退屈に対して「楽しい事」を求めてはいけないのかもしれない
退屈に対して楽しい事を求めようとすると、欠乏感が沸く。
ストア哲学や釈迦の哲学を基礎として生きてる自分としては、この楽しいを求める事もまた自分を不幸にしてる原因になっているのではないかと思えてきた。
楽しいことをするなというのではなく「なんか楽しいことあるんじゃないかなぁ」という妄想に耽る事が問題だと思ってる。
これも、いわゆるフォーカシングイリュージョンだし、白黒思考にも該当しそうな認知バイアスだと思う。
今楽しくないから、何か楽しいことをすればよくなるんだろうと思うんだけど、この「何か」という具体性のない、いわば「今から逃げるための口実」としての逃避行動は、先延ばしに繋がるきっかけを作ってしまう。
先延ばしは言わずもがな不幸の現況だ。常にやらねばならない事が頭に残るから、非現在的なメンタル状態になってしまって、今を楽しめない。
「なにか楽しいことがあるんじゃないか」という思考は、メンタルにも生産性にも悪循環を引き起こしてしまうように感じる。
最近考えている重要度
お金の問題解決が最優先課題だった頃は、不幸の原因はお金にあると思っていた。
お金はたしかに嫌な事を回避できる材料にはなるけど、幸福にはしてくれない。幸福になれないとなると、結局現状へのマンネリが不幸に転換されていくので、結局、お金は人を不幸から救う事も出来ない。
「お金持ちにも悩みがある」なんてのは創作でもよく出てくるセリフだけど、実際それはそうなのだろうと思う。
故にお金はたしかに大事だが、優先順位は想像以上に低い。無いときはそれこそ認知バイアスの罠にハマってしまって「アレば幸せになれる」と思いがちだけど実際そんな事は無い模様。
そして、前述した通り「楽しいことがあれば」というのもバイアスな上に、現状から意識をそらすきっかけになる。
どんなに楽しいことでも何れはマンネリ化して次にシフトしなければいけないが、体力バリバリの若い頃ならまだしも、中年になってくると体力というリソースにも限界を感じてくる。
そもそも、一生を楽しいことで埋め尽くすことなんて出来ない。
銀魂でマダオも言っていたが、毎日が夏休みってのは逆に地獄になっていく。ほどよく働いたり嫌なことを経験するから、休みが輝くというのは事実だと思う。
ある程度の節制が、大して楽しくない事を楽しくする事に一役買っているのだと思う。
これと同じ理由で僕はFIREに少し否定的だ。フォーカシングイリュージョン以外の何者でもない。年中好きなことだけいて生きていくなんて、物理的以上に精神的な問題で不可能に近い。
結局一番大事なのは心のニュートラルさ。精神的平穏なのだと思う。
エピクロスの言葉を借りるなら「アタラクシア」ってやつだ。
俗世間的な、顕示的消費におぼれて楽しむ行為にはすぐに限界がくる。
その限界を打ち破ろうと多くの消費行動を増やし、物事の摂取量を増やす事で解決しようとすると身を滅ぼす。
「さほど嫌なことがない事が幸福である」というのはショーペンハウアーの言葉だけど、まさにこれで。
退屈を幸せだと思えるくらいの心の豊かさを持つこと。
強い刺激に慣れてしまわないというのは幸福を得る上で大事なことなのかもしれない。
僕はファーストフード食べないのだけど。
味の濃い食べ物を食べていると、塩を軽く降っただけのレンチンじゃがいもが美味く感じなくなるからだ。
わかめご飯のおにぎりに満足できなくなるからだ。
これは人生のどんな面にも当てはまるのではないかと思う。
強い刺激に慣れると、欠乏感に襲われて苦しんでしまうのではないだろうか。
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