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自分自身が未来に対して希望を持って頑張っていかないと周りの人もそうなりえないと思う福島の地域活性団体の人

起業家が投資家に対して自分の事業を話して興味を持ってもらうことをピッチというと思ってたんだけど、ちょっと調べたら「何回も短く繰り返しする説明」っていうような語彙みたい。
エレベーターピッチって言って、エレベーターで会った偉い人にパパっとする説明や、何かの集まりで自分のことを話す自己紹介ピッチみたいなのね。
で、まあ。世の中複雑化しておりまして、ピッチは端的で情緒的に訴求するような内容が良いみたいなことが書いてありました。
無名人インタビューでは数名の社長、または何かしらの組織の代表の方々に出てもらっておりますが、すらすら話されるところもありますが、考えながら組み立てながら話すところがあって、独特のインタビューになるかなと思っております。
特に未来の部分で顕著にそれが出ますね。
プロジェクトというのは、投企と書いて、前へ投げるという意味なんですが、そういう投企的なこと、私好きなんですよね。企てを前に投げるって素敵なことじゃないですか?
投げて、それがどうなるかを見つめると。
そういう意味で、実は今回、無名人インタビューで初のオフラインインタビュー(まあようするに直接会ってインタビューすることですね!)でございました。くわしい感想はあとがきに譲るとして、私としては記念すべき初オフインタビューが20代前半の二人でささっと行われたことですね。まさに未来的、投企的じゃん! てね。
今日の無名人インタビューも、どうぞお楽しみくださいませ!(主催:qbc)

今回ご参加いただいたのは 吉田幸希 さんです!

現在:福島に対するイメージを変えていきたい

toki:今何をしていらっしゃる方ですか?

吉田:今はおおくまwalkersっていう、任意団体で代表をしています。大熊町ってすごく魅力的な町なんですけど、まだまだ知られていないので、まずこの町に来てもらう。来てもらって終わりにするんじゃなくて、これから先の関わりを作っていく。っていうところで、イベントの企画運営をしていこうと思ってます。
なので、その一発目として、「大熊若者サミット」っていうイベントをやりつつ、あとは学生が来るタイミングで大熊のアテンドもしています。

※大熊若者サミット2022

※大熊町は福島第一原子力発電所のある土地。震災後、原発事故の影響で2019年4月まで避難指示が解除されていなかった。2022年9月現在も、一部の地域は避難指示が解除されていない。

toki:「おおくまwalkers」という団体は、ご自身で立ち上げたのですか?

吉田:そうですね。今、学生は8人いるんですけど、今年のゴールデンウィークのときに最初は6人ぐらいが大熊に集まって、何か大熊また来たいよねみたいな話から、とりあえずみんなでゴールデンウィーク2泊3日ぐらいして大熊周りながら、これから何やるか一緒に考えていこうみたいな、本当軽い感じで始まったら、割と深いところまで色々語り合って。
その中で、自分たちはあくまでよそ者というか、よそ者だからこそ、多分これから先ずっと大熊のことを勉強し続ける姿勢が必要だなって。だから、勉強するときに、ただ文字を追うとかだけじゃなくて、自分の足で大熊回ったりとか、自分の足でその話を聞きに行くことが必要なんじゃないかなっていうところで、安直ですけど「おおくまwalkers」っていう名前になったのが最初の経緯ですね。

toki:おおくまwalkersで活動されて、いかがですか?

吉田:ゴールデンウィークに2泊3日で全員が一つの場所に集まって、夜通しで話し合ったっていう経験が結構大きくて。基本オンラインでみんな話したりとかするんですけど、それぞれが気遣わずというか、割と言いたいこと言えるような関係にはなってきて。
あと、別の団体と違うところで言うと、結構フットワークが軽い人が多くて、それこそ月1や週1で来たりしてる人もいるので。前の団体では、僕だけが現地にいるので、僕が基本動かないといけないみたいなのが、結構負担が大きかったんですけど、最近だと本当にみんな頻繁に大熊来たりとかするので、そこの負担が減って、本当にみんなで一緒にやっていくみたいな意識が強くあります。僕だけに舵を切らせちゃうとなかなか狭まっちゃうんですけど、みんなで一緒にやってることによって、やれることが増えたりとか、っていうのはすごく良かったなって思います。

toki:ちなみに、ご出身はどちらですか? 大熊町ではない?

吉田:出身は、福島県の郡山市です。郡山出身で、小学校2年生のときに東日本大震災を経験して、割と転々としてたんですけど、震災の後、郡山の高校卒業して、その時に進路が決まらなかったので、1年間ぐらいちょっと神奈川でフラフラしてるというか、一人暮らししながら、こういう活動も並行してやりつつで。でもやっぱ神奈川から関わるのって結構限界があるなと思ったので、Uターンという形で、福島の浪江町に移住しました。
基本フィールドはもうずっと大熊町、一貫して大熊町なんですけど、当時(=移住を決めた時期)の大熊町はまだ家も少なくて、なかなか借りれるところがなかったので、隣町の浪江町に自分と家族で移住したっていうか。

toki:どうしてご出身ではない大熊町をフィールドに活動することを決めたのでしょうか?

