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親の心、子知る

若き社長が100人に100万円をばらまく一方で、貧乏で満足に食事を摂れず母乳が出なかった母親が乳飲み子を栄養失調で死なせたと逮捕される世の中。
「子供3人のお年玉を管理する通帳を作るのに腰が重いので見張って欲しい」という依頼を受けたレンタルなんもしない人のツイートを見て思い出したことがあった。

母は私に用途を分けた二つの通帳を作っていた。
一つはお年玉やお小遣いを入れたものである。
もう一つは私が児童劇団に入って受けた仕事の給料を入れたものだ。
後者に関してはエキストラの仕事が9割を占め、自腹の交通費とほとんど変わらないほどの額だったが、「あんたが働いて稼いだお金だからね。いつこれだけの仕事をした、っていう記念だしね」と言ってマメに記帳してくれていた。

大きく話は変わるが、母は父との結婚生活で鬱病になり、私が劇団をやめた小学校4年生の頃にはすっかり家事もやらなくなって幼稚園児の弟に関しては完全に育児放棄していた。
私は母に外へ締め出されたり、怒鳴られたり、蹴られたりしていた。

私は母から愛されなかった。
そんな想いが自分の人間としての価値を低く感じさせた。

母は弟をまともに育ててこなかったという罪悪感から、思春期を迎え手のかからなくなった弟との関わり方にずっと悩んでいた。
その頃には私は看護師になるという現実的な夢を追いかけながら部活動に明け暮れていた。
母が「死にたくならない?」と訊くと私は「そんな暇無い」と答えた。

私が看護師になった翌年、自分の仕事の出来なさを異常に思い心療内科に行ったらADHD(注意欠陥性多動性障害)の診断を受けた。
パワハラを受けたり目の当たりにしてきた人になりやすいと聴いて、真っ先に母の顔が目に浮かんだ。
9年間強く願い続けて叶えた看護師という職を満足にこなせないのは母が私を愛さなかったから。
仕事が上手くいかず、一人で報告書を書く度に自分の運命を呪った。

ようやく仕事に馴れて一人前に動けるようになった4年目の春に異動が命じられ、新たな試練に悪戦苦闘した。
職場への坂を上りながら「死にたい」と声に出して言った時、自分の中で何かが弾けた。
「お母さんは私のこと嫌いだったのかな。私が良くない子どもだったから嫌われたのかな」
母にLINEをした。母からの返信はこうだった。
「あたしは、あんたがお腹に居たときから、好きだった。
大好きだった。
今でも好きだけど、今は好きじゃない時もある。
子育てのことを言っているならあたしには協力者も余裕もなかった、としか言えない。」
母は私のことを愛していた。私はちゃんと愛されていた。

私はその後も仕事や私生活において幾度となく悩み、何度か死のうとした。
親に愛されていたという実感が湧かなかったし、自分の中で自分は必要な存在だと思えなかった。
たぶん職場のシフトがなければ死んでいたと思う。

そんな地獄に耐えながら何とか生き長らえた私だったが、地獄を生きていたのは母も同じだった。
私が就職して一人暮らしを始めると家庭内における母の居場所は本格的に失われ、居るだけで体力が削られるような実家が出来上がった。
母は「息子が一人立ちしたら絶対にこの家を出るんだ」と地を這いながら言っていた。
私は不憫になって「私の貯金が来年までにここまで貯まるから、それを使って家を出てもいいよ」と言った。
母は首を横に振った。
「本当に大事な時の為にとっておきなさい」
私は母が死にそうな今が大事な時じゃなくていつなんだよ、と思いながら家に帰って自分も首を吊ったりしていた。

それぞれの地獄を経て私は結婚し、母は弟の一人立ちと同時に父と和解し、今はそこそこ楽しく暮らしている。
将来子どもが出来ることを考えて暮らしやすい町に引っ越しを決めた時、母からこんな連絡があった。
「もう1冊通帳があるから渡したい。ちなみに100万入ってるよ」

母はもう1冊、本当に何かあった時のために父に内緒でコツコツと私たち子どもに100万ずつへそくりを残していたのだ。
私は体の芯から驚いた。
昔、父が母を蹴り飛ばして肋骨が折れた後、その通帳のありかを聞いたような気もするが、状況が状況だったので覚えていなかったのだ。

初めて、心から、母は私たちのことを大事にしてくれていたんだ、と思えた。
100万という額の重みより、もっと大きな母の想いを感じた気がした。

あたしら、生きてて良かったね、お母さん。

きっとこれからも今まで気付けなかった多くの愛に気付くのだと思う。
その為にも絶対に長生きしたい。
それが私の新たな夢になるかもしれない。





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