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場面緘黙はしゃべれない呪いのよう

先日行った本屋で「場面緘黙症」である作者の
子供の頃の話をつづった実録マンガの本を
読む機会がありました。


それを見て

「あぁ!わたしの生きづらさは
場面緘黙症のせいだったのか!」

と今さらながらに気づきました。おそっ!


場面緘黙症
ってどのくらいの認知度なんだろう?


以前の過去記事で
「場面緘黙症でした」
とカミングアウトしたものの、

わたし自身、


「場面緘黙症」


というものがあると知ったのは大人になってから。

多分、本人すら知らない人も多いと思う。


場面緘黙症とは…
特定の場所(学校や職場)といった「場面」で、 自分の意思に関係なく、声を出そうとしても声が出せず、 過度な不安や緊張から、話せなくなってしまう状態。



2〜5歳で発症し、200〜500人に一人の割合
というんだから、学校に一人いるかどうか。





そりゃー同士はいないわ。

その学校にわたしだけだもん。


場面緘黙症は機能障害ではないから、
家ではふつうにしゃべれますが、
なぜか学校などではしゃべれない。
声がでないのです。


だから周りは

「なんで喋れるのに喋らないの?」

と思います。




本人自身も思ってます。

「なんで家では喋れるのに、学校ではしゃべれないんだろう?」

と。




喋らないんじゃない。
喋れない。
話したくても声にならない。
話そうと思うと、メチャクチャ緊張して
声にならないんです。


喋れないと

「おかしな子」扱いされるので、
「喋らないフリ」をしました。

ふつうの擬態をするのに必死でした。

全く喋らないわけでもないので
喋らない自分のことを責めたりもしました。

「なんでふつうにしゃべることができないの?」と。




緊張の中で、頑張って絞り出した声は
かすれておかしな声で…。
それがまた緊張の火種となり、悪循環。

『喋れない』ということは

『コミュニケーションがとれない』ということ。

ともだちなんてできません。

かろうじてともに過ごせる部活仲間がいたかなー。




あまり喋らないで学校生活を14年間、
ふつうの社会生活を送るべく
休まずに行ったけど、
色に例えるなら


【真っ黒】

な時代でした。

よくもまあ、休まずに行ったもんだ。

わたしにとって

当たり前に喋れることが

羨ましくてしょうがなかった。


ふつうに喋りたい!

でも「ふつうの人」は
そんな悩みないよね。




わたしはふつうじゃないんだ…

誰かがたまに

「悩みごとは誰かに相談してみよう」


とか


「悩みなんて大したことないと笑い飛ばしてもらおう」

とか言うけど、

それを聞くとむちゃくちゃ腹がたつので、
なんでかなーと思ってたけど、思い出した。


「お前らふつうのニンゲンは相談できるんじゃん!
愚痴れるじゃないか!
言いたくても喋れないニンゲンはどーすればいいんだよ!
声に出せなくて、どう理解してもらえばいい?
話すことすら苦痛なのに、相談できるわけないだろ!」


という怒りがあったんだね。


「喋れない」という常人には理解しがたい問題
(本人ですら理解できないこと)を
どう話して、理解してもらえるというのか?





そもそも原因も不明なので、
本人は自分を責めちゃう。
誰かのせいとか、環境のせいとか
わかりやすい原因がないのもツライ。

本人は辛くても必死になって隠すので、
表面化しない。

周りも「無口な子」「一人が好きな子」
程度の認識になりやすい。





ホント、どーすりゃいいんでしょうね?


喋りたくても喋れない、あの辛さ。
喉まで言葉がでかかってるのに
声にならないもどかしさ。


喋れるのになんで喋らないの?
というプレッシャー。





よく頑張ってここまできたね。
学校生活はホントしんどかった!
「ふつう」はいいよね。
あこがれの当たり前。

「理解してくれるひとは誰もいない」

という諦めと

「辛くても伝えることができない」

という虚無感と恐怖。

そんな中、こどものわたしは生きてきたのか!


と今さらながらにおどろいた。




どうしようもない孤独はそれだったのね。


小さなわたしが、見つけてもらいたくて
時折顔を出します。


ただただ抱きしめてあげるだけ。



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