吉田:そのきっかけで言うと、去年の3月に高校卒業して、2月3月に、大熊町を会場としたアイデアソンコンテストが大熊町で開催されるっていうのを見まして。なんとなく自分で起業してみたいなっていう思いがうっすらあったのと、あとは、当時(=アイデアソンコンテスト参加前)まで、被災地を生で見るっていう経験がなかったので、そこを本当に見てみたいなっていう好奇心的なところが一つ。
そういった、コンテストに1回出てみるっていうのと被災地を生で見たいっていう思いが重なって、アイデアソンコンテストに参加して、それが初めての大熊でした。

toki:はい。

吉田:やっぱ1回行くと、知り合いも増えて、いろんな紹介受けるようになったので、そこから結構定期的に大熊に行くようになってきて。何回も何回も行く中で、知り合いも、応援してくれる人も増えてっていう中で、それで回数を重ねるごとに大熊に対して愛着が湧いてきました。
あとは、僕自身が震災の経験の中で結構つらい思いとかもしたので、そことかぶるところもあって。大熊だったら、何かこう、自分自身の、何て言うんすかね、過去の経験を払拭できる、かつすごく応援される環境でもあったので、自分が生き生きやっていける場所なんじゃないかなと思って。結果今ずっと大熊で関わってるっていう感じですね。

toki:大熊町の、どんな部分が自分とマッチしたんですかね?

吉田:過去の経験で言うと、出身の福島県郡山市って、新幹線とかも通ったりするので、東北の仙台の次に栄えてるぐらい、地方都市ではあるんです。なので、海から離れてるっていうのもあって津波もなかったですし、原発の被害もそんなにはなくて、かつ大きい都市だったので被害少ない分、よりすぐ復旧したというか。なので割と震災を近くで感じるっていうことが、浜通りに比べたらそんなになくて。
そんな中で、それでもやっぱり福島県全体として、震災に対する放射線の風評被害とか結構意識するところがやっぱ強くて、親も結構(放射線の影響を)気にしたので避難をしたんですけど、一番印象的なのは岡山に避難したときで。

toki:はい。

吉田:その時に、そこまで離れちゃうとなかなか福島のことを知らないというか、知らない中で結構悪口とかいろいろ言われたりとかして、なんでなんだろう、なんでそんな福島のことを、地元のことを悪く言うんだろうって。地元が好きだからっていうよりも、なんで地元がそんな悪く言われるのかが本当にわからなくて悔しかったですね。って中で、そこの福島に対するイメージを変えていきたいっていうのは、うっすらあって。
ってなったときに、その大熊町って、原発もあって震災のときに結構そういう経験をしてて、かつ、海の近くまで立ち入れないのって福島県だと大熊町が唯一なんですよ。双葉町とかも一応ギリギリ海の近くまでは立ち入れるし、あとは富岡町とか、ここの浪江町とかだと、漁港もあって。唯一大熊だけが海に立ち入れなくて、なかなかそれってすごく特殊な地域だし、福島ですごく誇りに持ってた海っていうものを失って、そこがある意味、イメージを下げてしまう一つの要因でもあるなと思って。
だからそういった福島のイメージを変えていくために、どこから攻めていけばいいのかっていうところを、感情とか抜きにして考えると、大熊が最も変えていくべき場所じゃないかなと思って。感情的なところで言うと、やっぱり何回も来ていく中で、大熊の人が優しくしてくれたりとか、大熊の人が自分のことを受け入れてくれたりとかみたいなところもあったので、それぞれが重なって、大熊でやっていく意味が自分にはあるんじゃないかなと思って。

toki:冒頭に、「自分たちはよそ者」というお話がありましたが、”よそ者”としてこの町で活動する中での、苦労や困りごとはなんですか?

吉田:最初は同じ福島県だから(地元が同じである)っていうスタンスで行ったんですけど、やっぱり郡山と大熊とでは、全然状況が違うというか。さっきも言った通り、(郡山は)津波も経験していないし、原発事故も経験していない中で、やっぱりそこはよく思われないんだろうなみたいな不安もあったりとか。別にそこに対して深く考えてない人もいるというか、全然よそ者に対してもウェルカムだし、「よそ者が来てくれないと大熊に戻ってくる人いないから」みたいなところで応援してくれる人もいるんですけど、そこに対してよく思わない人も一定数いて。
1回仲良くなっちゃえば、その後も継続的にいろいろ協力してくれたりとか、サポートしてくれたりするんですけど、その1回仲良くなるまでの壁が結構分厚いなっていうのは正直感じていて。そこをどうやってその壁壊すかみたいなのが、やっぱ悩みながらで。

toki:今まさに壁を壊している最中というところですかね。そんな状況で大熊町でしばらく活動してみて、なにか印象に残っている出来事はありますか?

