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自己想起に関すること

 昔ねっ、グルジェフという変なおじさんがおってね、踊ってるひとにね「だるまさんがころんだ」って、踊り手のつごうなんて全然おかまいなしに号令をかけたり、絵を見る人によって印象まちまちなのやばくね?そうじゃない客観芸術って可能だよねっとか騒いでいたの。

 でね、その人は人間というものにはクンダバッファーという列車の連結緩衝装置のようなものが入っていて、外界の印象やショックにはダイレクトに反応しないようになっている、隙間や遊びを設けて自分を全自動機械的に運用できるようにしているんだってね。

 ちょっと漢字が増えてゆくよ。そんな存在状態の自己から、自己想起(対象と距離を保ち自己想念を観察してるような状態へのまあ、きっかけかなっ)をへて真の自己意識への発達が可能になるにはどないしたらええのかなってね、そんなことも考えてたの。

 で、話は広がるんだけど 思考の制御を成し遂げたものはこの世では皇帝である、っていうアフォリズムというか箴言があって、そうするには何が邪魔、妨害をしているのか、そこ目指してどんどん進んでくにはテクニック方法論として、どういうコトを推挙し考えることができるのかっていうことなんだけど。

 脇道だけど、昔まさき先生っていう発明家がいて、わしらっておるんじゃぞいって実在の証としてかな、奥様もいる目の前で空中の空気を圧縮して大黒様の小さな像を顕現させた(話のわしがさせたのね)の、ポンッストン。まあ神社とかで祀られるような存在のレベルになると考えるイコール実現なのかってそれにしてもしばしば。
 
 でまあ、人間は一日すごしていると色んな考えや感情がよぎるよね。ここでは考え(想念)に的を絞って見るけど、「いやあこれは凄いアイデアだ、なかなかこんなこと思い浮かばないんじゃないかな」って時々思ったりすることあるよね。でもね、大体の場合何十万人とかレベルで過去にそんなこと誰かが考えてたんだっていうのね、それを拾ったんだって。特定の分野のアイデアにある一定量の人達が思考を毎日集中させている。そういうエリアというかマトリックスというか似た性質の想念の層があるってね。で、そういう思い付きを後生大事に抱えちゃうものなのねエゴって(非難してるんじゃなくて)。

 でね、そういう職業的なでもいいけれど「道」を追い求めエゴを豊穣濃縮にしてゆくいわば求道者として(例えばバイクの運転技術とかでもね)その道をひたすらに進んでみる、のは実生活でとても実利実務的でもあるので選択可能であるけれども、あるレベルのサマディっていうかな、達観や安寧にあって一定の大体の時間帯で持続し続ける幸福感とでもいうかなあ、そこに至るのは、エゴを希釈して到達するほう、その道のほうがはるかに簡単なのね。新婚さんなんかでその渦中にいらっしゃる方にはなんにも言わんけどね。

 で、身体感覚と感情も交えての話になるけれど、身体の不調や不快感、特定の食物やお酒への強い欲求とか身体の生存本能に近いレベルの雑事とかね、不機嫌無気力無力感嫉妬傲慢俺ドヤッ不安恐怖憤怒悲しみなどなど、湧き出て来ちゃったりするそんな感情とかね、これらがとても困ったちゃんで、すごく邪魔をするのね持続的な自己想起を。

 で、身体の感覚とりあえずおいといて感情の話なんだけど、これは好みの音楽を聴くなりお花畑を散歩して自然の雄大さや生命の儚い美しさに触れるなり、海に向かって「宴会部長のばかやろーーーっ」なりね、ライフハックするわけだが、感情にも無意識やDNAレベルからの起因要因があって、ひとつだけ例を書けば、無意識からの突き上げがもんのすごく強烈だった場合は、まあ常に顕在意識に向かい矢を放ち続けているような、それゆえに一分の本当の集中も出来ないんです、みたいなね。DNAレベルの話では臓器移植を受けたひとが提供者の記憶を想起するようになったみたいな話があるよね。

 話が伝わっていると嬉しいんだけど。うわっここまででだいぶ紙幅をつかっちゃたな。

 実践テクニック方面の話にするおっ。
これはグルジェフのワークとはなんら関連のないものなんだけど、これらの方法遊びが自己を知ったり、低次のエゴを遠ざけるのにとても有効だってこと。そんな風に考え推挙(押し)しているよっ。

 紙と筆記用具を用意する。でね、あなたが知りたい概念例えば「すごく立派なうんち」とかね、ゆっくりめがいいかな?ずっと同じことを書いてゆく。するとあたまをそれに類する概念が色々とおじゃましますって通り過ぎてゆく。時々とんでもないこととか通り過ぎたりしてね(笑)。「立派であることにかけては東洋一だったが最近シンガポールが凄くって陥落したみたいです、ショックで」とかね。観察するうちに、想念の性質そのものへの発見がある。居座っているものじゃないみたい、とかね。これは副作用がまるっきりない方法確定(遊び)なので、ケッそんなものなんの足しにもなりゃしないヨってはなから決め打ちせず、ね。

 もうひとつ、「感謝瞑想」でありんすなんだけど、暇さえありゃ声なりこころで唱えるの。スピ系書籍でも何冊かあるよねそれに触れられた本。難しいことじゃなくてやってみるとわかると思うんだけど、面白くもなんともない(はじめは)。胸が打ち震えるありがとうの状態って多分「わたしぜえーんぶと世界ぜえーんぶにこの溢れくる感情をあらわさずにいられない」って感じの至福嬉しさの極北(笑)におりますナウみたいなの想像しちゃうんだけどね。日課みたいにでもなんでもいいけれどやってるうちに、こころにある変化が起きてくる。でね、予測なんだけど、それはとても好ましい変化であると個人的に推測する。思考感情の間に次第に隙間が生まれたりもすると個人的には思う。ここらまで書いとこっ。時間を無駄に使っちまったと後悔する結果もあり得るよな気もするけれど、自己責任で。それ以外は副作用ないです。

 もひとつ、日本上空には神社に祀られているよな意識体が集う層があって、そこにコノハナサクヤヒメがいらっしゃいます。時代を牽引する筆舌に尽くしがたいほどの高貴さと気品そなえし風貌で、日本国でそのコノハナさんの名前を呼び唱えた(呼ぶような気持ちで何度か)ものにはひかりのタマ(エネルギー)をもれなくそそぐことを本人が御約束されています。

(もともとそういう様々なエナジーの複合体であるのが人間っていう認識である為、わたしはテーコーなしなものでして。人と交流するってそもそもそういうことかなっと。極度にありがたがってるわけでもなし。二十数年前の情報になるけれど、日本国土において直系の人間のうつしみたまは一人だけね。女性。)

 社交的ではないひきこもりの性格の著しい円満化(女性的にすこし流動化する感じ。ヘニーデ化)、自分への好意の発生と若干の内的安定へ効果があります。

 自己意識への発達の話の途中だけれど。ではね。
「顕在意識とプシュケー」に続く (何故か)

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