負け犬の遠吠え 支那事変5 文民統制、なぜできぬ
明治時代、日本政府の要職は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩など「薩長土肥」による「藩閥」によって占められていました。
初代総理大臣から第11代まで、すべてこの藩閥出身から就任していたのです。
しかし第12代総理大臣に西園寺公望(さいおんじ きんもち)が就任すると、今度は桂太郎と西園寺公望が交互に総理大臣を務める「桂園時代」が訪れます。
藩閥政治の桂内閣に対し、西園寺は政党政治を目指しました。
とはいえ、西園寺内閣は全て政党・立憲政友会のメンバーで固められたわけではなく、軍閥、官僚などに配慮した組閣しかできませんでした。
しかしこのような時代の流れは藩閥政治への批判の下地となり、大正デモクラシーへと繋がり、日本の政治は政党政治による「議院内閣制」へと変わって行きました。
選挙によって議員が選ばれ、議会の信任によって内閣が成立するという「下から突き上げる」形での政治が実現したのです。
ですが大日本帝国憲法では「議院内閣制」は採択されておらず、内閣が議会に対して責任を負うのではなく、各大臣がそれぞれ天皇に対して責任を負う事が定められていました。
その為、日本に芽生え始めた「民主主義」には後に綻びが生じることになります。
それでも欧米諸国から「200年はかかる」と言われていた民主主義を、明治維新以降のわずか数十年で形にした事は誇るべき事だと思います。
「戦争に負けた軍国主義の日本は、アメリカから民主主義をもらった」
などと教え込まれてきましたが、それが真っ赤な嘘である事がおわかりいただけると思います。
しかし、大日本帝国憲法下において、軍を抑制できなかった事も事実です。
国家は秩序を保つための最終的な強制力として「軍隊」を保有します。
政府と軍隊の関係によっては、しばしば軍の意向が政策に強く反映されたり、時としてクーデターの発生に繋がったりするのです。
今回は、戦前の日本の政治の裏で、軍部がどのように動いていたかを書いて行きたいと思います。
「かつては藩閥が牛耳っていた」という状況は、政治だけでなく陸軍でも見られました。
そもそも日本陸軍は薩摩藩、長州藩が築いたものですが、明治時代には「長州出身でないと出世できない」と言われるほど、長州藩閥の天下になっていました。
当然のように、それに反発して長州閥に対抗するための派閥を組む者も出てきます。
欧州へ出張していた「岡村寧次」
スイス駐在武官の「永田鉄山」
ロシア駐在武官の「小畑敏四郎」
この3名は、ドイツの保養地バーデン=バーデンにて国防論に花を咲かせ、長州閥を打倒し軍部の人員を一新させ、国家総力戦が行える体制づくりを目指そうと誓い合いました。(バーデン=バーデンの密約)
彼らは日本へ帰国後、積極的に勉強会を開くようになります。
すると次第に賛同者が増えて「二葉会」「木曜会」といったグループが出来、それらは合流して「一夕会(いっせきかい)」という大きな派閥となります。
一夕会はやがて陸軍の重要ポストを占めるほどにもなりました。
その中には河本大作、石原莞爾、板垣征四郎なども名を連ねており、「満州事変」という構想は一夕会によって構想、実行された事が伺えます。
少し話をさかのぼります。
第一次世界大戦の後、世界中が軍縮傾向にある中、日本では海軍のみならず、陸軍でも軍縮が行われていました。。
三回に渡る軍縮の結果、陸軍は常時兵力の三分の一に当たる10万人を削減し、浮いたお金で軍備の近代化を進める事ができました。
この軍縮は宇垣一也陸軍大臣によって決定された為「宇垣軍縮」と呼ばれ、陸軍省動員課長を任された「永田鉄山」によって推し進められました。
永田鉄山は、第一次世界大戦の時には観戦武官として欧州各国の軍事力を目の当たりにし、日本の軍備の遅れを肌で感じ取っていたのです。
しかし一方で、軍縮などとんでもない、ソ連の軍備が整う前に撃退すべきだ、と主張する「荒木貞夫」のような対ソ戦論者も現れました。
荒木はシベリア出征に赴いた時に、共産主義者達の残虐さと脅威を目の当たりにしていたのです。
急激な軍縮が、このような意見の食い違いを浮き彫りにし、派閥抗争が激化する原因となってしまいました。
そのような状況の中、昭和恐慌が吹き荒れていた1930年9月、一つの派閥が結成されました。
橋本欣五郎中佐、坂田義郎中佐、樋口季一郎中佐
などの佐官級の将校10数名が発起人となり発足したその派閥は「桜会」と呼ばれました。
陸軍参謀本部や陸大出身などの「エリート」が集まったメンバーの中心には「橋本欣五郎」がいました。
彼はロシア革命やトルコ革命などに刺激され「趣味が革命」と言われるほどのヤンチャな(?)人物でした。
そんな橋本欣五郎は、桜会の目的を「国家改造」と定めます。
恐慌による貧困、学生の愛国心の欠如、不健全文化、左翼思想の蔓延などの社会現象は「政党政治の腐敗」が原因であるとし、軍主導の政治体系を築こうと考えたのです。