吉田:それで言うと、今年の3月にマルシェイベントと写真展を開催したんですよ。

※パレットおおくま-アートと食を彩るフェス-

吉田:まだ(避難指示が)解除されてない大野駅の周辺でイベントやったのは自分たちが初めてで、しかも(開催場所である)KUMA・PREがオープンした直後とかだったので、KUMA・PRE初のこういったイベントで、かつ大熊のまだ人が入ってない地域でやったっていうところが、わりと自分的にはすごく大きかったなと思って。
なかなか大熊って、いろんなツアーとかでも寄らないことが多くて、基本浪江とか南相馬とかをルートに入れることが多いんです。なので大熊町や双葉町って、あんまり地元の人でも行かない人がやっぱ多かったりするんですね。
そういった中で、大熊でもこういうエンタメとか何か楽しめることってあるんだっていう、印象付けるきっかけになったなと思って。これだけではないんですけど、おそらくそういうことがいろいろ重なってる中で、大熊にもどんどん人が来るようになってって、その一発目のプロジェクトを自分たちがやれたっていうのはちょっと誇りに思っています。

過去:伝え方さえ間違えなければ、多分みんなわかってくれるんだろうなっていうのが、経験としてすごく大きくて。

toki:小さい頃は、どんなお子さんでしたか?

吉田:ちっちゃい頃は、結構うるさい感じでしたね、本当に。
それこそ小学校入る前とか、本当に落ち着きがなくて、特別支援学級とかあるじゃないですか。あっち行くか普通のクラスに行くかみたいな、めっちゃ迷ったりとかしたんですけど。周りが優しいおかげで普通のクラスに入れて、でも本当に落ち着きがない子だったので、毎日先生から電話かかってきたりとか、みたいな感じでしたね。
なんか本当に、クラスの中心ってわけじゃないけど、結構目立ってた方で。まあ割と多分、根が目立ちたがり屋なんだろうなっていうのは、多分そのときからあった感じです。

toki:それが小学生くらいの時。

吉田:そうですね。

toki:そのあとはいかがですか? 性格的な部分は変化したりしましたか?

吉田:中学校に上がったタイミングで、逆に一旦シャイになったんですよね。私立の中学校(避難先の学校)に入学して、友達とかがあんまりいなくて、話せる人もいなくて、そこで結構いじめとかも受けたりとかしたんですけど。
そのときに落ち着きがないところから、ちょっと抑え気味の性格になりました。
結果今、元々の性格の目立ちたがりっていうか、みんなの前に立っていろいろ発言していきたいっていうところと、若干そん中でも冷静に考えるというか、落ち着きがありながら、うまくみんなを巻き込んでいけるみたいな性格に今なってきたなと思って。これからもどんどん変わっていくと思うんですけど、今現時点だとそういう感じですね。

toki:目立ちたがりだったり、みんなの前に立って何かしたいというのは、ずっと根本にあるんですね。

吉田:そうですね。それこそ僕、もう今はやってないですけど、俳優活動とかもやってて、映画3作品ぐらい出たのかな。
一番最初に出たやつが主演とかで、自分の名刺もこれ、CMとか雑誌の宣材写真もうそのまま載っけたりとかして。昔からこういう俳優活動とか、あとは歌とかでもそういう活動してたので、多分目立ちたがり屋で、みんなの前に立って何かするとか、それで直接目の前の人に何か届けるみたいのがずっと好きだったんだろうなと思って。そこはずっと変わらないところなんだろうなと思ってます。

toki:いつからみんなの前に立つのが好きになったかとか、そうなったきっかけで、何か思い当たることってあったりしますか?

吉田:俳優をやりたいなって思ったきっかけで言うと、『マルモのおきて』ってあるじゃないですか。あれを見たのが一番印象に残ってて。それこそ福くんとか愛菜ちゃんと、そんなに歳が変わらないので、同じぐらいの歳の子がああやってテレビでキラキラして何かすごく生き生きとしてるのがかっこいいなと思って。
自分もああやってまずテレビの中に入るというか、そういった業界ですごく影響力のある人になりたいなっていう、それが多分一番大きいきっかけというか。それ(=『マルモのおきて』で同世代の活躍)を見たことがきっかけで本当に俳優とかやりたいなと思って、っていうのが一番大きいですね。

toki:少し話が戻ってしまうんですが、小学校2年生の時に、震災に遭われてから各地を転々とされたとおっしゃっていましたよね。その経緯といいますか、当時のことを教えていただいても良いでしょうか?

