかったんですよ。

qbc:
苦しかったけど?

洲崎邦郎:
あ~、苦しいっていうか大変だったっていうだけで、体は辛かったけど、精神的に苦しくなかったんですよ。だから薬に頼らなくてよかった。これって、自分ですごいことやなと思って。
今だって、頭痛薬飲むことは絶対ないです。胃腸薬飲むこともない。まぁ、今、経営者の顔を側面を持ってるんで、あの資金繰りでどうしようかとかって胃が痛くて胃潰瘍になって、お医者さんに薬もらったりすることあるかもしらんけど、なんか常備薬のように薬を飲むという習慣はないし。
さっきも言ったけど喜怒哀楽の喜なんで、いつも楽しいし。辛いけど楽しいんですよ。なんかわかってもらえんかも知らんけど。夜寝れんこともないし。違うんですよ。それが絶対的に違うな。

qbc:
ありがとうございます。なんていうか、そちらで農業やるっていう人に対してどういうふうなメッセージを伝えたいと思います?実際そちらに移住して農業をやりたいっていう興味がある人たちに対して、どんなアピールをされるんです?

洲崎邦郎:
えーっとですね、能登は山里、里海がすごく豊かで、そこに住んでる人たちもすごく素朴で。口は悪いかもしらんけど、気のいい人たちばっかり。そんな中で、自然の中に身を置いて農作業をすることで、元気になってほしいなっていうのがあるんですよ。
なので、別に農業ばっかりしないで、それこそ自分がしたいことはきっとあるはずなんで、いわゆる世の中で言う半農半Xしましょうよって。なんか農作業しながら、昼からは絵描いてるでもいいし、器作ってるでもいいし。それこそなんか店開いてるでもいいし。そういうのを私達と一緒にコミュニティを作ってやりませんかっていうふうにお誘いしようと思ってるんです。もっと言えば、1億総農民っていう概念で取り組みませんかっていう言い方をしてます。

qbc:
はいはい。

洲崎邦郎:
別に土触るから、野菜作るから農家じゃなくて、農民じゃなくて。関わること自体も、もう農業従事者だよっていうような言い方でやれないかなって。それが、Farmer's Village NOTOですっていう言い方なんですけど。

qbc:
なるほど。ちなみに年代としては、何歳ぐらいの人?

洲崎邦郎:
30代後半から40代ぐらいの人たちが一緒にやってくれれば嬉しいなと思います。子供がいると思うので。子供、奥さんももちろんいるから、なんかそんな人たちがなんか農作業してるっていいなと思ってるんですよね。

qbc:
なるほど。なんかいいなっていうのはどうしてですかね?

洲崎邦郎:
子供たちも自然の中でなんかいろんな事をつかみ取ればいいなと思ってて。なんて言ったらいいかな。最近いう不登校だとかフリースクールだとか、何かいろんな話あるじゃないですか。子供たちは農作業を一緒にすれば、心がほぐれるし、人間関係も良くなるんじゃないかなって思ってて。
だから学校での詰め込みの授業もさることながら、何か週に一遍そういう時間があって、私や農家と一緒にそれに関わることで、何か違う自分作りっていうか、大人との接する時間があればいいなってつくづく思ってんですよ。なので、今言う自分のターゲットは、そういうちっちゃな子供がいる30代後半から40代の人が、農業に関わることで、そういう人たちばっかりになればいいなって勝手に思ってて(笑)それがいいなっていう、いいなです。

qbc:
これは性格のお話のところで出てたんですけど、野菜に文句言ってもしょうがないとか、あと天気ってどうしようもないみたいな。農作業に関わるっていうのは、何がいいんですかね?

洲崎邦郎:
何がいい?

qbc:
農業に関わるのは、人にとってなんでいいのか。当然、その食べ物が作れるってのはあると思うんですけど、そのプロセスとか過程のことをおっしゃってたと思うんですよ。

洲崎邦郎:
土に手を突っ込むと、気持ちが和らぐって思ってんですよ。私達は、微生物から頑張って人間に進化しとるんやけど。海から這い出してきてるじゃないですか。だから人間は水辺が大好き。それから緑が大好き。
で、小脳の中に、そういう概念…概念じゃない、なんていうの、記憶っていうか、リレーションを持っているんです。これは事実なんですけど。なので、都会で、なんかさっきの私じゃないけど、いつも薬飲んで何かストレス溜めてる人が、田舎に来て土に手突っ込んだらほっとするっていうのは、絶対あると思ってるんで。そこが大きな醍醐味かなって、勝手に思ってるわ。

qbc:
ありがとうございます。最後の質問がですね。最後に残した言葉は?ということで、遺言でもいいですし、読者向けメッセージでも、振り返ってインタビューの独り言でもいいです。最後に言い残したことがあればお伺いしています。