「秘密結社」として組織されていた桜会でしたが、その存在は軍の上層部にも薄々気づかれていました。
しかし上層部にも「一夕会」など軍部内で派閥を組んだ経験がある者が多く、黙認されるどころか軍務局長の小磯国昭のように、むしろ支援する者が現れるほどでした。
1931年3月、桜会は一万人の民衆を扇動してデモを起こし、議会保護の名目で軍隊を動員して議会を包囲、現内閣に総辞職させて陸軍大臣「宇垣一也」を首班に据えた軍事政権の樹立を企てました。
しかしデモの予行演習で予想以上に人が集まらず、さらに宇垣一也や小磯国昭の心変わりなどもあってこの計画は頓挫してしまいます。(三月事件)
実はこの計画、陸軍内部だけでなく、「大川周明」という民間人も参加していました。
大川周明は山形県出身の思想家で日本主義、社会主義、アジア主義の観点から人材育成を行い、様々な政治家や活動家に影響を与えていました。
三月事件の際には、大川は宇垣一也に「混乱した日本を救うのはあなたしかいない」と焚きつけるような書簡を送っています。
さて、計画が周囲にバレバレで中止に追い込まれた三月事件でしたが、陸軍は箝口令を敷いて首謀者に何の処罰も与えませんでした。
この為、「クーデター計画を立てても何の処罰もない」「陸軍首脳もクーデターを望んでいるのではないか」という誤った認識が軍内部で浸透してしまいます。
そこで「趣味が革命」橋本欣五郎は再び立ち上がります。
1931年9月、満州事変が勃発した時、政府は「事変不拡大」の方針を打ち立てました。
橋本欣五郎はこれを不服とし、満州事変をアシストする計画を立てます。
軍隊を動かして首相たちを暗殺し、「満州が日本から独立する」という電報を政府に送り、クーデターを誘発しようとしたのです。
この時に首相候補として担ぎ上げられたのは「荒木貞夫」です。
ちなみに大川周明は大蔵大臣になる予定でした。
この計画には、もう1人重要な人物が新たに参加していました。
「北一輝」です。
彼はよく「右翼思想家」と評されますが、彼の思想はマルクス主義に傾倒した社会主義であり、大日本帝国憲法を批判して著書が発禁処分になったりするほどでした。
北一輝は、日本で革命を起こすならば、皇室の存在のもとで合法的に行うことが望ましいと考え、数々の思想家、社会主義者たちと親交をもち、多くの人間に影響を与えていく事になります。
「国家観」と「社会主義」が融合した「国家社会主義」の重鎮であると言えます。
そんな北一輝や海軍も巻き込んで進められたクーデター計画は、三月事件の反省も踏まえて秘匿的に進められました。
彼らにとって、満州事変を成功させることは、満州に居留する日本人を救うだけでなく、辛亥革命以降、支那人から差別されていた満州民族をも救い、さらには支那全土を救い、東洋平和の実現につながるはずだったのです。
結局、このクーデター計画も陸軍の中枢にバレてしまい、中心人物が一斉に検挙され、桜会は解散する事になりました。(10月事件)
とは言え、処分はまたも甘いものになり、事件の責任はうやむやになってしまいます。
「三月事件」「十月事件」この二つの国家転覆計画は失敗したものの、思想家・活動家たちに大きな影響を残しました。
翌年に起きた「血盟団事件」の、「政財界の要人を暗殺してクーデターを誘発させる」という発想は、まさに「十月事件」そのものです。
【血盟団事件についてはblog-post_8.html】
実は血盟団事件の首謀者である井上日召は十月事件にも参加しており、その意思を受け継いでいたのでした。
この事件で逮捕された血盟団の1人が、事件に使用された武器の供給先が「海軍」である事を供述しました。
彼らに武器を渡していたのは、海軍青年将校の「藤井斉(ふじい ひとし)」だったのです。
血盟団事件が起こった時、藤井は既に上海事変で戦死していましたが、藤井は死ぬ前に「後を頼む」とその無念を遺言として残し、それを知った海軍の同志によって、ある事件が引き起こされる事になります。
「五・一五事件」です。
この事件は、その名が示すように1932年の5月15日に起こりました。
海軍の青年将校4名、陸軍士官候補生5名が首相公邸に突入、首相の犬養毅を銃殺したのです。
首相公邸の他にも内大臣官邸、警視庁、変電所などが襲撃されますが、被害は軽微なもので済みました。
そしてこれらの襲撃に参加した者の中には、血盟団の残党が含まれていました。
※写真は首相官邸に突入した青年将校「三上卓」
当時の海軍といえば、1930年に行われたロンドン軍縮会議などによって軍縮が進められていました。
それに伴って、海軍兵学校は入学者を減らし、兵士達は休暇を与えられるようになりました。
まるで「お払い箱」になったかのような扱いを受ける中で、彼らの不満は政府に向けられる事になります。
国防を軽んじ、自己の利益ばかりを追求する政財界の連中を一掃し、日本を改造すべきなのだ、という信念が彼らを突き動かしたのでしょうか?