吉田:2ヶ所避難してるんですけど、場所で言うと群馬県と岡山県。福島→群馬→福島→岡山→福島、みたいな感じで行って戻って、行って戻ってを繰り返してるんですね。で、群馬はもう震災の直後、震災の年の9月とかにもう避難をしてて。
群馬へは「なるべく早く福島離れたい」っていう親の思いがあって。多分いろいろ場所を探してくれてたと思うんですけど、群馬県に避難することになって。群馬からは半年で帰ってきたんですけど、帰ってきた理由で言うと、僕の弟が震災1年目とかに生まれた子なんですよ。なので、その出産に合わせて帰ってきたみたいな感じで、半年ぐらいしか群馬にはいなくて。その後弟が大きくなってきたタイミングで、僕が小学校6年生のときに岡山に避難をして、そこには2年半ぐらいいたんですけど、中学校3年生になるタイミングで、福島に戻ってきました。
福島に戻ってきた理由でいうと、岡山での生活がつらかったっていうのが一番大きな理由です。中3で戻ってきたので、高校受験はそのまま福島でやって、高校3年間ずっと福島の高校に通ってるっていうのが、ざっくりとした経緯です。

toki:なるほど。親御さんの意向で群馬に引っ越されたということでしたが、避難することに対して、当時ご自身はどのように感じてましたか。

吉田:その時は「あ、行くんだ」ぐらいでしたね。結果的にすぐ戻ってきて、(転校前と)同じ学校に戻りました。あと、多分距離的に近くて週1ぐらいでは福島帰ってたりしたんですね。なのでつらいとか全くなくて、群馬でも友達が出来て、馴染めました。

toki:はい。

吉田:でも岡山行ったときは、多分もう会えなくなるっていうのを悟って。1年に1回ぐらいは戻ってきたと思うんですけど、その時はやっぱり、友達と離れるのが悲しくて結構泣いて、親にも自分だけでも行きたくないみたいな説得をして。
本当に、避難するときはめっちゃつらかったなっていうのは今でも覚えてます。

toki:そうして岡山に避難されて、そこから最後に福島に戻られた時はどういう心境だったのでしょうか?

吉田:その時は結構、なんていうか、岡山でつらい経験してきた中で戻ってきたので、帰れて嬉しいとかっていうよりも、まだつらい状態のまま何とか戻ってきたみたいな感じで、1年ぐらいは多分そういう状態続きましたね。

toki:戻ってからもしばらくは岡山の経験を引きずっていた?

吉田:そうですね、結構引きずってて。高校上がったタイミングで、割と課外活動とかに、力入れるようになって、周りのそういう課外活動に参加する中で周りの影響を受け始めたというか、前向きに考えてる人が多くて、本当に一生懸命頑張ってるような仲間に囲まれて。
そういう自分のつらい経験も、考え方によっては、多分プラスになるんだなっていうのをその時から実感し始めて。そうですね、今に至るというか。

toki:自分のつらい経験も、考え方によってプラスにできるというお話でしたが、例えば どんなことでしょうか?

吉田:そうですね。震災を経験したことで、いろんな支援を受けれたというか。
それこそ僕、高校2年生の時にアメリカに3週間ぐらい留学行ったんですけど、ソフトバンクが絡んでる留学プログラムで、3週間ぐらいアメリカに行ったんですけど、そういう経験をさせてもらって。
で、かつそこには同じように震災経験してる人たちが集まってるので、同じような境遇の中で頑張ってる人と会える、そういうコミュニティがあるというか。同じ経験してるからこそ、そこに仲間意識が芽生えて、自分も奮い立たされるみたいな。
そういった環境が割と(東北)各地、いろんなところであったなと思って。それは自分が活動していくにあたってすごく心の支えにはなってたなと思って。それは一つ。大きいかなと思います。

toki:高校時代はどんなことやられてたんですかね?

吉田:高校時代は、今の活動と全く繋がらないわけじゃないんですけど。
原発でわりと自分つらい経験したので、だったら原発っていうところのイメージ変えるためにというか。そこから変えていくために、再生可能エネルギーとかをいかに日常に落とし込んでいくかっていうことを、いろいろ考えながら動いてて。
それこそその名刺に書いてある写真とかもみかんジュースなんですけど、ソーラーパネルの下で育ったみかんを使ったジュースとかなんですよ。いかに原発っていうイメージを払拭したりとか、かつ再生可能エネルギーって小難しく考えちゃうので、そこをどう日常に落とし込んでいくかみたいなことを、いろいろ自分で調べたりとか、知ったり、実際にそういうところにインターンで行ったりとか、みたいなのが経験として多かったですね。
高校1年生の時に留学行ったんですけど、それもドイツに留学をして。ドイツは再生可能エネルギーの先進国なので、本場の研究内容とかも聞きながら、実際に日本での取り組みをいろいろ自分の目で見てっていう時間が結構多かったなって思います。

toki:福島に戻られて、高校に入学してからも、しばらく岡山のつらい状態を引きずっていたというお話しでしたが、そこからどのように気持ちが変化していったのか、お伺いしてもよろしいですか?

