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負け犬の遠吠え 大東亜戦争57 沖縄の戦い④ 第二防衛線 反斜面地獄

【伊祖高地の戦い】

嘉数高地で大激戦が展開されていた4月18日、米軍は第一防衛線西端の攻略を開始します。

米軍は煙幕に紛れて牧港河口を渡河する事に成功、伊祖高地の崖下に集結します。

米軍は日本軍の文書を手に入れており、そこには「米軍は夜間は射撃はするけど夜襲は行わない」と書かれていました。

米軍はこれを逆手にとって闇夜に紛れて崖を登って夜襲をかけ、日本の警備兵を一掃します。

19日、米軍は伊祖付近の日本軍守備隊に対し攻撃を仕掛けます。これは日本軍にとって奇襲となり、伊祖高地より北側の稜線は米軍に占領される事になりました。

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20日夜間、日本軍は伊祖高地を奪還すべく3つの小隊による夜間攻撃を行います。
しかし第一小隊は「ほぼ全滅」、第二小隊は「生存者なし」と高地へたどり着くことはできませんでしたが、第三小隊伊祖北側高地へとたどり着く事ができ、独立臼砲第一連隊と合流する事に成功します。

21日から22日にかけて両軍の死闘が繰り広げられ、日本軍はなんとか米軍の進出を阻止する事ができていました。

23日には激しい白兵戦となり、30分の戦闘で100名以上の日本兵が戦死します。

その夜、日本軍は30名の残存兵力で敵前線へ突撃して全滅。

伊祖高地での戦闘が終了し、米軍は戦力を激戦地区の「嘉数」へ集中させる事ができるようになりました。

沖縄第一防衛線はこれによって完全に崩壊する事になり、沖縄戦は「第二防衛線」を守る戦いへと移行していく事になります。

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【城間の戦い】

19日に牧港河口の渡河に成功していた米軍の中には、伊祖高地攻略とは別に、そのまま西進して「城間」の攻略に取り掛かった部隊もありました。

城間には米軍に「アイテムポケット」と呼ばれた強固な地下要塞があり、米軍は城間北部の高地にたどり着くことができずにいました。

アイテムポケットは激しい砲爆撃にも耐え、米軍が接近すると機関銃、迫撃砲、手榴弾が雨あられのように降り注ぎ戦車すら忽ちにして破壊される地獄と化すのです。

米軍は多数の死傷者を出しながらも、四方八方から包囲して攻撃を加えることによって27日にようやく攻略に成功します。

陸軍のあまりにも遅い侵攻速度によって連隊長が解任されるなど、米軍にも焦りが見え始めてきました。

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【宮城・仲西の戦い】

このような状況の中、当初は沖縄本島北部を担当していた米軍海兵隊も、陸軍の負担軽減のため西海岸へ投入される事になります。

日本軍は戦力の充実した新たな部隊の遭遇に、更なる苦戦を強いられるのでした。

4月30日、城間を少し南下した場所にある、宮城地区以西の陸軍南飛行場へ米軍海兵隊が進出してきましたが、日本軍はこれに激しい砲撃を加えて撃退します。

5月1日、今度は米軍は戦車を伴って攻撃を加えてきます。

米軍は宮城地区の民家を徹底的に破壊し占領しますが、日本軍の抵抗は執拗で、この日も結局撤退せざるをえませんでした。

しかし2日以降、米軍の激しい攻撃によって数日間に渡る一進一退の激戦が続いた末、5月6日には安謝川北岸までの一帯は完全に米軍の手に堕ちる事になったのです。

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【前田高地の戦い】

前田高地は第二防衛線の中央部にあたる要衝でしたが、新鋭の部隊が配備されておらず、第一防衛線の嘉数や西原から後退してきた部隊が守備についていました。

さらに前田高地は後方兵站部隊や司令部が置かれていたため、戦闘のための防御機能を有した陣地が構築されていませんでした。

しかし米軍にしてみれば、そびえ立つ前田高地の岸壁「為朝岩(ニードル・ロック)」を制覇する事こそが、沖縄攻略、日本本土攻略への第一歩であると象徴づけられており、前田高地の戦いこそが沖縄戦の勝敗を決定づける大事な一戦であると位置付けられていました。

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4月26日、周到な事前砲撃を終えた米軍は、前田高地に対し正面から攻撃を仕掛けます。

米軍の歩兵隊は無傷で前進する事ができましたが、岸壁を登り終えた直後に猛攻撃を受けて一気に18名が戦死する事になります。

日本軍は防御機能の未熟な前田高地を、反斜面陣地として活用したのです。

米兵が崖を登り終えて稜線に辿り着くたびに戦死者が出るため、米軍は思うように侵攻する事ができなくなってしまいました。

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翌27日、米軍は戦車による火炎放射で地下壕に潜む日本兵を厄払いながら前進しますが、日本軍の反撃も凄まじく、全線にわたりほとんど進軍する事ができませんでした。

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前田高地の頂上をめぐる戦闘はその後も数日に渡って行われ、両軍とも大きな損害を被りました。

