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ともし火と鏡からこぼれるもの

 詩をどう読み、書くかは人それぞれ。
 詩集をほとんど読まなくても、詩人や過去の作品をあまり知らなくても、自分の「思い」を素直に写せば詩はできると考える人がいてもいいし、ジュリア・クリステヴァが記したように「どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、他のテクストの吸収と変形にほかならない」という地点から書く人がいてもいい。

 年代も選んだ仕事も日常も、読んできた本も、創作や鑑賞に対する美意識も価値観も嗜好もまったく違うのだから。詩や詩作に関しても、自分の考えとは異なるいろんな想像や考えがあっていいと思う。

 わたし個人としては、好きな詩人の詩論はその作品をより知るためには読むけれど、それを参考にして書くことはあまりない。
 「詩の書き方」に関する文章や詩論よりも、詩の一行、一語というテキスト自体を頼りにしている。

 そして、どんな文章も多かれ少なかれ(作者が意識していなくても)、何かしらの過去の言葉の影響を受けていると感じている。
 わたしは実際に、詩を書こうとしても何も書けないとき、自分が長く惹かれるテキストや、ときには映像や絵画、音楽から刺激やヒントを幽かにでも、もらうことがある。
 詩を書きだすまえに必ず目を通す数冊も、変わらずにある。

 絵画や音楽の世界でも、ある程度の基礎的なスケッチや指づかいのくり返しが必要なように、詩集をほとんど読むこともなく、詩をいきなりフリーハンドで書くほうが自分には難しく思えるし、だんだんと行き詰まる気がする。
 
 詩を書くまえに、ある作品を読む。それは、よりロマンチックな言い方をすれば、敬愛する詩人や作家(の亡霊)と一緒に書いているとわたしは感じたいからだ。たとえ彼らが故人であっても、彼らに読んでもらえるような詩を書きたいといつも思っている。

 多くの、詩を書く人たちと同じように、わたしも平日は勤めに行き、週末にはさまざまな用事が入っていることも多い。
 だから一人で机に向かえる時間には、心から「いいな…」と思える文章をできるだけ味わいたいと考えている。

 この週末は、須永朝彦の「聖家族」という連作短篇や、宇佐見英治の『言葉の木蔭』(とくに谷崎潤一郎の色調についての一篇)、津村信夫の詩をいくつか読み返していた。
 そのほかに田中冬二の詩集と、川端康成の随筆集と短篇集も何冊か開いた。
 
 好きな箇所を少し、引用したい。

 ◆田中冬二『青い夜道』より

みぞれのする町
山の町
ゐのししが さかさまにぶらさがつてゐる
ゐのししのひげが こほつてゐる
そのひげにこほりついた小さな町
ふるさとの山の町よ
――雪の下に 麻を煮る

「みぞれのする小さな町」

わたしは とほくから見たあのむらさきの中にゐる
筑波の町は
石段と 石榴の木と
青竹の樋から樋をとほる山水(やまみづ)の音
小さい揚屋の軒に雨雲のかげ
そして米泔(しろみづ)いろの小さい四角の池には
さむい金魚が おもくういたり しづんだり
くすんだ旅籠の二階に
ならんだ朱塗のお膳
はしごだんをあがつてゆく女の素足

「筑波の町」より

 「みぞれのする小さな町」。つららのようにぶら下がる「ゐのしし」。その細い「ひげ」のなかに「こほりついた小さな町」が閉じ込められている。一枚の鏡のなかにもう一つの世界を映した小さな鏡があるのを見るような眩暈めいた視界。この視覚自体が凍りつくような錯覚さえ感じて。とても平明で短い詩。けれど読むたびに、「こほりついた小さな町」へと瞬時に旅することができる。

 「筑波の町」は、わたしの生まれた町なのでとくに親しみを持って読んでいる一篇(山は遠くから見るとほんとうに「むらさき」色をしている……)。「さむい金魚が おもくういたり しづんだり」「はしごだんをあがつてゆく女の素足」という、やはり夢見るような「さむい」温度の揺らぎ。

◆川端康成「雪国抄」
 作家の死後、毛筆書きの原稿として発見されたもの。『雪国』の前半の四分の一をさらに圧縮したかたちで書かれているらしい。
 主人公の「島村」が汽車で雪国へと移動する冒頭のシーン。彼が指でぬぐった窓ガラスに、向かい側の座席の女の顔が映る。つまり窓の外と車内の景色がガラスのうえで重なりあう。そしてしだいに野山のともし火が女の顔に重なる。
 その「ともし火」の場面と、小説の最後に島村と夜を過ごした駒子の髪が鏡台に映る場面。この二つがやはり好きでときどき読む。

……島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われて来た。
 そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。(……)そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷めたく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の目は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

……鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頰が浮んでいる。なんとも言えぬ清潔な美しさであった。
 もう日が昇るのか、鏡の雪は冷めたく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。

 窓ガラスと鏡に映る肌の奥行きと、薄情なまでの白、赤、黒という色の美しさ。
 この色からも何かが得られたら……と、詩を書くまえに、変わらずに思う。