洲崎邦郎:
あの、最初からずっと思ってて、聞きたいことが一つだけあるんですよ。
インタビューをしたあなたは、私の事をどう感じたかっていうことです。これは私にとってすごく大事なんで教えてください。

qbc:
跳躍の部分はまだ納得してないというかしっくりこないんですけれども。なぜ51歳のタイミングで大きい選択をできたのかっていうところで、そこで自身が本当に良かったなと思えるような環境を手に入れた。正直、半分以上人生終わってるわけですよね。そういう意味で、なんていうかな、若い人って先に成功しなきゃ駄目だっていうのを思ってるのがあるので、まずそういう人生のモデルとして、素晴らしいお話をお伺いしたなっていうところと。
あと私ももう46なんで、割といろんなキャリアがあって。広告関係もやってたし、インターネットの仕事ともしてたし、お風呂屋さんとかにもいたし。なんかそういう、なんかいろんなことやってた方が、結果人生って後半、何やってもいいよねみたいのもあるし、伸びるのかなみたいなことを思ってて。っていう感じですかね。
まぁそういう意味では、つかみきれてないなって。まだ須崎さんに関しては。

洲崎邦郎:
まぁ1時間ぐらいのインタビューでね、なかなか。なんか何かのことでお付き合いしてるわけでもないし、なかなかわかりづらいなと。

qbc:
ダイナミックなところは、やっぱりその51歳の転身ですね。

洲崎邦郎:
タイトル決まったんじゃないですか?(笑)

qbc:
タイトルは、これは洲崎さんの言葉からとるんですよ。私がつけるものではないですね。選びますけどね。

洲崎邦郎:
わかりました。今、私がお話してる人は、栗林さんって人なんですよね?

qbc:
qbcって名前変えてますが、栗林です。無名人インタビューの主宰をさせていただいてます。

洲崎邦郎:
主宰をしてるんですか。だからどんな団体かもわからないんですけど、自分の直感であなたと向き合うと何か自分にいいことがある人じゃないかなって勝手に思ったんですよ。本当に。

ネット好きじゃないけど、noteの中ぐるぐるといろいろ見とったら、見つかったんですよ、ちょうどあなたが。
で、さっきも言いましたけど、私も今、一つリスタートができるところに立ってるんで、いいもの見つけたなって思ったのが正直な感想なんです。

でも、それこそ私もあなたのことは悪いけど得体が知れないし、だって顔も見えないし。まぁ別にいいんですけど。
だから、どうなのかなって思うんですけど、自分の直感なんですよ。私、結構直感で動くんで。だから農業に入ったのも、好奇心もそうやし、直感もそうだし。なので、すいません、ちょっと長くなってごめんなさい。

qbc:
いえいえ。無名人インタビューって、今まで作ってきた肩書きとか、周りの環境とか、そういう諸々の社会的なもの含めて、全部「名」に託してるので。そういうのを全部とっぱらったその人自身って何だろう? みたいなところを探りたいと思ってやってるんですよ。

なので、人生全体も聞くし、もしもまだホテルマンだったらみたいなことも聞くし。
その0→1っていうところの、営業やられてたっていうところと何か作り上げる部分が好きなんだなっていうのは、みんなと仲間と一緒に作り上げるのが好きだっていうのわかったんですけど。
あとは、サラリーマン辞めたときの気持ちよさとか感じますかね。
それから、土の話ですよね。
まあ、ひとまず、ありがとうございます。

洲崎邦郎:
今日はありがとうございました。

あとがき

私のことをどう思ったか?
と聞かれて、私qbcは、今回のインタビューはかなり地方、農業について頭が行ってしまっていて、なんというか、その人に直接リーチできたかというと、なんだか年齢の壁に阻まれて届いてなかったか、のような感じがした。
けれども、実はリーチできない感触の人もいて、もしかしたらそういう人だったのかもしれないなとも、思ったりする。リーダーシップの強かったりする人の、目的外のところのいわば平日の顔というのは案外見えにくいものだし。
まあ、ともあれ、最後の「私のことをどう思ったか?」で印象ががらっと変わったのも確かで。リーダーが自分のことを聞くときや、人生の半ばを過ぎた人がこういうことを聞くときのことを思ったが。
いずれにしろこの人はこうです、ということの中核は、なかなか掴めていなかったな、と思ったりもした。あるいは、年を重ねるということは、掴み切れなくなることなのかも、とも思ったり。

【インタビュー・あとがき:qbc】

【編集:mii】

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