米軍の第381連隊は戦闘能力が40%にまで低下、1000名を越える死傷者のうち半分はこの前田高地の戦闘によるものでした。

米軍の砲爆撃が行われている間は南側の斜面の陣地に隠れてやりすごし、北側斜面を登ってきた米兵が頂上に現れると壕から出て攻撃を仕掛ける、という戦法をとってきた日本軍でしたが、5月4日、日本軍は総攻撃を行い600名が戦死するという大損害を受けてしまいます。

米軍は日本軍の地下陣地を爆破しながら南下を開始、前田高地の戦闘は6日に集結します。

この戦いの最前線で活躍した衛生兵のデズモント・T・ドスは名誉勲章を授かる事になり、2016年には彼を題材にした映画「ハクソー・リッジ」が製作されています。

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【小波津・幸地の戦い】

前田高地の東側にある「小波津」「幸地」の守備に当たった日本軍は、第24師団です。
第24師団は沖縄南方からの上陸に対処するために展開されていたため、ほとんど無傷でした。

さらに幸地には強固な反斜面陣地が構築されており、15日間にも及ぶ壮絶な肉弾戦が繰り広げられる事になります。

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4月26日、米軍は幸地、小波津地区への進出を開始します。

日本軍は周囲の高地から事前照準を完了していた為、米軍はその正確な砲撃の餌食になります。

激しい砲撃下では米軍の大隊はそれぞれ連携を取り合うこともできずに単独で戦闘を行い、目標の稜線にたどり着けた者は誰1人いませんでした。

翌日には米軍は戦車を伴い攻撃を仕掛けてきます。

この日も日米双方に多大な死傷者が出たものの、米軍は一歩も前進する事ができません。

その後も日本軍は善戦を繰り返し、陣地を確保し続けますが、徐々に米軍に押され始めてきます。

日本兵は火炎放射器や戦車の攻撃を凌ぎつつも、不眠不休で疲れ切っていました。

部隊交代している米兵達を見た日本兵は、それを羨ましがる事しかできません。自分たちには補給も交代要員もないのです。

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【総攻撃】

第32軍参謀長、長勇少将は、日本軍がまだ攻撃能力を有しているうちに攻勢に転じ、戦局を変えるべきだと主張しました。

持久戦を展開し、米軍の侵攻を少しでも遅らせていた今までの方針とは全く異なる案でした。

寝技作戦の提唱者である高級参謀・八原大佐は激しく反対しましたが、司令官である牛島満中将が賛成にまわった事により、日本軍による総攻撃が決定されてしまいます。

日本軍の統帥機関である大本営や、第32軍を管轄する第10方面軍や、海軍などから「消極的すぎる」と沖縄での第32軍の戦いぶりは猛批判を受けていたのです。

昭和天皇ですら「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか?」と下問されるほどで、上からの圧力に屈した形で沖縄の第32軍は無謀な総攻撃を行う事になったのです。

八原は、「米軍は、日本軍の事を『兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、上級幹部は愚劣』と評しているようだが、実際は上から下まで多くの指揮官が本質的な知識と能力に欠けているのではないか」と嘆きました。

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5月3日夜、日本軍は反転攻勢に打って出ます。

米軍が太平洋戦線で経験した事のない程の大規模な砲撃を浴びせ、虎の子の戦車部隊を送り出して普天間付近までの戦線回復を目論みます。

大本営はこの総攻撃に乗じて九州・台湾の航空戦力を集結させて大規模な特攻作戦を行い、さらに沖縄の残存兵力を上陸用船艇などで海上から迂回させ、米軍の背後への逆上陸を試みました。

この日本軍の攻勢に、米軍は一時的に混乱に陥ったものの、圧倒的な火力兵器を使って反撃を行い砲撃を封じ込め、日本軍の侵攻を食い止めます。

逆上陸部隊も壊滅し、戦車部隊はほぼ全滅。

日本軍の総攻撃はわずかな戦果を挙げる事しかできませんでした。

この戦闘における日本軍の戦死者は6000名、米軍の死傷者は1000名となり、戦闘前に「日本軍は米軍の5倍の損害を被る」と言った八原の進言通りの結果になったのです。

第32軍の首脳陣はうなだれてショックを隠せず、牛島司令官は八原大佐に謝罪、以降の戦略を八原に一任する事を伝えます。

長勇参謀長もまた、八原に従うようになりました。

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しぶとい抵抗を続けていた幸地・小波津地区の部隊もこの総攻撃に駆り出され、小波津の守備隊は全壊的損害を出して撤退しました。

しかし幸地の守備隊はなんとか残存兵力を立て直し、抵抗を続けます。

ナパーム弾、ガソリン、火炎放射により陣地を焼き尽くされる中で日本兵たちは散発的に抵抗を行います。

5月10日、2900名いた幸地の連隊の残存兵力は250名にまで激減していました。

彼らは後方へ撤退、15日間続いた幸地の戦いは終わりを告げます。

日本兵達は撤退した翌日には後方の高地に陣を構え、再び戦闘に備えるのでした。

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5月8日、日本の同盟国であるドイツが無条件降伏します。

しかしそのニュースをラジオで知った沖縄の米兵達は関心を示しませんでした。

日本兵はこれまで通り、全滅するまで戦い続け、自分たちに向かってくることを確信していたからです。

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