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負け犬の遠吠え 満州事変3 中華民国という名の「まぼろし」

1914年、孫文は袁世凱の軍事力の前に歯が立たず、日本へ亡命しました。

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抵抗勢力を蹴散らした「袁世凱」が大統領に就任し、「辛亥革命」は結局「清」の代わりに袁世凱の独裁政権が誕生しただけ、という結果に終わってしまったのです。

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袁世凱は「中華民国をまとめ上げるには強権を振るうことが必要」と考えていたようですが、当時の国内世論は「議院内閣制」のような分権制を支持していました。

そして1915年、日本からの「21ヶ条の要求」を受け入れると、この姿勢は「弱腰」と受け止められ、袁世凱の威信は地に堕ち、政情はより一層不安定になります。

袁世凱はこの状況を打破するために、中華民国を「共和制」ではなく皇帝が存在する「立憲君主制」にし、これまでのように皇帝を中心に国を一つにまとめ上げる必要があると考えました。

そこで袁世凱は、1916年、自ら皇帝に即位し国号を「中華帝国」に変更します。

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これに対する国内外の反発は非常に大きく、各方面から非難を浴びた袁世凱は3カ月足らずで退位を余儀なくされ、失意のまま同年6月に病死しました。

しかし独裁者・袁世凱が死去した後の中華民国に、政府を統一できる人物はいませんでした。

こうして、中華民国は各軍閥による政権争いが勃発し、長い内戦に入る事になったのです。

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中華民国の実権を袁世凱に奪われて日本へ亡命していた「孫文」は、袁世凱が死去した事によって帰国します。

「江西派」「雲南派」等の軍閥の支持を受けた孫文は「中華民国広東政府」を樹立し、袁世凱の作った「中華民国北京政府」に対抗しました。

広東省は支那南部の地域です。

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しかし軍事政権である広東政府の中において、軍事的基盤を持たない孫文は実権を握ることができなかった為、孫文は海軍に命令してクーデターを図りました。

ところが逆に江西派に追い出されてしまい、孫文は上海へと逃亡する事になります。

そんな孫文に再び活力を与えたのは、「五四運動」によって学生たちの間で広がる抗日愛国運動でした。

五四運動の中で、「帝国主義打倒」「民族自決」の仮面をかぶった共産主義は確実に支那の若者達に浸透していき、その中で孫文もまた、共産主義に影響を受けるようになっていきました。

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孫文はロシアの「ボリシェビキ」をモデルとした革命政党を目指して「支那国民党」を結成します。

支那での共産主義拡大を狙うコミンテルンは孫文と接触し、支那国民党はコミンテルンから「ミハイル・ボロディン」を政治顧問として迎え入れました。

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そして1921年には、コミンテルン主導のもとで「支那共産党」が設立されます。

国民党と共産党、実はこの二つの党はコミンテルンを母親とした「異母兄弟」のような関係なのです。

コミンテルンは、まずは支那での共産主義勢力の拡大を目論みます。

出来立てホヤホヤで党員もわずかしかいない共産党に対し、国民党は10万人以上の党員がいました。

支那共産党を指導していたソ連の外交官「アドリフ・ヨッフェ」は孫文に接触し、「孫文=ヨッフェ共同宣言」を発表します。

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この共同宣言の内容は、

「ソ連は中華民国の統一を応援するよ!!」

「ソ連に侵略の意図はないよ!!」

「別に共産主義にならなくてもいいよ!」

という、孫文にとっては非常に都合の良いものでした。

ソ連からしてみれば、支那の共産主義化にはまだまだ時間がかかると見て、まずは孫文を支援して民族自決運動を推進させようとしたのでしょう。

何はともあれ、孫文はどんどんソ連に傾倒していき、1924年に「国共合作」を打ち出しました。

国共合作とは、「共産党に籍を置いたまま、国民党に入党できる」というものです。

国民党に入り込んだ共産党員は、じわじわと国民党を侵食していく事になります。

まさに「庇を貸して母屋を取られる」という諺がピッタリなこの国共合作ですが、これを孫文に進言したのは、コミンテルンの工作員、ボロディンでした。

1925年、癌に侵されていた孫文は「革命なお未だ成功せず」の言葉を残して死去してしまいました。

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国民党内では孫文の死後、権力争いが起こります。

幹部の暗殺や、国民党内部の「容共派」と「反共派」による対立もありました。

同年、上海にある日系企業の工場で、支那人労働者が待遇の改善を求めて暴動を起こします。

工場側がこれを鎮圧した際、共産党員であった労働者が射殺されて他にも重軽傷者が多数出てしまいます。

この事件をきっかけとして5月30日には大規模なデモが発生しましたが、日本やイギリスなど各国は、租界を守るために強硬に対処し、多数の逮捕者と死傷者が出ました。(5・30事件)

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この事件により、帝国主義に反発する民族主義の意識は支那全土で高揚し、国民党を後押ししました。

国民党は「汪兆銘」を主席に据えて「広東国民政府」を樹立します。汪兆銘は容共派であり、広東国民政府には「毛沢東」など共産党のメンバーも参加していました。

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そんな中、国民党を揺るがす事件が起こります。

「中山艦事件」です。

1926年、共産党員が艦長を務める国民革命党の軍艦「中山」が、広州の軍官学校の沖合に現れ、戦闘態勢に入ったのです。

この軍官学校の校長は、「反共派」の「蒋介石」でした。

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蒋介石は国民党内に蔓延していく共産主義に危機感を募らせており、容共派と対立していました。