しかし、金解禁を行なって日本を「昭和恐慌」へと引きずりこんだ浜口内閣、恐慌に対して成すすべもなく、満州事変の収集をつける事もできなかった弱腰外交の「若槻内閣」は終わり、時代は「犬養内閣」の時代に移っていました。
犬養内閣の時代には「第一次上海事変」が勃発した為、海軍にもしっかりと活躍の機会が与えられましたし、高橋是清蔵相によって的確な経済政策が施され、経済的混乱は終息へ向かっていました。
つまり、海軍青年将校達が犬養内閣を攻撃する理由などなかったはずなのです。
彼らに政局、政情を冷静に判断する能力がなかったのか、国家社会主義というイデオロギーに取り憑かれてしまっていたのかどうかは定かではありませんが、五・一五事件は間違いなく日本を戦争へのレールに乗せることになりました。
実行犯や関係者は実刑を受ける事になりましたが、それでも処分は軽く、誰1人死刑にならない甘い判決が下されます。
この時、大川周平も5年の有罪判決を受けて服役しています。
「政治家が軍に命を奪われたのに死刑にならなかった」という事実によって、日本の政党政治は終わりを告げる事になりました。
犬養首相の死後、政党から総理大臣を選ぶことができず、それ以に政党党首から総理大臣が任命される事はありませんでした。
これまで軍部や民間団体による国家転覆計画を書いてきました。
それぞれは一つの連続した流れのように見えますが、実は出来事の「系譜」に差があります。
三月事件、十月事件などは「陸軍」によるクーデター未遂でしたが、血盟団事件や五一五事件は「海軍」によるものなのです。
つまり、未遂に終わり続けていた陸軍には革命の機運がまだくすぶり続けている状況でした。
当時の日本には、「天皇機関説」という考え方が浸透していました。
1900年頃から、「国を法人とするならば、天皇は会社を治めるための最高機関である」という考え方が唱えられ始めたのです。
日本が政党政治への歩みを進める中で、ある意味では理にかない、時代の変化にそぐうものであったのかも知れません。
しかし「天皇は国家を超越した存在である」という大日本帝国憲法本来の考え方と、「天皇は社長みたいなもんだよ」という天皇機関説の考え方は大きく乖離しており、政党政治を打倒しようとする軍内部の急進派達にとっては、到底受け入れられるものではありませんでした。
景気が悪く、国民が貧しくなると「政治家が悪い、金持ちが悪い」という考え方が広がるのは今も昔も変わりません。
昭和恐慌の中、「政党政治は腐敗している!」という考え方が軍内部の青年将校達を中心に増えていきます。
政治が腐敗した現状を打破するには、天皇のそばにいる悪い奴等「君側の奸」を討ち、天皇親政による、天皇を中心とした社会を取り戻すことが大切だと唱え、青年将校達から熱狂的に支持されたのは「荒木貞夫」です。
犬養内閣において陸軍大臣となった荒木貞夫は、自分の派閥で要職を固め「皇道派」と呼ばれる事になります。
そして永田鉄山など、「軍縮して軍備の近代化を図る」と考えていた一派は荒木人事に追いやられてしまい、皇道派に対抗する「統制派」になりました。
「驕る平家も久しからず」と陰口を叩かれるほど勢力を伸張させた皇道派の中心であった荒木は、犬養内閣に続いて、斎藤内閣においても陸軍大臣を務めましたが、決して政治手腕に長けていたわけでもなく、大臣の任期末期には陸軍省からの信用を失っていました。
さらに、青年将校達の「君側の奸を廃して天皇親政の社会主義国家を作る」という動きは、当然ながら政財界から「危険思想」とみなされており、荒木貞夫は青年将校達に自重するように求め続け、青年将校達を失望させました。
四面楚歌になった荒木貞夫は1934年に陸軍大臣を辞任します。
同じく皇道派の中心人物であった「真崎甚三郎」を後任に推薦しますが、強い反対にあって断念、「林銑十郎」が陸軍大臣に就任する事になりました。
それどころか真崎甚三郎はその翌年、軍事務局長に就任していた永田鉄山によって悪評を流布され、更迭されていましました。