吉田:それで言うと、高校入ってすぐの夏休みにドイツ行ったんですけど。ドイツ行った目的で言うと、再エネを学ぶっていうのが一つあって。もう一つは福島の体験を伝えるっていうところで、それぞれ英語でスピーチをいろんなところでしてましたね。
ちゃんと会場を用意して話すっていう場面もあれば、本当に駅のホームでドイツ人引っ張ってきて、ちょっと話聞いてくれって言って、英語でスピーチするとか、いろいろあったんですけど。
その中でやっぱりドイツの人でも結構福島に対して怖いっていうイメージを持ったりとか、当時は多くて。教室に30人いたら本当25人とかが怖いっていうような感じだったんですね。
で、実際に自分たちが福島の体験と、今福島でこういうこと頑張ってるみたいなスピーチをしたら、じゃあ私行ってみたいっていうふうに変わって。その25人が全員福島行ってみたいっていうふうに変わったというか。行きたくないが25人だったんですけど。逆に今度はもう行きたいっていう人が25人になったりとかして。自分が話したことによって意識が変わったというか、ていう中で伝えるっていうことってすごく大事なんだなっていうのとか、逆に伝え方さえ間違えなければ、多分みんなわかってくれるんだろうなっていうのが、経験としてすごく大きくて。
なんで岡山でつらい経験したかっていうと、伝えられなかったっていうか、伝えられるほど福島のことを理解しなかったし、まだ幼かったので、そこの多分うまい伝え方とかがわからなかったんだろうっていうのはあったので、そこがある意味変わったきっかけなのかなと思います。

toki:なるほど、ありがとうございます。
noteを拝見したのですが、高校卒業されて結局大学には進学しないと決断されたんですよね。その決断の背景についてお伺いしてもよろしいですか?

吉田:いろいろあるんですけど。本当に最後の決め手になったところで言うと、去年の2月3月に初めてさっき言ったアイデアソンコンテストに参加したんですけど、その2回目が去年の11月12月に開催されて、その2回目のコンテストで自分が優勝したんですよ。
そこで本当に起業できるかもしれないみたいな、自分の希望もあって、多分本気でやるんだったら現地に行って、現地の人の声聞いてかないと、すごく摩擦が起きるんだろうなっていうのはなんとなくわかってて。てなった中で、すごく移住したいなっていうのがちょっと気持ちとして出てきたときに、自分の母とかも郡山に住んでたので、郡山でなくて、何かもっと落ち着いたところで田舎暮らししたいと言っていて。福島県内外含めていろいろ移住先を検討してたときに、僕がずっと大熊で活動してるのを横で見てたので、大熊付近で家を探してくれてたらしくて。そしたら大熊見つからなかったけど浪江で見つかったっていうのが言ってくれて、じゃあもう一緒に行くみたいな感じで。

toki:ほうほう。

吉田:でも一緒に行くといっても去年の12月とかなんて、もうセンター直前とか普通に私立の受験とかも2月とかだから、まだ多分こっちにいるって選択肢も残ってるなと思って、どうしようと思ったんですけど。
やっぱり自分がやりたいことで生きていきたいっていうことが昔からずっとあって、そっから起業っていうのも一つあったりとかしたので、別に何か具体的にこれをこの1年後までにここまでできるようになってとかっていう計画性本当に全く度外視で、優勝したっていう経験と、たまたま親が移住することになったっていうそこの、ある意味過信とその偶然みたいなところを生かして、もう本当にそういう勢いだけで移住して。
最初は、結構つらかったというか。勢いだけで行ったので。でもまあ結果(移住してから)8ヶ月ぐらい経って、一緒にやって頑張っていける仲間が増えてったりとか、ずっとそうしてる中で、応援してくれる人も増えてきたので。とても充実しています。

toki:今振り返って、大学に進学しないという決断についてどう思いますか?

吉田:大学行ったらどうなってたんだろうなとかいろいろ考えるときあるんですけど、でも全然今が楽しいので。
多分、どっち行ってたとしてもやることは、そんなに変わらなかったりとかするんだろうなって思います。大学行ったら大学行ったなりの強みを生かしながらプレーヤーとしてやっていったと思いますし。
今は今で、ある意味社会人の道を進んでいってるので、早い段階で社会人になれたっていうのは、ちょっと早くスタートを切れたので、他の人よりもちょっと時間かけれるっていうのはある意味自分にとって良かったのかなと思って。
なんか、後悔とかも全くなくて、本当に今やるべきことを淡々とやってるみたいな意識が、あります。

未来:大熊町の課題として挙げたのが、色と音がないっていうところ。やっぱ人が住んでないので。

toki:おおくまwalkersという団体として、これからどんな団体になっていきたいとか、どんなことをしていきたいなど、何かありますか?