蒋介石は、この中山艦の動きを、「共産党員たちが自分を拉致しようとしている」と解釈し、直ちに中山艦の艦長を捕え、党内の共産主義勢力を処罰しました。

この事件は国民党内部の容共派に圧力をかける事になり、共産主義勢力が支持基盤であった汪兆銘は激しく動揺し、フランスへ逃亡します。

こうして国民党は「反共」に傾き、軍の総監であった蒋介石が実権を握る事になりました。

総司令官に就任した蒋介石は、「北伐」を宣言します。

これは亡き孫文の悲願でもあり、敵対勢力を撃破しながら北上し、北京政府の打倒を果たして中華民国の統一を目指すものでした。

「国共合作」によってソ連の支援を受けていた国民革命軍は強く、急速に各地の軍閥を蹴散らして北上して行きます。

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これに伴い、1927年に入ると国民党は、政府を広州から武漢へ移す事にしました。

党内の反共派は蒋介石と共に北伐に同行していた為、この隙を狙って容共派の党員達はボロディンと結託し、蒋介石の権力を剥奪しようと企みます。

彼らは予定されていた遷都よりも一足早く武漢へ入城し、容共派を中心とした「武漢国民政府」を宣言し、汪兆銘をフランスから呼び戻しました。

国民党を共産主義者達に乗っ取られた蒋介石は、共産主義に対して徹底抗戦することを表明します。

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そんな中、支那に住む日本人居留民が犠牲になる事件が立て続けに起こってしまいます。

1927年3月、北伐中の国民革命軍は上海と南京を占領しました。

南京への国民革命軍の入城は、最初は平和的に行われていましたが、次第に兵士たちが外国領事館や外国人居留地を襲撃し始め、暴行、略奪、破壊行為を行うようになります。

その結果、日本、アメリカ、デンマーク、イタリア、イギリスなど各国の居留民に死傷者が出ます。

日本人婦女は子供に至るまで強姦されましたが、日本領事館には警備兵が10名しかおらず、助けを乞われても見捨てるしかありませんでした。

アメリカ軍とイギリス軍は報復として南京へ艦砲射撃を行いますが、日本の外務大臣「幣原喜重郎」は、事を荒立てれば共産主義者に利するのみだと考え、一貫して不干渉の姿勢を保ちアメリカやイギリスを説得しました。

しかしこのような日本の無抵抗姿勢は諸外国の信頼を失う事になり、嘲笑されてしまいます。

支那人は日本人を甘く見るようになり、「侮日感情」が高まる事になりました。

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この「南京事件」から10日後、南京の西方にある都市「漢口」で、日本人水兵2人が歩いていると子供に石を投げつけられて口論になりました。

日本人は完全に舐められてしまったのです。

この口論がきっかけで支那人達は暴徒化し、日本人が経営する商店を破壊し、日本人居留民は暴行を受け、次々と殺されていきました。(漢口事件)

もはや漢口は日本人が住める街ではなくなってしまい、日本人居留民の大多数が帰国を余儀無くされてしまいました。

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実は「南京事件」「漢口事件」の糸を引いていたのは、共産主義者達でした。

国民革命軍の内部に入り込んだ共産党分子が騒動を起こす事によって、蒋介石を失脚させようとしたのです。

共産主義者達の残虐性を目の当たりにした蒋介石は、北伐を中断して上海の共産主義者数千名を粛清しました。(上海クーデター)

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これに呼応して各地で共産主義者の粛清が始まり、共産主義勢力が薄まった武漢国民政府ではボロディンをはじめとするソ連顧問団が罷免され、国共合作は終了する事になります。

蒋介石は「南京国民政府」を立ち上げ、共産主義者達を排除した武漢国民政府と合流、蒋介石は再び国民党を一つにまとめ上げ、北伐を再開する事になります。

さらに北進を目指す国民党に立ちはだかるのは、山東省以北を支配する軍閥、奉天派の張作霖です。

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国民革命軍の北伐再開を知った日本は、自国民を守れなかった「南京事件」「漢口事件」の反省を踏まえ、居留民の保護、治安の維持を名目として、山東省の済南に3500名の日本兵を集結させます。

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日本軍は守備区域を設定し居留民を保護し、その中に支那人兵を入れないようにして治安を維持しました。

1928年の5月1日、奉天派の守る済南は国民革命軍によって陥落します。

すると翌日、蒋介石から「治安は我々が確保するので、日本軍は防御を解いてほしい」という要望があり、日本軍の警備司令官はこれを受け入れてしまいました。

しかし5月3日、国民革命軍の兵士たちは日本人居留民を襲撃し始めます。

日本人居留民12名が死亡し、その遺体は異常な程、筆舌に尽くしがたい程、過度に損壊していました。

そして日本軍と国民革命軍は戦闘になり、日本軍は26名の死者を出しました。

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日本軍は山東省への増派を行い、山東省を完全に占領しますが、中華民国の反日世論は増大し、翌年に日本軍は撤退する事になります。

国民革命軍はその後、日本軍との衝突を避けるように迂回して北伐を続行していきました。

さて、今回の話の中で、「政府」となのつく単語はいくつ出てきたでしょうか?

中華民国北京政府、中華民国広東政府、広東国民政府、武漢国民政府、南京国民政府・・・

「中華民国」とは、決して近代的な「統一国家」ではなかった事に気をつけなければいけません。

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