荒木貞夫の辞職、真崎甚三郎の更迭によって皇道派は政治基盤を失い窮地に立たされます。
しかしここで衝撃的な事件が起こります。
皇道派の「相沢三郎」が、真崎の不当な更迭に憤慨し、永田鉄山を惨殺したのです。
陸軍省内部という、政治の中心で起こった惨殺事件に世間は騒然としました。
この事件は皇道派の青年将校達を大いに刺激しました。
相沢三郎の公判は、彼を支持する者達の独演会と化し、その翌日に「二・二六事件」が発生したのです。
1936年2月26日、1400名の将兵が首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、侍従長の鈴木貫太郎に重傷を負わせました。
総理大臣の岡田啓介は脱出に成功し事なきを得ましたが、秘書が身代わりに殺され、さらに銃撃戦によって数名の警官が殉職する事になりました。
この事件は皇道派の青年将校達による「クーデター」であり、彼らによって永田町は占拠されてしまいました。
彼らの目的は
「国が滅びゆく元凶である政財界の要人を排除し、天皇親政の政権を樹立する事」
ですが、クーデター決起のタイミングや、襲撃されて殺された者の中に統制派の陸軍大将、渡辺錠太郎が含まれていた所をみると、この事件の真の目的は「皇道派が勢力を挽回する為」とも考えられます。
要するに、二・二六事件は「陸軍の内部抗争」が飛び火しただけなのです。
結局、決起した青年将校達には、要人達を襲撃したその後のビジョンが全くありませんでした。
「自分たちを支持する上層部が動いてくれる」という淡い期待を抱いていました。
当初は陸軍上層部の中でも彼らに同情的な声もあり、事態が収拾する気配は一向にありませんでしたが、その煮え切らない陸軍を動かしたのは他でもない、「昭和天皇」でした。
昭和天皇は事件に激怒し「朕自ら近衛師団を率いて此れが鎮圧に当たらん。馬を引け」とまで発言すると、陸軍上層部も掌を返します。
青年将校達を「決起部隊」と呼んでいたのに、いきなり「反乱軍」と呼ぶようになり、戦車をも出動させて大軍で彼らを包囲します。
ちなみに海軍は、いち早く出動して動向を伺っていました。
総理大臣の岡田啓介、内大臣の斉藤実、侍従長の鈴木貫太郎らは全て「海軍出身の政治家」だったので、この事件は海軍に対するクーデターだと捉えられていたのです。
お台場沖に40隻もの軍艦を展開し、国会議事堂に主砲の照準を定めていたと言われています。
そして包囲された反乱軍には、ビラやアドバルーン、ラジオ放送などあらゆる手を使って投降を呼びかけられました。
これによって続々と投降者が出た為、反乱はわずか4日間で終息することになります。
大多数の将兵が「何も知らされずに集まり、反乱に加わった」者達でした。
二・二六事件の中心人物たちは自決せず、裁判で自分たちの正義を世に知らしめるつもりでした。
しかし裁判は「一審制」「上告なし」「弁護人なし」「非公開」という残酷なもので、17人の将校全てに死刑判決が下りました。
彼らは「天皇陛下万歳」と叫びながら銃殺されたと言われています。
皇道派の思想の柱となっていた「北一輝」ら民間人も一年後に処刑される事になり、皇道派は事実上消滅します。
・高橋是清がいなくなった事で、軍事費の膨張を抑え込める人物がいなくなった
・ただでさえ悪くなった陸海軍の仲が、決定的に悪化した
・陸軍内での自浄作用が働かないことが露呈した
二・二六事件はその後の日本の運命を決定づける事件となりました。
今回まとめた「三月事件」から「二・二六事件」までの一連の事件は、日本に生まれた政党政治の芽を完全に摘み取ってしまいました。
私は、時代にそぐわなくなった憲法を変えなかった事も、政治が混乱した原因の一つではないかと考えます。
1890年に施行された大日本帝国憲法は、1930年の日本の政情とはあまりにもかけ離れていたのです。
さて、現在の我々も70年以上変化のない憲法を抱えていますが、1930年代の動乱に思いを馳せて、現在の我々に照らし合わせてみる事が必要かとも思います。