吉田:おおくまwalkersとしてっていうと、大熊の一度きりでない関係性を作るみたいなところが一つミッションとしてあって。
そこに付随する形でいろいろ活動できていければなと思ってるんですけど。メンバーの入れ替わり立ち替わりもあるので難しいのかなと思うんですけど、結構僕が年齢近かったりとかあとはメンバーとしても大学生が多いし、今徐々に大学生が大熊に来るっていうシーンが増えてきたので。
なんて言うんすかね、大熊をフィールドとして頑張りたいとか、大熊の周辺で何か関わっていきたいみたいな人たちをまとめるっていうか、そういうような、ある種コミュニティみたいなのが、このおおくまwalkersを起点としてできていったらなと思っていて。
多分大人の人にきっちりとしたメールを送って、この日の何時に大熊案内してくださいとか、この日ここで話聞かせてくださいっていうメールを送るよりも、大学生にちょっと気軽に連絡するとかの方が、ある意味心理的なハードルも多分低いと思いますし。

toki:はい。

吉田:それから、大熊って若い年齢の人をすごく欲してるので、自分がずっと大熊に通い続けた中で、知り合いとかも増えてきて、(その強みを活かして)ここの地域の人と若い人を繋げるというか。そういったコーディネート的なところもこのおおくまwalkersとしてやっていければなと思っています。本当に現地に来てもらうっていうところだけはずらしたくなくて。
やっぱりおおくま”walkers”っていうからこそ、現地にちゃんと足を運んでもらって、自分の足で話を聞いてもらうっていうところは、すごく大事にしていきたいなと思ってるので。
そういったところをやりながら、本当に大熊で頑張りたい若者が集まって、やりたい若者がやりたいことをやっていけるような仕組みを作っていければなと思ってます。

toki:ありがとうございます。吉田さん個人としてはこれからどんなことをやっていきたいですか?

吉田:いろいろやりたいことはいっぱいあるんですけど、それこそ今で言うと、賑わい作りみたいなところに力を入れてて。
それこそ明日発表してくるホヤホヤのアイデアなんですけど、再来年2024年の3月に3日間芸術祭を開催する予定です。これがその去年移住するきっかけになったアイデアソンのアイデアをブラッシュアップしたものなんですけど。
芸術と音楽とアウトドアの三つそれぞれの内容に分けて企画を練っていて。それぞれ全部参加したら、大熊の魅力を全部体験できますよとか。芸術とかアートって問題提起みたいな役割があるので、この大熊町っていう特殊な地域だからこそ見失ってる問題があったりとか、なかなか考えないといけないんだけど見ようとしない問題ってたくさんあると思ってて。
でもそこを見失ってるからこそ、なかなか前に進めないっていうのもあったりすると思うんですよね。
考えるきっかけを提供しつつ、アウトドアとか音楽みたいなところで、大熊を満喫してもらいたいなっていうのを今企画していて。
大熊に足を踏み入れるきっかけを提供しつつ、大熊に戻ってきてくれる人とか、単純に大熊に足を運んでくれる人が増えてくれれば、中長期的かつ間接的な効果として、移住者とかも増えていけば、今、町が目指してるビジョンにも多分重なるところがあるんだろうなと思って。
本当に僕はこれを実現しようと思ってて、こっちは結構本気でやってるというか、もちろんおおくまwalkersも本気でやってるし、全部本気でやってるんですけど、自分の中の活動の一つの軸にしていきたいなと思ってやってるところではあります。

toki:なるほど、ありがとうございます。

吉田:ぜひ来てください。開催するときは。

toki:行ってみたいなと思いました。

吉田:「みつめる"イマ"、つくる"ミライ"」をコンセプトにしてて。
過去の延長線上に今って存在すると思ってて。震災の歴史だったり、もちろんそれより前の大熊のこともそうだし、今実際に復興が進んでいるまさに今っていう点を捉えたところを見つめるきっかけにもしたいです。
作品展示とか音楽ライブをやろうと思ってて、TOKIOとか呼ぼうって話もしてたんですね、本当に。あとは夜の時間で、星空の下でととのえるサウナですね。
それから、「大熊の稚児鹿舞」っていう1時間くらい続く伝統の踊りとかを現代風にリメイクして、5分版とか短い形の稚児鹿舞の現代風みたいな踊りを作って継承していく。それを作る過程をTOKIOと一緒にやってって、で本番でTOKIOが踊るみたいな。それをドキュメンタリーの番組化してみたいなとかも、完全に妄想ですけど。ていう感じで今、進めていこうと思って。
僕はこれをやるために移住したので、こっちは絶対やんないといけないっていうか、ていうところがあります。

toki:お話を聞いて、本当に精力的に活動されているなという印象を受けたのですが、そこまで吉田さんを動かす原動力って、どこにあるのでしょう?

吉田:それは、中学生の時にいじめられた経験っていうのはすごく大きくて。
本当になんですかね、いろいろ言われたりとかするんですけど、放射線うつるから近づくなとか平気で同級生に言われたりとか、あとは3.11のときって、全国的に黙とうしたりとかすると思うんですけど、岡山の中学校でもやってくれると思っていたら、その日なんか球技大会だからわざわざそんな時間取ってやる暇ないみたいなのを先生に言われたりとかして。
そのときのすごいつらい経験があって、もう本当に鬱というか、家族全員でもう死のうかみたいな流れになってたんですけど、でも実際にそういう状況に陥った人って、多分たくさんいて、かつそこで本当に命を落とした人もたくさんいるけど、今自分がこうしてその時に命を落とさず頑張れてるっていうところが、荷が重く感じるときもあるんですけど、その命を落としてしまった人たちの責任っていうところを一つ一つ背負ってるっていう意識は、たまに、そういうことを思い出すときがあって。
そういったところもありつつ、実際に何て言うんですかね、ドイツの留学のときに自分が伝えたことによって周りの意識が変わったみたいな成功体験とか、昔から目立ちたがり屋ってところもあるので。
目の前の人に自分が届けたいメッセージを届けていくっていうところは、自分が生きがいを感じる一つではあるので、そういった過去の経験と本当に自分がやりたいことをやっていけるような生き方をしたいと思って、そこを今やってるっていう感じです。

toki:ありがとうございます。内面的な部分で、こういう人間になりたいみたいな像は何かありますか?

吉田:一つあるとしたら、すごく明るく振舞っていきたい。それは今そういう状態にあるとかじゃなくて、本当に理想として、普段からすごく明るい立ち振る舞いをしたいというか。
喋り方もそうだし、風貌とかもそうだし、そういうところをやっていかないと、なかなか目の前の人を喜ばせることってできないし、だからまず自分自身が楽しむっていうところで、明るい振る舞い方をしていきたいなと思ってて。
自分の名前とかも、僕大好きで、幸希って組み合わせ、多分なかなかないと思うんですよ。幸せに希望の希って。本当に周りを幸せにしたりとか、その周りに希望を与えるっていうところはやっていきたいけど、まず多分自分が幸せである状態を作らないと周りに与えることはできないし、自分自身が未来に対して希望を持って頑張っていかないと、周りの人もそういう状態になりえないと思っていて。
そこはすごくそうなりたいなっていう本当に理想で、そうなれてないっていうところもあるのである意味そこが自分自身の伸びしろというか。
そういう状態になれるように今頑張ってるんですけど、なかなかつらいこともあるので、そううまくいかないよなっていうのも正直なところですね。

toki:一番最初に「何をしてる人ですか」とお聞きしたじゃないですか。
学生の方だったら大学何年生ですとか、社会人の方だとこういう仕事してますみたいな感じで、自分の肩書きを言われる方が多いんですけど。
ご自身に肩書きをつけるとしたら、なんと名付けますか?

吉田:大熊を彩る若者。さっき話した明るく振る舞うとか周りに幸せを与えていきたいっていうところと、自分の中で一貫するし。
かつ、この地域で目立ってる若者は、僕とあともうもう1人ぐらいしかいなくて、その中で目立ちたがり屋っていうのもあるし、自分自身の役割としても、そのポジションが多分合ってるっていうのがすごくあるので。
まわりを彩っていくような存在でありたいっていうところで、芸術祭の活動もするし、若者が輝ける環境、機会を作ってくっていうところで、大熊若者サミットがあったりとか。そういう思いから、大熊を彩る若者っていうのを自分で名付けました。

toki:彩るって、もうちょっとかみ砕いて言うと、どんなイメージですか?

吉田:なんでその彩るっていうところが出てきたかっていうと、去年ビジコンで優勝したときに、大熊の課題として挙げたのが、町に色と音がないっていうところ。すごくわかりやすく言うと、やっぱ人が住んでないので。
普通に自分の地元、元々住んでた郡山とかだと、日曜日公園行ったら誰かそこで遊んでるような、小学生中学生の声が聞こえたりとか、お店の前通ったら、その店の前で会話してる。近所のお母さんがいたりとかって、どこかしらで誰かが楽しそうに喋ってる声みたいなのが聞こえてるんですけど、今の大熊にはないなと思って。
ここで大事なのが、楽しそうに喋ってる声が聞こえないっていうか、単純に音がないっていうのもそうだけど、今大熊がどうしても全体としていろいろギクシャクしてる部分だったりとか、本当に心から楽しんでる人ってどれくらいいるんだろうみたいな疑問もあったりとかして。
そういうところが、音ではあるんですけど彩りも似たようなところで、これから増えていくと思うんですけど、建物がもうほとんど解体されちゃってたりとかしてて、街が本当に荒廃してるというか。でも多分そこに、私服を着た若い人たちがいるだけでも、街の印象って、1枚の写真っていうか1枚の絵で見たときに、全然違ってくると思うんですね。

toki:はい。

吉田:でも今実際に大熊で見かける人のほとんどっていうのは、スーツを着た人とか、作業着を着た人とかっていうので、本当にある意味、1枚の絵で見たときに白黒というか、何も面白みがなくて、本当にそれで楽しいのかなっていうのが一つ疑問としてあったので。
それこそ僕1回目のイベントのときにパレットおおくまっていう名前をつけたんですけど。心から楽しんでる人がいるように見えなかったので、そこを本当に心から楽しんでもらえるようなカラフルな町を作っていきたいと思ってて、それは何か自分がやりたいとかってよりも、それぞれが思うカラフルな町っていうかそれぞれが思う明るい町ってあると思ってて、1人1人がちゃんと活躍できる場を提供しつつ、全体としてそういった彩った地域になってほしいなっていうところで。
芸術祭はやっぱり全体として町がカラフルになってほしいっていうところと、大熊若者サミットとかに関しては、一人一人にちゃんとフォーカスして、一人一人が町を作っていけるようになってほしいというところで、両軸でやってるっていう感じですかね。意識としては。

toki:もしもの未来という質問をしてるんですけど。
もしも大熊町と出会っていなかったとしたら、その後の人生ってどのようなものになっていたと思われますか?

吉田:難しいですね。大熊と出会ってなかったら、それこそ多分、東京とかそっちの大学に進学して、そのまま一般の会社に就職して、本当に一般的な生活というか、当たり前のルートをたどって、何も面白味ないって言ったら失礼だけど、そっちはそっちで楽しんでると思うんですけど、今とは全く違う路線の生き方をしてたんだろうなと思って。
少なくとも多分福島に、福島のために何かやりたいと言いつつも、そのやり方がわからないまま大学行って就職してっていう生き方をしてたんだろうなと思っていて。
今実際にこっちに移住してきて、それこそ大熊ではなくって、浪江に住んでますけど、いろんな浜通りの地域見てる中でやっぱり大熊だなっていうのは、日が経つにつれて思うので。そこを見つけられたっていうのは、自分にとってすごく大きいというか、今後を左右するものだったなと。大熊と出会ってなかったら、多分福島のために何かやりたいっていうのをぼんやり思いつつも、そんな深く考えなかったんだろうなって思ってます。

toki:最後に言い残したことはありますか?

吉田:何か一つ言うとしたら、それこそ最近やっぱり自分の生き方って普通じゃないので、大学行かなくてよかったのっていうか、何で行かなかったの? みたいに聞かれたりとかするんですけど。
本当に大学行く行かないだけで、別に今後大きく変わるわけでもないし、どこの大学行くかも多分どれ選んでも、全部が大吉とは言わないけど、全部がある意味吉というか、大凶さえ引かなければいいというか。
深く考えろっていってもなかなか経験が少ない中で深く考えるのは難しいので、今選んでる選択に自信を持って、やりたいことをやってくれるような人が増えていったらいいなと思ってます。

あとがき

この度、無名人インタビュー初の試み、対面インタビューを実施しました。
対面でのインタビューをやってみて感じたのは、やっぱり相手を目の前にしてインタビューしていると、相手と目が合ったり、お話しされている時、考えている時の仕草が見えたり、反応や表情がダイレクトに伝わってくるなあということ。
いつもは想像で補っている部分が目に見えたことが面白かったですし、相手が目の前にいるというだけで、自分の中に”話が入ってくる度合い”みたいなものがすごかったです。

いうなれば、ライブみたいなものでしょうか。
アーティストが音楽を奏でて、それに観客が反応して、その反応にさらにアーティストが答えてという、双方向性。
ライブだけではなく、インタビューでもそんな双方向性が感じられて、インタビュー終了後は、1試合終えたってくらいのやり切った感が不思議とありました。

さてここからは、インタビューの内容に関するあとがきです。
見た目の少年感とは裏腹に(こういう見た目とのギャップを感じられるのも対面インタビューならではのことですね)、とても20歳とは思えない語り口、そして行動力をはっきしていらっしゃる吉田くん。

自分の出身ではない町に、どうしてそんなに思い入れを持つことができるのかということを、吉田くんに限らず、地方創生や町づくりを行っている人に対してよく感じていたのですが(非難したいとかではなく、ただ単純な疑問)、吉田くんのお話を聞いていると、人をある場所に惹きつける要因って、人なのかなと思ったり。

便利な町だからとか、こんな建物があるからとか、住環境が良いからとか。
そういったハードの条件以上に、人と人との繋がりだったり、人の優しさ・温かさみたいな感情的なもの、目に見えないものが、新たに人を呼び寄せる足掛かりになるというのが、なんだかいいなあと思いました。

また、彼がいっていたことの中で、最も興味深かったのは「大学に行ったとしても、今とそんなに変わらなかった」という話。
自分の前にある選択肢、どれかが正解でどれかが間違いという二択の考え方ではなくて、大凶を引かない限りどれもある意味で吉なのだから、大事なのはどれを選ぶかではなくて、どれを選んでその先に何をするかなのだなと。自分次第で、良い人生はいくらでも作ることができるのだなということに気付かされたインタビューでした。

彼が今後の人生をどのように歩んでいくのか、どんなことを成していくのか、とても楽しみですよね。
吉田くんが代表を勤める団体、おおくまwalkersのイベントも、ぜひリンクだけでも覗いてみていただけると嬉しいです!

それでは次のインタビューもお楽しみに。
ありがとうございました!

インタビュー担当:toki

編集協力:生きにくい釘

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